3・4・5★
鼻のひん曲がる悪臭に、そのものの鳴き声。
リーンガミル地方ではゴブリンとも呼ばれる“豚面の獣人”は、“小鬼”と蔑称される小柄な獣人だ。
しかし “緋色の矢” の前に現れた五頭は、どの個体も身の丈が二メートルを超え、とても小柄の範疇に収まるサイズではない。
「“小鬼” じゃなくて “大鬼” だよね……絶対」
盗賊 のミーナが、腰から短剣 を抜き放った。
パーティ最年少の愛らしい顔立ちが、最大級の渋面に歪んでいる。
それもそのはずで、眼前に現れたのは豚は豚でもその支配階級である “豚の王”
“豚面の獣人” の中でも特に体躯と膂力に秀でた個体が、略奪で戦闘技術を磨き、その蛮勇からカリスマ性を得、ついには一枝族を率いるまでになった存在だ。
本来ならそれぞれの洞窟で一族を率いて繁殖と略奪の日々を送っているはずだが、
迷宮支配者の “僭称者” に召喚され、徒党を組まされた挙げ句に使役されている。
「BUHI! BUHI! BUHIHIHIii!」
「醜い……!」
我知らず、スカーレットが呻いた。
迷宮の魔物はどれもおぞましい姿をしていたが、一方で、対峙する者を畏怖させる威容を誇ってもいた。
だが目の前の直立巨大豚は、ただただ醜悪で、下品で、臭かった。
(こんな図体だけの魔物など――)
練達の女戦士が抱いた一瞬の侮りを、しかし “豚の王” は見逃さなかった。
先頭の一頭が振り抜いた蛮刀が、予想外の鋭さでスカーレットを襲う。
意識の先を行く反応が、彼女を救った。
激しい火花が散り、左手が持ち上げた ”伝説の盾” に、信じがたい衝撃が走る。
鼻の奥が焦臭くなり、鉄靴の鉄鋲が床を噛んだまま、彼女を後退りさせた。
(なんだ、この重さは!?)
鎧下の下で、スカーレットの総身が噴き出した汗で濡れた。
そして驚愕した。
あと半瞬反応が遅れていたら、一刀のもとに斬り伏せられていただろう。
生命力が100を超える自分が――である。
それもそのはずで、“林檎の迷宮” に出現する “豚の王” の最大与ダメージは140.
“呪いの大穴” に出現した最大与ダメージ72に比べて、ほぼ倍化している。
まともに食らったら、熟練者のスカーレットでも即死する。
「気をつけろ、ただの “豚の王” ではないぞ!」
「……ぬ!?」
別の一頭の肩口に手練の一撃を加えたゼブラが、強烈な反撃を受け、飛び退った。
血しぶきを上げながらも黄ばんだ牙を剥き出しにし、凶暴さを増してさえいた。
生命力もまた80から120へと、五割増しに強化されているのだ。
前衛の苦戦を見て取ったノエルとヴァルレハが、個々に支援魔法の詠唱を始める。
それを見た残る三頭が詠唱の邪魔をし、好物の人間の女を喰らうべく殺到した。
「こっちに来るな! 臭い奴!」
後衛の護衛役であるミーナが立ち塞がり、啖呵を切って身構える。
しかし数の上でも、攻撃力と耐久力でも、大人と子供以上の差があった。
こうなれば唯一勝る敏捷性で翻弄するしかない。
いざとなればこの身を盾にしてでも、前衛が来るまでの時間を稼ぐ。
「やっぱりこっちに来な! 臭い奴!」
(三頭まとめては大迫力だね。まるでスタンピード!)
異変は、ミーナが紙一重の回避からの逆撃を狙い腰を落とした時に起きた。
先頭の身体が突進しながら袈裟懸けにズレ始めて、斜めに両断されたうちの下半身だけが迫ってくるという、戯画チックな光景が現出した。
その下半分が大量の血液と臓物をぶちまけて、ミーナの目前で力尽きる。
「この剣を自分の物にできるなら、寿命の半分を差し出しても惜しくない」
血煙の向こうから現れたエレンが、手にする “退魔の聖剣” を見て恍惚と呟いた。
◆◇◆
「“泡黴” よ! 気をつけて、魔法も竜息もないけど、石化があるわ!」
エルフの少女の喚起に、黒衣の男が前に出た。
漆黒の外套を跳ね上げ、白金を金であしらった豪奢な鞘から、同じ意匠の拵えを引き抜く。
“退魔の聖剣” を除けば現存する最高の魔法剣――銘 “貪るもの” の長大な刀身に、グレイ・アッシュロードの横顔が映り込む。
石化を持ちが相手なら、身の内に “デーモン・コア” を宿すこの男の試金石だ。
出現した “泡黴” は、全部で九匹。
アッシュロード以外では、生きた石像にされる危険がある。
熟練者の僧侶であるフェリリルはすべての加護を授かってはいるが、それでも石化が治療できる “神癒” は四回しか嘆願できない。
“神癒” は迷宮での切り札だ。
地上までの道程の厳しさを思えば、可能な限り温存しなければならない。
「おおっと、ちょい待ち、おっさん! 先にコイツを試させてくれ!」
パーティの全面に立ったアッシュロードの背中を、ジグリッド・スタンフィードの快活な声が追い越した。
サッと黒衣の君主が身を躱す。
「召しませ、盗賊神速の氷息、いざご馳走!」
「真似すんな!」
本家のホビットの少女が神速の反応で飛び上がった瞬間、盗賊が“泡黴” に向けた聖銀の兜から、真っ白な息吹が噴き出した。
それは周辺の大気を一瞬で細氷に変えながら、漂い近づく九匹の “泡黴” を、薙ぐように包み込んだ。
“氷嵐” に匹敵する冷気曝され、“泡黴” がたちまち凍り付く。
不定形の身体に重い氷塊が付着し、元々機敏ではない動きがさらに低下する。
魔法そのものに抵抗力は持たないのだ。
しかし最大で120にも達する生命力は強靱だった。
三匹が床に落ちて砕け散ったものの、残りは死滅するまでには至らず、ゆらゆらとなおも浮遊を続けている。
アッシュロードが、その最初の一匹を粉砕した。
鍾乳洞の湿気を吸っていたがために内部まで凍り付き、鈍重になった巨大な黴は、熟練の探索者にとって、もはや何ほどの脅威にもならない。
仲間の戦士たちが手を貸すまでもなく、黒衣の君主は残る “泡黴” を砕ききった。
「こいつは使えるぜ」
ヒュゥ、と短く口笛を吹いて、ジグが感嘆した。
「これで永久品だっていうんだから、魔物が可哀想になる」
「欲を言うなら、“氷嵐” じゃなくて “絶零” くらいの氷息を吐いてほしかったよね」
ピョンピョンと跳ねながら、パーシャがジグの手にする “伝説の兜” を覗き込む。
「“生命を吹き込まれた物” だったときには擬似的な生命力が宿っていて、それが “絶零” 並みの氷息の威力に繋がっていた。生命力の半分が吐息の威力ってのが、世界の理だからな」
アッシュロードが長剣を鞘に戻しながらいった。
「“伝説の兜” に戻った以上、擬似的な生命力も消えた。今吐いているのは正確には無限に使える “氷嵐” ってことだ」
「だったら “絶零” を封じてくれればよかったのに。女神さまも絶妙にケチ臭いよ」
「パーシャ」
ホビットの少女の不敬な物言いを女神の神官であるエルフの少女がたしなめる。
「例え “氷嵐” だとしても後衛にまわった盗賊が使えるのはデカい。そいつをいかに使い倒せるかが、地上に戻るための鍵だろう」
「まかせとけ。魔物に出会う端から、かならず一吹き見舞ってやるぜ」
「でもさ、戦闘の度に両手で兜を差し出すのって、なんかマヌケだよね」
「なにを、それならまずお前から凍らせてやる」
「きゃー、美少女ホビットの氷像が――」
氷像になる前に自称美少女ホビットの足下が、ボゴッ! と陥没した。
◆◇◆
「殺れ」
ドーンロアが短く鋭く命じた直後、閃光が炸裂した。
迷宮が崩れるかと思われる衝撃、激震。
宙空に出現した三体の巨大な赤い骸骨――不死属モンスター “泣き骸骨” が、泣き叫ぶ間もなく、対消滅の膨大なエネルギーに呑み込まれた。
純力=物質量×光速力×光速力
最も有名な魔導方程式から導き出される、宇宙開闢と同質の純力。
閃光が治まり、三体いた “泣き骸骨” は一体だけになっていた。
不死属だけに魔法無効化能力があり、二五パーセントの確率で耐呪する。
再びの閃光が走った。
それは “対滅” の白光よりも指向性が強く、まるで白い矢の如く、残る一体に向かって突き進む。
“君主の聖衣” の加護を受けたドーンロアが肉体の限界を突破した動きで、やはり “聖衣” の力で斬れ味の増した魔剣を振りきる。
不死属に対する特攻を得た魔剣 “貪るもの” が、浮遊する巨大な骸骨を一刀両断。これを滅した。
戦いはそれで終わりだった。
「こ、こいつは凄え。この籠手さえありゃ “僭称者” だろうが “魔太公” だろうが、屁でもねぇ」
籠手に封じられていた力を解放、眼前の光景を現出させた盗賊が、その力に恐怖し慄えた。
それは女騎士を始めとする仲間たちも同じだった。
“伝説の籠手” 自身の火器管制がなければ、迷宮全体を一瞬で崩壊させかねない究極の破壊の力。
この力を無限に使えるのなら、世界を燃やし尽くすことすら出来る。
そして実際に、無限に使えるのだ。
勝てる。
負けるはずがない。
この籠手と、聖なる鎧をまとうソラタカ・ドーンロアがある限り、相手がどんな奴だろうと負けるはずがない。
自分たちは今、文字どおり究極の力を手に入れたのだ。
パーティの志気は天を衝いた。
もはや最下層への挑戦を躊躇う理由はどこにもない。
ドーンロアを先頭に、リーンガミルの正当なる騎士たちは縄梯子を下り始めた。







