トドオカさんは揺るがない
「またトドオカさん学年一位? やるゥ~」
「そんなに褒めないで」
はやし立てるクラスメイトに、トドオカは頬を染めて答える。
「私は、ただ普通に勉強しているだけよ。普通の勉強をキッチリとね」
「それができないんだってば~」
「ふふ。じゃあ、次の定期試験では一緒に勉強する?」
「マジ? お願いしようかな~」
「あんた、今回順位落ちたんでしょ? 教えて貰ったほうがいいって。トドオカさん、本当に教えるの上手いから」
「そうそう、あたしも今回トドオカさんのおかげで順位上がったし!」
おのおのの部活に向かうクラスメイトを見送って一人になった途端、トドオカはすっと作り笑いをやめて、表情を消した。
百々歌織、本名をもじって、愛称はトドオカ。私立魹ヶ崎高校の二年生。身長は160cm、血液型はA型。
好きな食べ物、なし。嫌いな食べ物、なし。
好きな教科、なし。嫌いな教科、なし。
部活、なし。
将来の夢、なし。
趣味、なし。特技、なし。
尊敬する人物、なし。
親友、なし。
恋人、なし。
家族は両親と八つ離れた兄。
両親も兄も、自分に対しては惜しみなく愛情を注いでくれているのは知っていた。友人たちも、自分に向けて親愛を向けてくれている人物は多い。異性から愛を告白される頻度は、平均して週に二度くらい。せっかく女子校に入ったのに、高校に入ってからはだいぶ増えた。
回避するためには周囲の女子と行動を共にして機会を作らせないのが効率的だが、いつも作り笑いをするのは疲れる。
自分だって、感情がないわけじゃない。ふとしたことに一喜一憂して、ちょっとしたときめきに胸を躍らせたほうが人生を楽しめるに決まっているとは思う。小さな頃読んだ少女漫画では主人公は劇的な出会いをして燃えるような恋をしたから、自分にもいつしかそんな好機があるのだろうと無邪気に夢見ていたこともあった。
だが、十七歳にもなるともう、理解してしまった。
自分が身を焦がすように恋をすることはない。死者の鼓動のように平坦な自分の感情が揺さぶられるようなチャンスはない。やろうと思えば恋愛も結婚もできるだろうけれど、激情に突き動かされることはない。
なんでもできる代わりに、何もできないのが自分なのだ。
他のみんなはどうなんだろうか。クラスメイトが本当のところでどんな思いを抱いているのか、トドオカにはわからない。彼女たちの赤裸々なあり方なのか、女子高生というロールをこなしているだけなのか、ロールをこなすことを楽しんでいるのか? それを知る機会はない。
きっと、自分はこうした心持ちのまま大人になり、そして死んでいくのだろうと悟っていた。
あの少年に会うまでは。
トドオカは毎日、自転車で学校に通学している。部活に所属していないトドオカにとってはほどよい運動だし、学校にいる間はどうしても友人と行動を共にするのに対し、一人で自転車を駆るのは気楽で、気持ちがいい。
だから、その日の帰りもトドオカはいつものように自転車を走らせていた。いつもと一点だけ違ったのは、前期の期末試験が迫っていて試験勉強をしていたため、普段よりも遅い時間帯だったことくらいだ。
通学路は海沿いで、潮風が髪を揺らしている。
信号で足を止めた時、海に向けて釣り竿を垂れている少年がいるのが目にとまった。少年といっても自分と同じくらいの年齢。目にとまった理由は、いつもと全く同じ光景だったからだ。いつもと違う時間に通っているのに、同じように意味に釣り竿を垂れているという事実に少しだけ驚いた。彼は、毎日同じように長時間釣りをしているのだろうか。
ただ、それ以上の興味を持つこともなく、そのまま青信号に変わった横断歩道を走り出そうとした。その瞬間、叫び声が聞こえた。
「誰か、た、助けてっ」
その差し迫った叫び声に、トドオカは反射的に振り返った。
常に仮面をかぶって振る舞っていたトドオカにとって、悲鳴に反応するのは当然のことだった。
そして、すぐに後悔した。彼が叫び声を上げた理由は、釣り竿が大きく反応した、それだけのことだったからだ。しかし、同時に目があった。思わずそちらに駆け寄ろうとしていたトドオカは少し迷い、そしてやむを得ず釣り竿を握る少年に自身の手を添えた。
目があってから放って踵を返す判断は、少しだけコストがかかる。
「大丈夫ですか?」
「あの……っ すまない」
「これ、何がかかっているんです?」
トドオカはつとめて冷静に言うが、釣り竿の引きは強烈で気を抜けば二人がかりでも持っていかれそうだった。
「諦めて釣り竿を捨てたほうがいいのではなくて? これを釣り上げるのは相当難しいと思うわ」
「うん。それはよくわかるんだけど……僕が狙っていた獲物なんだ。釣り上げたい」
トドオカはそっとため息をついた。こういう熱意みたいなものはつくづく理解できない。
そして、理解できないからこそ興味が湧いた。
「ねえ、頼みがあるの」
「なんだ?」
少年の額には汗が滲む。
「あとで、どうしてそんなに釣りに熱心なのか教えて貰えるかしら」
呼吸を整えて、釣り竿を握り直した。
トドオカは所作のせいでおっとりしたインドア系の人間だと思われがちだが、必ずしもそうではない。敢えていうなら、どちらでもできるし、どちらにも大して興味はない。だから、どちらもできる。
丹田に力を込めて、少年のタイミング、魚の挙動、二つに合わせて体重を乗せて大きく引き上げた。
空が陰る。
太陽を覆うほどに大きな魚が宙を舞い、アスファルトを跳ねた。魚と共に舞った水しぶきが滝のようにトドオカに叩く。
「ねえ、目的の魚だった?」
濡れて張り付く髪を払いのけながら、トドオカは聞く。
「ああ。君のおかげでバラムツが釣れたよ」
釣り上げた魚は身の丈ほどもある長さだった。なるほど、このサイズならあの引きの強さもうなずける。まだ生きている魚は、獣じみた力強さで暴れている。太陽を覆うような大きさに見えたのも、あながち目の錯覚でもなさそうだ。
「ありがとう、僕は馬宮という」
魚を締めてようやく一息ついた少年はトドオカに向けて改めて頭を下げた。
「えっと……」
「百々歌織です。トドオカと呼んで」
「トドオカさん。さっきの質問に答えよう」
「ああ……なぜ、そんなに釣りに熱心なのか、というクエスチョンね。教えて貰える?」
馬宮は一日何時間も、何日もかけて釣りをしていた。その行動は、トドオカにとってはうまく理解できない。そういう趣味嗜好があることは認識できても、よくわからないというのが本音だ。
「釣りって、そんなに楽しいものなの?」
「別に、そういうわけでもないかな。釣りは金もかかるし、時間もかかる。面倒くさいこともあれば学ばないといけないことも多い。九割くらいは退屈か、面倒なことだよ」
「なら、どうして?」
トドオカにはますますわからない。
「そうだな。僕はきっと、自分が知らないことを体験してみたいんだと思う。初めて行く旅行先って、ドキドキするだろう。だから、僕は食べたことがないものを食べてみたくなった。今回はそれがこの魚だった」
わかるようなわからないような話だ。食べたことがないものだというのならば、通販でいくらでも美味しいものがあり、敢えて自分が釣る必要はありそうにない。
「納得してない顔だね」
「納得していないわ」
問い詰めても馬宮を困らせるだけなのはわかっていたが、理解できないもの事実だった。
「せっかくだし、この魚食べていく? そうしたら、ちょっとはわかるかもしれない。僕の家、すぐそこだから。シャワーも貸してあげられるし。その、嫌じゃなければ、だけど」
視線をそらして馬宮は言った。言われて、ようやく自分がびっしょりと海水を浴びてしまっていることを思い出した。
「その格好じゃ、帰るのも大変だろう?」
家まではあと二〇分くらいはかかる。濡れ鼠のまま帰ったら風邪を引いてしまう。男の子の家に上がってシャワーを借りるのは抵抗があったが、背に腹は代えられない。
「そう、食べるのかはともかく、シャワーを貸して貰えるかしら」
馬宮の家は、歩いて五分もかからない建て売りだった。毎日何時間も釣りをしていた馬宮にはどこか浮世離れしたような雰囲気があったが、ごく一般的な建て売りに住んでいるというのは不思議な感覚があった。
シャワーを浴び、制服はとても乾かないから馬宮に貸して貰った服に着替える。長い髪を乾かすのにはだいぶ時間がかかってしまった。居間に戻ると、
「遅かったな、トドオカさん」
と声がかかった。
「待たせたわね、馬宮。シャワーありがとう」
「こっちこそ、そんな服しか用意できなくて悪いな」
「とんでもない。感謝するわ」
礼を言いながらも、トドオカの視線は食卓に引きつけられていた。さきほど釣ったばかりの魚が、きらきらと輝くような光沢を帯びて刺身になっている。
「さばけるの?」
「まあ、形だけはな。素人の手習いさ」
照れたように、馬宮は言う。
ごくりと喉が鳴った。先ほどは食べる気はさほどなかったが、こうして刺身にして目の前に出されると気持ちが動いた。魅入られたかのように、視線が引きつけられる。
「食べてみなよ」
「頂くわ」
即答して、トドオカは箸を手にした。箸先でつまみ上げた刺身は宝石のように光り、その新鮮さを誇示するかのように醤油を弾きさえする。
「美味しい!」
「新鮮だからな」
思わず声が漏れた。ついつい手を伸ばして一切れ二切れと手を伸ばしてしまう。
食べながら、自分の鼓動が高まっていることを自覚して、その事実に驚いた。
食べものの中で、いや、食べ物以外を含めて、こうまで自分を昂ぶらせるものはなかった。
味は大トロに似ているが、歯ごたえがしっかりとしていて噛む度に旨味がある脂が染み出てきて、食が進む。馬宮が時間をかけて釣ろうとしてのもよく理解できる。
気がつけば、皿を空にしてしまっていた。
「ああ、美味しかった。ごめんなさいね、こんなにバクバクと。あなたが欲しくて釣っていた魚でしょうに」
「別に構わないよ。僕は二切れくらい食べられれば十分な気持ちだったし。だから、食べて貰えて嬉しいよ。せっかくなら持って帰るか?」
「いいの? ……でも、なんだか悪いわ」
「いいって。どうせ一匹釣ったら両親合わせても食べきれない。貰ってくれると助かる」
「じゃあ、お願い」
はしたないと思いつつも、おずおずと言った。
結局馬宮は、タッパーいっぱいに詰めた魚、それにオマケだと言ってトド肉の生姜煮と缶のルートビアまで持たせてくれた。荷物には濡れてしまった制服もあるから、帰り道、トドオカの自転車の前かごは溢れそうになってしまったくらいだ。
「ありがとう。ここまでで大丈夫だから」
最初に出会った地点まで送ってくれた馬宮に、そう告げる。
「そうか? 気をつけて帰れよ」
「わかっているわ。子供じゃないんだし」
トドオカは口を尖らせる。
「それより、服、洗って返すわね」
「いや、いいよ。あげる。いらないなら捨ててくれていい」
「そうはいかないわ……いえ、そうね」
トドオカはごくりと喉を鳴らした。自分は今、らしくないことをしようとしている。
「ねえ、馬宮。明日もまたここで釣りをするの?」
「どうしようかな。目当てのバラムツはもう釣れたし、次は別の獲物を狙ってみようかなと思っている。ヌートリアやハクビシンを狙った猟もいいな」
トドオカは、ヌートリアやハクビシンがどんな姿をしているのかも、うまくイメージできない。だが、それを目指す馬宮の姿勢は輝いていて、胸躍るものだと感じていた。
「ねえ、これからそういうのに行く時、私も一緒に行かせてくれないかしら」
「え?」
この提案は馬宮にとってはひどく意外なものだったらしく、馬宮は目を丸くして驚いた。
「それはいいけど……、女の子にとって楽しいものじゃないと思うよ」
「今は女の子だから、なんて言い方をしたら怒られてしまうものよ」
トドオカは口元に手を当ててクスクスと笑う。作り笑いでない笑いは、いつ以来なのか思い出せない。もしかしたら、生まれて初めてなのかもしれなかった。
「ねえ、いいでしょう? 荷物持ちくらいの役には立つと思うから」
「いや、どうせやるなら徹底的にだ。君一人でも猟や釣りができるくらいに、徹底的にやろうぜ。キッチリとな」
握りしめた拳を、トドオカと馬宮はこつん、とぶつけ合う。
トドオカが人生で感じたほどがない、燃えるような《怒り》に身を焦がすことになったのは、この翌日のことだ。
※バラムツは毒魚として商業流通が禁止されています。自身で釣り上げて食用にする場合も、危険性を充分に理解した上、自己責任でお願い致します。
挿絵はあおの感想垢@aonokanso様の作品です。