第18話 汐月さんの一人語り②
「……それが醤油をすり替えた動機ですか?」
努めて平静を装いながら、全気力を用いて無理やり口を動かす。
以前、汐月さんをおぞましいと感じたことがあったが、やはり気のせいではなかった。
これほどまでに強い負の感情を向けられるのは初めてだ。
人の感情に質量とでもいうべきものが存在しているなんて知りもしなかった。まるで、ねっとりとした何かが絡みついて、押さえ込んでいるかのように体が重い。
昔、古典の授業で、源氏物語の六条御息所の話を習ったとき、どうにも釈然としない思いをした記憶がある。というのも、人の嫉妬心という物質的な要素を持たないものが生霊となり実際に生きた人間を殺しうるほどの力を持つ。その部分が、あまりにも荒唐無稽なように思えて、物語に入り込めなかったのだ。
しかし、今なら分かる。強すぎる想いというのは人の体に直接影響しうるものなのだと。そして、行き過ぎればそれは人を死に至らしめることだってあるうるのかもしれないと。今はそう感じている。
「うん、そうだよ。でも、いまいちだったね。反省してる」
何がいまいちだったのかは分からないが、確かにちぐはぐな印象はあった。
醤油をすり替えるという行為はあまりに弱すぎるのだ。
今、俺が感じている憎悪に対して、行為が釣り合っていない。
なんなら今すぐ汐月さんが包丁を手に取って、めった刺しにしてきてもおかしくないと思っている。それほどまでの憎悪だ。
それなのに、汐月さんがやったことはしょせん嫌がらせ程度のこと。それもかなり程度が低い部類の。
「……醤油をすり替えてどうするつもりだったんですか?」
「あれ? まだ分からないの? じゃあ、もしかして醤油以外は気付いてないの?」
俺を料理部から追い出したかったというのは分かる。でも、その手段として醤油をすり替えるというのが結びつかない。
それに、醤油以外って何だ? 思い当たる節がない。
「桜井くんって思ってたよりも純粋なんだね。せっかくだし、教えてあげる」
一見可愛らしく聞こえるクスクスとした笑い声も、今は恐ろしく感じてしまう。
「甘くないはずの醤油が甘かったら、もっと食べられない料理が出来上がると思ってたの。でも、意外と食べられるものが出来ちゃうんだね。やっぱり勢いに任せて行動するとダメだなあ」
ここまで話を聞いても未だに汐月さんの考えの全容が見えてこない。
仮に食べられないほどの料理を作ったとして、何か汐月さんにメリットがあっただろうか?
結局、三人で頑張って食べきるだけだ。
ああ、でも、昨日の今日でのやらかしという意味では、確かに多少は落ち込んだかもしれない。けれども、それは多少に過ぎなかったと思う。
多少で済むのは、たぶん昨日の枕崎さんの言葉のおかげだ。それほどまでに昨日の言葉はうれしかった。枕崎さんには本当に感謝している。
「醤油以外にも桜井くんが料理を失敗した見せかけるために、いろいろ細工したんだ。朝、桜井くんが炊飯予約しに行くのを確認したあと、それを取り消しに行ったり、砂糖入れと塩入れのラベルを一時的に入れ替えておいたりとか」
過去の苦労を懐かしむような声でそんなことを暴露する。
そこまで聞いて思い至る。もしかして、ここ最近の俺の失敗は、全て汐月さんが仕組んだことだったのか。
だとしたら、それは正しく俺を追い詰めていた。俺に対する精神攻撃としてはこれ以上のものはないかもしれない。
それで退部に追い込むつもりだった?
ああ、それなら確かに成功している。
退部とまでいかずとも、休部する直前まではいっていた。
「それにしても、昨日のコショウは本当に傑作だったね! 何日か前に料理の中にコショウぶちまけないかなと思って、蓋を緩めておいたんだけど、実際に起こったときは感動しちゃった!」
やけに楽しそうな声を聞いていると、怒りがふつふつと湧き上がってくる。そして、それは先ほどまで感じていた恐怖をも凌駕し始める。
俺はあんたのしょうもないいたずらのせいで、あんなに好きだった料理を苦痛に感じていたんだぞ。何が『傑作だったね!』だ。
感情の赴くままに怒りもぶつけようとした矢先、
「命さんが桜井くんの料理を気に入ってるのは分かってた。でも、命さんが桜井くんに求めているのはあくまで料理だけであって、料理ができない桜井くんなんか命さんは見向きもしなくなる。すぐに料理部から追い出すに決まってるって思ってた……」
先ほどまでの楽しげなトーンから、急に感情を押し殺したような口調へと変わる。さらに、最後には、泣きそうなのをこらえているかのように声が震えていた。
怒りに水を差された気がした。
しかも、ちょうどそのタイミングで廊下に明かりが灯り、俯いて小さく震える汐月さんがはっきりと見えてしまう。
確かに存在したはずの怒りがより一層しぼんで、消えていく。
「それがっ! なんでっ! なんであんな言葉をかけてもらえるのっ!」
ばっと顔を上げて、こちらをにらみつける瞳には涙が溜まっていた。
「あの日、勇気を振り絞って命さんに声をかけた日からもう一年近くも一緒に居て、邪魔な料理部員も追い出して、二人だけの時間を過ごしてきたのにっ! 私はあんな風に命さんから必要とされたことは一度だってないっ!」
その金切り声は、俺には傷ついた魂そのものが上げている悲鳴に聞こえた。
「なのにどうしてっ! 命さんと出会って半月も経たない桜井くんがそこにっ! 命さんの隣にいるのっ! そこには誰の居場所もなかったはずなのにっ!」
ついにこらえきれなくなったのか、その瞳からは涙が零れ落ちる。
そこにいるのは、もはや、俺を恐怖させたおぞましい人物でもなければ、嘲笑により俺を憤らせた人物でもない。
今にも消えてしまいそうな儚さを感じさせる、ただのか弱い女の子だった。
「私が……もし私が…………」
ポロポロと涙をこぼしながら、絞り出すように漏れ出たその言葉の続きはなんだったんだろうか?
俺には、彼女にそれを質問するような真似はできなかった。