第27話 出会い
「どうしてこうなったのかしら……」
木の上から中庭を眺め、フィーラはふぅっとため息をついた。
ステラの猫探しと時を同じくして、フィーラも中庭の散策をしていた。
マークスから聞いた「素敵な場所」は、生徒のほとんどが寄り付かない、騎士科の塔に近い中庭だった。
学園の中庭はメルディア家の庭園とは比べるべくもないが、様々な樹木や草花が生育し、野性的な魅力を放っている。木々の梢を通る風や、鳥の囀る声が耳に心地よい。
しばらくの間中庭に置いてあるベンチでぼうっとしていたフィーラは、微かな鳴き声を聞きつけた。どうやら子猫のようだ。とてもか細い、高い声。一生懸命に何かを訴えている。
――野良猫が子どもを産んだのかしら。
最初は親がいるなら大丈夫だろうと思って放っておいたが、子猫の鳴き声は一向に止む気配がない。フィーラはさすがに心配になり、子猫の姿を探すため、周囲を見渡した。しかし子猫の姿は見当たらない。
――どうしていないの? 鳴き声は近づいているのに……。
どこかに隠れているのだろうかと思い、草や梢をかき分け探したが、子猫の姿は見えない。
「もう、どこにいるのよっ。そんなに鳴いて……大丈夫なの?」
これでは子猫の無事を確認してからでないと寮に帰れないではないか。心身を癒すために訪れた筈なのに、フィーラの心は今とても焦燥している。
前世でも同じようなことがあった。仕事の帰り道、今のように、フィーラは微かな子猫の鳴き声を拾ったのだ。あの時は親猫がいるから大丈夫だと思い、家に帰ったのだが、翌朝フィーラは昨夜の己の行動を後悔することになる。
朝、子猫が気になったフィーラはいつもより早めに家を出て鳴き声がした辺りの道を探した。そこでフィーラは茂みに横たわる小さな子猫を見つけたのだ。
――あの後は仕事どころじゃなかったわ。わたくしの心が弱いのかも知れないけれど、どうしても、あの子猫の姿が頭から離れてくれなかった。
フィーラはあの時の苦い気持ちを思い出していた。ここで子猫を探すのを諦めれば、ぜったいに後悔する。子猫の無事な姿を見るまでは寮には絶対に帰らない。フィーラは心に決めた。
幸い、そのあとすぐに子猫は見つかったのだが、見つかった場所が問題だった。
「何でそんな所にいるのよ……」
小さな子猫は木の上で鳴いていた。しかもよく見ると足に怪我をしている。
「怪我をしているのにそんなところに登ったの? よく登れたわね」
一体どうしたものかフィーラは悩んだ。一瞬今から人を呼びに行こうかと思ったが、その途端子猫が枝から身を乗り出した。どうやら自力で降りようとしているらしい。人を呼びに行っている間に、もしかしたら猫が落ちてしまうかも知れない。そう思うと居ても立っても居られず、フィーラは覚悟を決めた。
――大丈夫。前世では木登りは得意だったわ。きっと今でも大丈夫よ。
そう自分を鼓舞し、フィーラは木の枝に手をかけた。
「完全な過ちだったわ……。木登りは技術ではなく、筋力の問題だったのね……」
登りは良かった。子猫もフィーラに怯えることなく、大人しく手の中に収まってくれた。だが子猫を抱いて降りようとしたところでフィーラの筋力に限界が来たのだ。
「わたくし全然体力なかったのね。クレメンスやリディアスに扉を半分開けられたことを自慢したばっかりなのに、恥ずかしいわ」
不幸中の幸いはフィーラの腕の中で眠る子猫の怪我が、大したことはなかったことだ。素人目で見ただけだが、前足に小さな掠り傷があるだけのようだ。それでもあまり素手で触れないよう、フィーラは子猫の身体の下に持っていたハンカチを敷いた。
問題は、このあとどうするか。大声で助けを呼べば誰か来てくれるだろうか。令嬢としては少々はしたないが、背に腹は代えられない。
「しょうがないわね。幸い騎士塔の近くだし、誰か来てくれるかも知れないわ。ちょっと叫んでみましょう」
フィーラが大きく息を吸い、いざ声を出そうとしたその時……。
「お嬢さん、何やっているの?」
足元から誰かの声が聞こえた。フィーラが下を向くと、騎士の訓練服を着た男がこちらを見上げていた。
少し長めの、黄金と称するに相応しい煌びやかな髪に、芽吹いたばかりの若葉のような淡い緑色の瞳をしている。騎士科の生徒にしては、年齢が合わない。教師だろうか。
「ご機嫌よう。騎士科の先生ですか?」
「そんなところ」
そんなところとはどんなところだ。教師ではないのだろうか?だが、この学園内にいる以上、怪しい者ではあるまい。
「何をしているのかというご質問ですが……わたくし木に登って降りられなくなっていたところです」
「ぶはっ。見たまんまだな」
男に笑われたことは不満だったが、事実なので仕方ない。それよりも、助けが来た安堵の方が大きい。
「あの、大変申し訳ないのですが、降りるのを手伝ってはいただけませんか?」
「ん? ああ、もちろんだよ。さて、どうするかな」
男は考え込んでしまった。それもそうだ。人を木から降ろすとなると、一人でできるものではないのかも知れない。
「あの、誰かほかの人間も呼んできてもらった方が……」
言いかけたフィーラの言葉を男が遮る。
「いや、大丈夫。君一人を降ろすくらいわけないよ。ただ、どんな方法が良いかと思ってね」
フィーラを降ろす方法。確かに降りるのを手伝って欲しいとは言ったが、実際フィーラが自力で降りる力がない限り、男に頼るしかない。フィーラは自分の考えなしが申し訳なくなった。自分で登る前に、大声を出して誰かを呼べば良かったのだ。
「申し訳ありません。ご迷惑をお掛けしますわ」
「いや? たいした手間ではないよ。お嬢さん、ちょっと怖い思いをするかも知れないけれど大丈夫かい?」
「ええ、もちろん。大丈夫です」
「良かった。ではそのままじっとしていて」
男がそういうや否や、フィーラの身体がふわりと宙に浮きあがった。
「え?」
枝から離れたフィーラの身体は、空中に放り出され、そのままゆっくりと下降した。
――精霊の力?
男は明らかに精霊の力を使っている。精霊士でない限り、精霊の力を使える者は限られる。精霊と契約出来る者が、必ず精霊士になるとは限らないが、その場合、ここまで強力な力を使うことは出来ない筈だ。だとすると考えられるのは――。
「あなた、もしかして聖騎士ですか?」
ゆっくりと地面に降りたフィーラは、目の前に立つ背の高い男を見上げ、問いかけた。
「一応ね」
先ほどからこの男は「そんなもの」だとか「一応」だとか、どうにも自分の身の上をはっきりと明示したくはないらしい。
確かに聖騎士ともなれば滅多にお目にかかれる人種ではないため、何かと注目の的になってしまう。男はそういったことを厭ったのかもしれない。
「ありがとうございました。お陰で助かりましたわ」
フィーラはそれ以上そのことには触れずに、男に礼を言った。
「ああ。気にしないで。それより、そのハンカチの中身何?」
男はフィーラの手元を見つめる。フィーラの手の中には、丸めた白いハンカチが収まっていた。宙に浮いた際、落とさないよう、とっさに子猫を包んだのだ。
「この子は……」
フィーラはゆっくりとハンカチを開いた。中には未だスピスピと寝息を立てる子猫が丸まっていた。
「この子が木の上で動けなくなっていたんです。どうやら怪我もしているようですし……。人を呼びに行こうかと思った矢先、この子が枝から落ちそうになって……」
「だから、木に登ったのか。無茶をするね」
「ええ、昔登ったことがあるから、大丈夫だと思ったのですわ。でも、登ったは良いけれど降りられなくなってしまって」
本当に、自転車のように、一度乗り方を覚えれば一生大丈夫だと勘違いしていた。しかしよくよく考えれば、前世と今世とでは体格にも体力にも差がある。そして、実際この身体で木に登ったことなど一度もないのだ。
「はは。なるほどね。木登りは登るときより、降りるときの方が断然むずかしいからね」
「ええ。身に沁みました。今度はもっと力をつけてから挑戦しますわ」
「また登るつもり?」
男は少し驚いているようだ。
「今度はちゃんと、お兄様についていてもらいます」
「ん~、許してくれないんじゃないかな?」
男は困ったように笑っている。確かに、ロイドが危険なことを許してくれるとは思えない。
「……そうかも知れません。では、友人に頼みますわ」
きっとクレメンスなら、応援してくれるはず。たとえ失敗したとしても、次があるさ、と言ってくれるはずだ。
「どうしても登るのか……」
「ええ。だって木の上はとても眺めが良かったの」
フィーラの登った木は、地上から二メートル程しか離れていない。高さだけなら、実家や寮の部屋の方が断然高い。しかし、木に登ると、自分が自然の一部になったような気がして、とても自由な気持ちになれたのだ。
もしかしたら、自分で思うよりも、貴族としての生活に窮屈さを感じていたのかも知れない。
フィーラの前世は一般庶民だ。この世界の平民とはもちろん異なるが、今の貴族のような生活など、一度もしたことはなかった。
それでも、この世界で十五年生きて来たフィーラとしての記憶があるからこそ、耐えられているのだ。それをはっきりと自覚してしまった。
「そうだな。確かに木の上からみる景色は格別だ。……お嬢さんさえよければ、いつかもっと高い木に連れて行ってあげるよ。今みたいに風の力を使えば簡単だ」
「良いのですか?」
「うん。良いよ。ただし、また会えたらね」
自分から誘っておいて、条件をつけるとは。フィーラは少しむっとして口を尖らせた。
「この学園の教師では?」
「教師は一日だけ」
「では騎士科の聖騎士候補の指導にいらっしゃったのですね」
男はさきほどの「聖騎士か」というフィーラの問いに、「一応」と答えた。聖騎士であることは確実なのだろうが、何かはっきりとはそう言えない理由があるのだろう。あるいは、ただ単に男の気分の問題か。
「普段は俺の友人が指導を受け持っているんだ。だけど、今日は都合がつかなくてね。一番暇だった俺がでてきたわけだ」
「そうでしたか。では本当に一期一会かも知れません」
「一期一会?」
「ええ。人生において、たった一度の出会いであること。その出会いに感謝し、誠意をつくすこと。というような意味でしょうか」
多少ニュアンスは違うかも知れないが、概ねそのようなものだろう。
「……へえ」
男はそれまで薄っすらと浮かべていた微笑みを消し、急に真顔になった。
「面白いね」
が、次の瞬間にはもう、もとの顔に戻っていた。
――前世の世界で使われていた言葉ですものね。聞き覚えがないから、少し混乱したのかしら。
「じゃあ、さっきの俺は、君に誠意を尽くしていなかったな」
「構いませんわ。考えてみれば、わたくしとて見知らぬ男性とどこかへ出かけるわけにはまいりませんもの」
「そうか、貴族のお嬢さんは大変だな」
「わたくしもときどき、そう思いますわ」
「はは。そうか」
笑う男の黄金の髪が、急に深みを増した。どうやら夕日に染まっているようだ。大分、陽が傾いて来たらしい。光が来る方向に目をやると、太陽が完全に見えなくなる直前だった。




