3・?・6★
ヒュッ!
鋭い呼気が、エレンの厳しく引き結んだ唇から吐き出された。
再び煌めく銀光。
“退魔の聖剣” が聖銀の残像を引いて、二頭目の “豚の王” の身体を通過する。
脂肪の塊かと思いきや、筋肉も相当程度あり、骨も臓物も太く密度がある身体を、なんの手応えもないまま一刀の元に両断。
ドシャッ! と大量に水を吸った雑巾を床に叩きつけたような音がしたときには、エレンは三頭目の “豚の王” に突き進んでいた。
「魚が水を得たわね」
“昏睡” の呪文をかけ終えたヴァルレハが、エレンの閃光のような機動を見て呟いた。
エレンは敏捷性を信条とし手数で勝負する軽戦士。
他のふたりの女戦士が筋力と耐久度を活かし、長大な段平と頑丈だが分厚く重い板金鎧で戦う重戦士であるのに対し、より軽い装備で手数の勝負をする。
これまで一撃の威力では、どうしても引けを取ってきた。
しかし “退魔の聖剣” を得たことで膂力不足は十二分に補われ、 持ち味の素早い攻撃が最大限に発揮されていた。
「むしろ、“鬼が金棒を” でしょ!」
盗賊 のミーナが味方の絶対優勢を見てはしゃぐ。
出現した五頭のうち二頭はすでにエレンによって屠られ、スカーレットとゼブラが相手取っているものも、ヴァルレハの “昏睡” とノエルの “棘縛” で無効化されている。
エレンが突き進んでいる残りの一頭は、耐呪に成功し魔法の影響下になかったが、今の彼女の斬れ味を思えば、遅れを取ることはないだろう。
「油断しては駄目! 最後のはことのほかよ!」
ノエルが鋭く警告を発した。
確かに言うとおりだった。
最後の一頭は、五頭の “豚の王” の中でも、ことのほか巨大で異質だった。
身の丈は二・五メートルを優に超え、体重は半トンに届くだろう。
他の個体に比べまるで別種のように黒い肌に、奇っ怪な呪術的紋様の入れ墨。
頭からは兜の意匠ではなく、猛牛のような本物の角が生えている。
背中には “蝙蝠男” からむしり取ったのだろうか。巨大な蝙蝠の白骨化した翼を、骨飾りとばかりに付けている。
兜の代わりに頭に乗るのは、人間が見れば特大の、それでも小さく見える宝冠。
“豚の王” 自体が “豚面の獣人” の変異種だが、これはその中でのさらなる特異体。
突然変異の中の突然変異だ。
「さしずめ、“王の中の王” ね」
再度呟いたヴァルレハの視線の先で、エレンが最も強大な一頭と対峙した。
探索者随一の可憐さと称される美少女戦士と、豚の王の中の王。
あまりにもといえば、あまりにもな対比だった。
極大の咆哮がビリビリと大気を震わせ、エレンの身長ほどもある肉厚の大刀が振り下ろされた。
頭をかち割られる! とパーティの仲間が戦慄した瞬間、
ブンッ! と “退魔の聖剣” が低く唸り、聖銀の刃から巻き起こった烈風が頭上に迫る大刀を跳ね飛ばした。
いや、跳ね飛ばしたのは巨大な刀身だけではない。
大刀を持つ “豚の王” の手首ごと、斬り跳ばしてしまっていた。
「BUHI?」
“豚の王” が無くなった手首の先を見て当惑した瞬間、当惑した表情のまま今度はその頭が転がった。
変異の中の変異だろうが、王の中の王だろうが、関係はなかった。
“退魔の聖剣” の行く手を遮る者は、それがいかような存在だろうとも、屍山血河を晒すことになるのだ。
◆◇◆
「きゃー、美少女ホビットの氷像が――」
氷像になる前に自称美少女ホビットの足下が、ボゴッ! と陥没した。
「……はひ?」
一瞬だけの浮遊感が、パーシャの目を点にさせた。
直後に始まった自由落下が、文字どおり加速度的に彼女を奈落の底へと突き落としていく。
「はひぃいいいいいーーーーーーーーーーーっっっ!!!」
だが熟練者でもあるホビットは、落下しつつも考えた。
落ちゆく先が奈落なら、むしろラッキー。望外の幸運。
ベチャッと壁に投げつけたトマトみたいに潰れるまで、きっと猶予がある。
それまでに助かる算段を考えればいい。
そしてパーシャは考えた。
考えて、考えて、考えて――。
そして何も思い浮かばなかった。
短い手足はどうバタつかせても、壁面には届かない。
呪文を唱えようにも、この状況で役立ちそうなものはない。
一番可能性のある “転移” は、封じられてしまっている。
古代に存在したという “反発” の呪文は失われて久しく、魔導大国のリーンガミルですら未だ復活に成功していない。
火の玉や、電撃や、氷の嵐を飛ばしてみたところで、命綱の代わりにはならない。
昏睡や、暗闇や、酸欠を発生させても無意味であり、猛スピードで墜落中なので、座標は半瞬ごとに更新されている。
空気のように透明になれば、もしかしたら助かるかも――とも思ったりもしたが、透明になったところで実体として存在している以上、いずれはベチャッと潰れる。
要するに、打つ手がナッシングだった。
(……あれ、もしかしてあたい、詰んじゃってる?)
自分はこんな所で死ぬのか?
こんなあっけなく死ぬのか?
誰にも見送られることなく出てきた故郷の村に戻ることもなく、こんな地の果ての地の底ので、壁にぶつけたトマトみたいに潰れて死ぬのか?
そこでようやく、パーシャの中に恐怖が湧いた。
嫌だ、死にたくない!
死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!
そしてパーシャは目の前が、真っ暗になった。
視界いっぱいに広がる、漆黒の外套。
襟首をむんずと掴まれたと思った次の瞬間、全身に――特に首回りに――凄まじい衝撃が走った。
絞首刑にされた人間は、きっと息絶えるまでの僅かの間、こんな苦しみを味わうに違いない。
「おっ……ちゃん……チョーク……チョーク……」
魔法の短刀を壁面に突き立て、それでも慣性で一〇メートル近く岩盤を斬り裂いたアッシュロードの身体を小さな手がタップする。
「人間は一分かそこら窒息したところで、死にやしねえ」
「そ……んな……殺生な……」
顔全体を血膨れさせながら、それでもパーシャはどうにかアッシュロードの背中に這い上り、気道を確保した。
「ぶはーーーーっっっ! 死ぬかと思った! いろんな死因で!」
「おめえの短刀も寄越せ。一本んじゃ足りねえ」
ぜえぜえと喘ぐパーシャの右手が、自らの腰の辺りを彷徨った。
手探りで象牙の拵えの短刀を引き抜くと、アッシュロードに手渡す。
陥没と同時に穴に飛び込んだ黒衣の君主は、 ホビットの少女が “ぶっさすもの” と名付けた魔法の短刀を、再び岩盤に突き刺す。
右手には、自身の+2相当の 短刀 。
左手には、パーシャの “ぶっさすもの”
さらに鉄靴の鋭い爪先が、左右ともに。
四点確保でアッシュロードはどうにか、奈落に続くかのような深いクレバスの壁面にへばりついていた。
「こ、これは、なかなかになかなかな状況だね」
パーシャはまず足下を見下ろし、それから頭上を見上げた。
どちらも虚無的な暗黒が拡がっているだけだ。
「フェリリルの “永光” が見えない……」
それから、勃然と激しい怒りが浮かんだ。
「迷宮の一部なんでしょ! なんでこんなに深いのよ!」
「おそらくこの鍾乳洞自体が、どこか別の場所にあるんだろうよ。それを無理やりに次元連結させてるんだ」
だがこれだけの大仕掛けだ。
深いクレバスの所々で時空が歪んでいて、パーティの灯す明かりはどこか別の時間と空間に届いてしまっているのだろう。
「階層の端と端とを繋ぐのとは訳が違うってこった」
「サイテー」
ブツブツと零すホビットを背負いながら、アッシュロードは壁面を登っていく。
パーシャは男の背中で、+3相当の魔法強化が施された自分の愛刀が、硬い岩盤に易々と突き刺さっていくのを目で追った。
“ぶっさすもの” とは、我ながらよく名付けたものだ。
「……おっちゃん、あたいを助けるために飛び込んでくれたんだよね」
網膜に焼き付いている、落下の瞬間。
床が抜けたのは、自分の周りの数メートルだった。
猫背の男が立っていた場所は、崩れてはいなかった。
男は自分を助けるために、奈落の底にダイブしてくれたのだ。
ありがたくもあり、申しわけなくもあり、“ 悪” なのにと意外に思いつつもあり、このおっちゃんなら当然そうするだろうな、と妙に納得もしていた。
「ジメジメしてるなんて言うからだ」
しかしパーシャが礼の言葉を口にする前に、容赦ないツッコミが返ってきた。
「だってホビットの家と比べたら、こんな場所、ミミズとオケラの住処――」
ボロッ! と短刀を突き刺した岩壁が崩れて、パーシャは慌てて口をつぐんだ。
迷宮には意思があるといわれているが、ここは大概すぎる。
「大丈夫だ、お前はまだ軽い」
「はぁ? そんなの当たり前じゃない。あたいはホビットだよ」
「ホビットだろうがなんだろうが、人は死んだら重くなる」
「な、なによそれ。そんなわけが――」
「無意識に取ってる重心がなくなる。死んだ瞬間にズンとくる」
生きているんだから問題ない――と言外にいわれて、パーシャは押し黙った。
そして呆れて、納得して、神に感謝した。
この男はこうやって、親友のエバやフェリリルの心を盗んだのだ。
自分の男の趣味がまともで本当によかった――とホビットの少女は神に感謝した。
「俺ぁ昔から山岳小説が好きだったんだ」
「サンガクショウセツ……?」
「山登りの物語だ」
「そんなのがあるわけ?」
「ある。向こう側の世界にな」
男は猫人族のくノ一から聞かされ、自分が転移者だと今は知っている。
だからほとんどは、記憶ではなく知識として持っているだけに過ぎない。
それでも、これまで封印の網目から落剥してきた絵を継ぎ合わせれば、ある程度のプロファイリングはできる。
本来の自分――灰原道行という人間は、山岳小説が好きだった。
登山に人生をかける孤高の男たちの物語が好きだった。
パーティを組んで、あるいは単独行で、人跡未踏の領域に挑む。
そしてそんな物語が好きだった本来の自分とやらも、きっと今と大して違わない、根暗で孤独な人間だったに違いない。
「山は神々の山嶺だ。征服しようとする者に牙を剥く。打ち倒すのではなく同化して一体にならなければ登頂はできない」
「なんか迷宮みたい」
「ああ、登るか潜るかの違いがあるだけだだな」
(……だから俺はこうして、こんな小生意気なガキを背負って、こんな苦労を背負い込んでるってわけか)
アッシュロードが奇妙な納得に至ったとき、微かな低周波が鼓膜に響いた。
それは人間が本能的に不快に感じる音で、誰しも一度は耳にし、うなじの毛を逆立てた経験があるはずだ。
ブゥゥゥ…………ゥンンン!
「あ、あたい、この音聞いたことがあるかも……」
パーシャが怖気をふるって告げた。
「ああ、俺もだ」
アッシュロードの声もまた、嫌悪感が抑え切れていない。
深いクレバスの壁にへばりつく彼らを、“迷宮地蜂” の大群が包囲しつつあった。
◆◇◆
そこは大気の質が、明らかに違った。
地下迷宮に充ちる空気は、どこの迷宮のどの階層でも一様に澱み重苦しかったが、ここはまるで瘴気の底に沈んでいるようだった。
“呪いの大穴” ――今は “林檎の迷宮” と名前を変えた大迷宮の最下層。
その特異な空気は、先程まで天を衝いていたパーティの志気を雲散霧消させた。
それ故だろうか。
先頭のドーンロアの直後につく女騎士が、主君の背中がどこか歪んで見えることに戸惑いを覚えていた。
輪郭がぼやけ、それが主君のものだと上手く認識できない。
「気がついたか。ここでは “認知” の加護が効かぬことに」
背中越しの主君の言葉に、配下の騎士たちがあっと息を呑んだ。
確かにその通りだった。
認知力を高め、迷宮の暗闇で遭遇する魔物の正体を瞬時に識別する貴重な加護が、効果を失っていた。
「魔法封じですか? それとも無効化――」
訊ねながら女騎士は、そのどちらでもないと思った。
魔法を封じられたわけでも、施していた魔法を打ち消されたわけでもない。
階層に充満する魔素があまりにも濃すぎて、単純に認知が歪み低下しているのだ。
「ここからは手探りでの戦いになる。手始めにこの一戦に生き残り慣れるがよい」
ドーンロアが真紅の裏地のマントを跳ね上げ、長剣を抜き放った。
女騎士はようやく気づいた。
前方の空間に立ち塞がる巨大な影に。
それは紛れもなく巨人の影だったが、巨人であること以外は判別できなかった。







