第19話 多くの言葉は意味を為さず
目の前で泣く女の子にかけるべき言葉はなんだろうか。
どんな言葉をかければ汐月さんの苦痛を少しでも和げることができるんだろうか。
これまでの人生で触れてきた数々の言葉の中からいいセリフを探し出そうと必死に頭を回転させる。
しばらく互いに無言の時間が続き、俺がいい言葉が見つけられないうちに、汐月さんは立ち直り、再び俺をにらみつける。
いや、立ち直るというと語弊がある。虚勢を張ろうとしているだけだ。
だって、その瞳からは今も変わらず、はらはらと涙が流れ落ちている。汐月さん自身はそのことに気づいているのだろうか。
その姿はあまりに痛々しかった。
そのとき、不意に悟った。
俺が何を言ったところで意味は無いんだと。
汐月さんにとって俺は敵。俺が慰めるようなことを言ったところで、汐月さんからしたら憎い相手から憐みの言葉をかけられ、余計に傷つくだけだ。
俺自身が汐月さんに対してできることはきっと何もない。
じゃあ、俺には何もできないのかというとそれは違う。
ずっと頭の片隅で思いついていたことはある。たぶん、それが俺が今できる唯一のことだ。
でも、それが正解なのかが分からない。かえって、汐月さんを傷つけてしまうことにならないだろうか。それが心配で実行できずにいた。
しかし、それしか手がないため、実行せざるを得ない。
「枕崎さん、いい加減入ってきてもらえませんか?」
廊下に明かりが灯ったときから引き戸のすりガラス越しに影が見えていた。
ずっと引き戸の前に立っていることから、見回りの教員でないことは明らかだ。
案の定、引き戸が開いて現れたのは、気まずそうな表情で頭をかく枕崎さんだった。
「気づいてたんならさっさと言えよ。気まずいだろうが」
汐月さんが信じられないといった顔で枕崎さんの方を見ていた。
驚きのあまりか、涙も止まっている。
「……ど、どうして命さんがここにいるんですか? だ、だって、駅の改札通ってたじゃないですか」
「和奏——オレだって今日お前の様子がおかしかったことぐらい気づいてる。そんなタイミングで普段忘れ物なんてしないお前が財布ごと定期を学校に忘れたって言ったら、そりゃ、普通なんかあると思うだろ?」
汐月さんの顔から血の気が引いていた。
それはそうだろう。さっきの話は他の誰に聞かれても、枕崎さんにだけは聞かれたくないと思っていることは想像に難くない。
枕崎さんに気がついたのはつい先ほどだが、その口ぶりからすると、俺と汐月さんの会話は全て聞かれていてもおかしくない。
汐月さんもそのことに思い至ったのか慌てて言葉を発する。
「ち、違うんです――」
「なあ、和奏」
汐月さんが否定の言葉を口にした瞬間、それに被せるように枕崎さんが汐月さんの名前を呼ぶ。
「なあ、和奏、サッカー部辞めた後のオレはそんなにダサかったか?」
枕崎さんはゆっくりと汐月さんに近づく。
思ってもみない質問だったのだろう。
汐月さんは、近づいてくる枕崎さんに体を強張らせながらも、えと、あのと口ごもっていた。
その間にも枕崎さんは徐々に汐月さんとの距離を詰め、その距離は僅か数歩となる。
すると、突然、汐月さんが机の上のカバンもほったらかして駆け出した。想像以上に俊敏な動作で枕崎さんの脇を駆け抜けていく。
が、枕崎さんもそうはさせまいと、とっさに汐月さんの手を掴む。
重心が前にあったところを手を掴まれ無理やり後ろに引っ張られたせいだろう、汐月さんは体を半回転させながら後ろに倒れそうになる。
そんな汐月さんを、枕崎さんは掴んでいた手を放して、正面から抱きしめるようにして受け止めた。
「なあ、和奏――あんとき声かけてくれて本当にありがとうな」
それは枕崎さんからは聞いたこともないような柔らかい声だった。
たぶん、汐月さんは俺との会話が聞かれたことで枕崎さんに嫌われたと思ったんじゃないだろうか。
だから思わず逃げ出してしまったのだと思う。俺と話しているときの汐月さんは普段の様子とは全く違ったし、どもることもなかった。枕崎さんにはそういう腹黒い部分は隠していたのだろう。
けれども、さっきの枕崎さんの声を聞いたら分かる。枕崎さんが汐月さんのことを嫌いになんてなっていないのは明らかだ。その言葉に込められていたのは、ただただ感謝の気持ちだけだった。
それを理解して安心したんだろう。
汐月さんは安心したように枕崎さんの胸の内で声を上げて泣いていた。
そして、枕崎さんはそんな汐月さんを優しくあやすように軽くぽんぽんと背中を叩いている。
その光景をしばらく眺め続けて、ふと気が付く。
俺、邪魔じゃない?
気が付いてしまったせいか、どんどん居心地が悪くなってくる。
よし、ばれないように帰ろう。
音を立てないようにカバンを手に取り、忍び足で抱き合う二人の横を抜ける。
汐月さんと枕崎さんには三十センチ近くの身長差があるため、幸いにも汐月さんの視界は枕崎さんで遮られ、俺の姿がその目に映ることはない。
開きっぱなしになっていた引き戸も通り抜け、静かに閉めようとしたところで枕崎さんと目が合う。
口パクで帰りますと伝え、そのまま音を立てないようにゆっくりと引き戸を閉めきる。
これで一安心と大きく息を吐き、静かに廊下を歩き始める。
少し行ったところで家庭科室内から声が聞こえてきた。
「命さん――私はあなたの隣にいますか?」
扉の向こうから聞こえきたその声は震えていて、まるで何かに縋るようで、祈るようで、この上ないほど切実な感情が籠っていた。
誰もいない廊下はひどく静かで、その問いに対する枕崎さんの答えもはっきりと聞こえる。
「なあ、和奏――料理部に入ったあの日からずっとそばに居てくれたのはお前だ」
その言葉は、意外にも優しく、嘘を付けない枕崎さんらしい答えだなと思う。
そして、同時に、俺にはどうしようもなく残酷な答えにも思えた。
そう感じたのが俺だけであることを願いながら、蛍光灯が灯った廊下を一人歩いた。