13.玄絲(アラクネ) (5)
「━━━━っ」
燻った臭いが依然として彼女を呆然とさせたまま揺蕩っている。
もしも、目の絵で起きた出来事が、今からでも『夢』だと気付けたなら。ベッドの上でどれ程の焦燥に駆られたとしても、『よかった』と思えるだろう。
もしも、身体の覚えている『狙われた』『死ぬかもしれない』という寂念が、今からでも『夢だ』とリセット出来たなら、どれ程熾烈で悲惨でも笑い話に出来ただろう。
……けれども、違う。痛みで再確認せずとも、理都はもう分かっている。
これは現実だ。噴火を彷彿とさせる、荒の引き起こした火柱も、自らの命を奪おうとした男の黒線も。全てが嘘偽りの無いこの世界のスタンダードだ。
一歩、一手を間違えてしまえば。今自分達の立っていら場所まで崩落させかねない出来事が過ぎ去っていった。今でこそ消えているが、その痕跡は未だに黒く、赤くを明滅した虚穴として残っている。
「歩けるか?」
「……ちょっと、無理かも」
逸脱した事象に揉まれ、結果としてまだ立ち上がるには至らない理都の側まで歩み寄る荒。
緊張し、安堵し、困惑し、恐怖している。現実と幻想の板挟みは否応無く彼女に付け入り、刻々と彼女自身を蝕んでいく。
『これ以上、足を引っ張るのは嫌だ』。嘘偽りの無い心情を彼女は吐露した。……が、直視した惨状もまた然り。
━━足を引っ張るのは嫌だが、それ以上に、怖い。
死が、あまりにも近すぎた。
「なら、もうちょい目ェ瞑ってな。多分見たくねぇモン、これから見るだろうからな」
「!」
そして、離れる事が無い。まるで死神が其処ら彼処に一刃を担ぎ、常に頸を求め彷徨しているかの様に思える程、殺す事への躊躇が無い。
「ダメ……あの人は此処の人なんじゃないの…?
話せばきっと…話すのがダメなら命まで奪うなんてそんな…私の知ってる『人』じゃないよ…!」
「………」
「荒は…荒達にとって気に入らないヤツは皆…敵として見るの?理想郷のアレは…その…私も怖かったし、怪物と言われれば納得もした。
でもその人は……荒達の事が心配だったこその行動で、やった事は最低だけど…それでも……殺す事なんて…」
━━呼吸…というよりも溜息を一つ。荒は続ける。
「全員、前に進もうとして藻掻いてんだ。程度は違えどな」
「なら尚更…!!」
「だから全員に責任がある。リスクがある。超えるべきじゃねぇ一線もある。…んなもん避けられりゃ避けたいから、『こういう』輩も勿論いる」
男に目を向ける荒。
「口では俺等の信奉者を騙っちゃいるが、突き詰めた所で嘘は嘘だ。頭からケツまでコイツは自分の事しか考えてない。
大方……『理想郷』から直で仕入れてくる生活物資のお溢れか、俺等の威を借りたいか。そのどっちかで楽を謳歌したいだけだろう」
手に握られたヘッドギアと手袋。握る手には一層の力が入る。
「モノ言えねぇ死人を掘り返して口八丁宣っといて、況してや許されると思ってる。……んな輩を許せるヤツを俺は人とは呼ばねぇし、許すつもりもねぇ。
罰や報復なんてのは形は違えど、何処行こうがあるんだよ。……例え掃き溜めだろうとな」
「……っっ」
起きる気配の無かった男に、朧気ながら意識が戻る。
依然として、のたうち回る痛みに支配はされたままだ。全身の脱力から上手く動けず、逃げ出す為の手札がこれ以上なく不足している。
……逃がすつもりのない荒は肩に緋熾を載せ、握っていた手袋とヘッドギアを理都に渡す。
「持ってろ。そんでやっぱ見とけ。
『これ以上足手まといになりたくないなら』、何処で引っ付いたか知らねぇそのボケた平和主義を削ぎ落とす事だ」
一歩、一歩と距離が縮まる度、男の受ける『応報』の時間が近付く。怯え竦み、少しでも生き存えんとして、思うように動かない身体で土台を這う。
しかし、無慈悲にも。荒の携える一刀の熱からは逃れられない。落日のような暗色の切っ先が男を捉える事など、実に容易かった。
平静を取り戻す事は、これより先にあり得ない。
「…………(…この世界だと、私の方が異常なんだ…。やられたらやり返す……でも…それでもっ……)」




