第12話 だから、無理ですって!
結局、枕崎さんは三人前分のパスタをものの数分で食べ終え、俺は満腹状態の胃の中に一人前分のパスタを押し込むだけで済んだ。
「桜井」
「なんですか?」
「明日からは昼飯も作れ」
……何言ってんだ、この人は?
無理に決まってんだろ。昼休みって一時間しかないんだぞ。その間に作って、食べて、片づけまでしなきゃなんないんだぞ。
毎日ペペロンチーノだけ食うんか? いや、やっぱそれは俺が嫌だわ。
「絶対いやです」
「ジャガイモ全部食うぞ」
ドヤ顔でそんなことを言ってくる。
一回うまくいったからって同じ脅しを何回も使うんじゃありません。だいたい、さっき俺が折れたの本気でジャガイモのせいだと思ってんの? 頭湧いてんのか?
「み、命さん、それは無茶かもしれないです」
汐月さんからの援護も飛んでくる。
ありがとうございます! イエスマンのあなたからフォローを入れてもらえるなんて。勝手に敵に回るものと考えてました。本当にすいませんでした。
「汐月さんの言う通り、無理なんですって。この前ご飯炊くのにも一時間ぐらいかかってたの見てました?」
「炊飯器を使えばいいだろ」
「炊飯器の早炊き機能を使っても三、四十分かかるんですよ。教室からここまでの移動時間とか米を洗ってる時間とかを合わせると、それだけで四、五十分経って、食べてる時間なんてないですよ」
「そ、そうですよ、命さん。そ、それに、あんまり急いでご飯食べたら喉詰まらせちゃいますよ」
「いや、朝のうちに炊飯予約しておけばいいだけだろ」
すごい不思議そうな顔で冷静につっこまれた。
日ごろは家事全般に全然詳しくない上に、アホっぽいところもあるのに、なんで今だけこんな的確に反論してくんだよ。
「そ、それはご飯だけの話ですよね。今の話だと、昼食、白米だけになりますけどそれでいいんですか、枕崎さん?」
「魚焼くくらいなら十分もありゃあできんだろ?」
「さ、魚とご飯だけだときっと食卓が寂しいですよ。け、けど、桜井くんが他のものを作ると食べる時間なくなっちゃいますし、や、やっぱり教室でお弁当食べましょう、命さん。こ、購買行くならお金は私が出しますし」
「弁当はねぇし、毎回和奏にたかんのも悪いしな。だいたい味噌汁ぐらいなら朝のうちに作って温め直すだけだし、時間かかんねぇだろ?」
だからなんで今日はやたら鋭いんだよ。
やべぇ、あとノリでも添えたら焼鮭定食が完成してしまう。家庭の食卓の見本と言ってもいいような昼食の完成だ。
「炊飯予約も、味噌汁作るのも全部僕ですよね? 嫌ですよ」
「なんでだ? 金は払うぞ?」
「えっ! ランチ代で五千円とってもいいですか? ならやります」
「はあ? 材料費だけに決まってんだろ」
材料費出すとか当たり前だろ。なに偉そうに言ってんだ。
だいたいこの一週間分の材料費も全部俺が立て替えたままなんだが、払う気あんのか。
「なんで僕が枕崎さんのために朝早く学校に来ないとダメなんですか、嫌です。作るだけじゃなくて片づけも僕がしてるんですよ。これに加えて早朝の仕込みなんて絶対嫌です」
「……しゃあねぇ。片づけはオレがする」
違う、そうじゃない。そうじゃないんだ、枕崎さん。
昼食を作るというのをやめて欲しいんです。
「じゃ、じゃあ、私がお昼ご飯を作ります!」
汐月さーん、最高だよ、あんた。
枕崎さんは昼飯にありつける。俺は早朝に来たり、昼食を作ったりする必要がなくなる。そして、汐月さんは枕崎さんに尽くせる。
ウィンウィンどころではない、ウィンウィンウィンだ。なんて完璧な案なんだ。
「和奏……お前も料理できるようになっちゃうのか?」
「うっ……や、やっぱり作るのやめます」
そこで負けないで汐月さん!
自分が忙しい中早起きして作った料理を、早起きどころか食器の準備すらする気がなく、何も手伝わなかった枕崎さんに食べさせているところを想像して。もちろん材料費も汐月さん持ちだ。貢ぐ女としては最高のシチュエーションでしょ。
そんな念を送るが、当然伝わる気配はない。
「そんなに嫌か?」
真剣な表情をした枕崎さんがじっとこちらの目を見つめ、聞いてくる。
……その聞き方はずるいんだよなあ。
そんな表情で、嫌かと直接聞かれると、そうではないと答えるしかなくなる。ただ面倒なだけなのだ。
それだって、炊飯予約も味噌汁も前日の放課後に済ませてしまえば面倒ですらなくなる。
「分かりましたよ、作ります。その代わり、毎日、焼き魚定食にしますからね。あと言っときますけど、そういうのほんと卑怯ですよ」
「何がだ?」
「もういいです……昼休みも終わりそうですし、早く片づけしてください」
ペペロンチーノが乗っていた皿を指し示す。
「オレがやんのか?」
「さっきやるって言ったじゃないですか」
枕崎さんは渋々といった顔で皿を流し台まで運ぶ。
「鍋とフライパンもお願いしますよ」
「わあってるよ」
ものすごく嫌そうな声だった。背を向けているので顔は見えないが、どんな顔しているのか想像がつく。
「み、命さん、私がやりますよ?」
「やるって言っちまったしな。オレがやる。和奏は座ってろ」
いつの間にか枕崎さんの隣まで移動していた汐月さんは拒否されてからも、何か手伝おうと悩んでいるのか横でおろおろしていた。が、結局、俺の隣の空いている席に座る。
ちなみに俺は手伝うつもりは一切ない。
枕崎さんが不慣れな手つきで洗い物をしている姿をしばらく眺めていると、汐月さんが上半身を近づけて小声で話しかけてきた。
「さ、桜井くん、お昼休みにわざわざご飯作ってもらってごめんね。み、命さんには、お弁当を分けてあげることとか、お金を貸すことを提案したんだけど、さ、桜井くんのご飯を食べるって断られちゃって。そ、それに明日からも本当にごめんね」
そんなに俺の料理を気に入ってくれていたのか。
汐月さんの提案を断っているときの枕崎さんを想像するとニマニマしてしまう。
本当に素直じゃないなあ。さっきも「市販のものよりもお前の作った飯がいいんだ」とでも言ってくれたら、すぐにオッケーって言ってあげたかもしれないのに。
いや、ないな。どっちにしろノーって言ってたな。
「汐月さん――」
が謝ることじゃないですよ、と続けるつもりだった。
けれども、汐月さんの顔を見た瞬間、声が出せなくなった。出なかったのではなく、出せなかった。
鼻にかかった高めの声でおどおどしながら紡がれる言葉はいつも通りだった。
言いかけた言葉を引っ込めた俺を見て、不思議そうに小首を傾げている仕草もいつも通り可愛らしかった。
なのに、その顔だけは笑っているようで笑っていなかった。
いや正確には、その光が宿らない瞳がまるでビー玉のように無機質なせいで、表情としては微笑みを浮かべているはずなのに、全く笑っているように感じられないのだ。
しかし、ときどきその瞳にゆらりと微かに顔を覗かせる何かから気づかされる。
その無機質な瞳は、内に滾る感情を表に出さないために、あえてそうしているのだと。そして、そのようにして抑え込もうとしても、押し殺しきれないほどの激情が時折瞳に現れるのだと。
汐月さんが抱える感情が何なのか俺には分からない。でも、それは少なくとも好意的なものではないのだけは分かる。
その瞳を見ていると何処へとも知れぬ場所へ引きずり込まれそうな心地すらしてくる。
怖い。
……いや違う。おぞましい。
ああ、そうだ、俺は今、目の前にいる可愛らしい見た目をしたこの人に対して、おぞましさを感じている。
暗闇の奥から何かがこちらをじっと見つめているような、そんな得体の知れない感覚に背筋に冷たいものが走る。
この状況を何とかしたくて喋ろうとするが、うまく舌が回らず、ちゃんとした言葉にならない。
「洗いもん終わったぞ。この鍋はどこに片づければいいんだ?」
それはまさに神が放った救いの一言と言っても過言ではなかった。
「あ、ああ。それはあっちの棚です」
枕崎さんの言葉のおかげで現実に戻ってくることができた。
棚の方を指差しながら、横目で恐る恐る汐月さんの様子を窺うと、既にこっちを見ておらず、枕崎さんの元へ向かうためか、椅子から立ち上がっていた。
一人ほっと息をつく。
早くこの場から立ち去りたい。
「すいません、先に教室戻ります」
「おう」
「あ、ありがとうね、桜井くん」
そう言って見送ってくれた汐月さんはいつもの汐月さんだった。
あの感覚は俺の勘違いだったんだろうか。
授業中もずっとあの感覚が頭から離れなかった。
だが、放課後に会った汐月さんはいつも通り過ぎて、逆にどう接していいのか分からなくなる。結局、俺と汐月さんはほとんど会話をすることなく、その日は終わった。