血戦の地へ
「おはようございます――わたしは今、善意でも義務感でもなく、わたし個人の我がままでここに立っています」
迷宮の入り口前。
朝日に照らされ足元に西に長く伸びる影を作りながら、探索者ギルドの受付嬢 ハンナ・バレンタインさんが、強い意思を宿した眼差しでわたしたちを見つめました。
昨夜 羽織っていた物よりも厚手の外套は朝露に濡れて、下ろしたフードから水滴となって零れ落ちています。
わたしたちの休息と準備の邪魔してはいけないとここで――おそらくは一晩の間ずっと待っていてくれたのでしょう。
「行くのですね?」
「はい」
ハンナさんの視線がわたしに向けられます。
決意の込められたその瞳が、リーダーのレットさんではなく自分に向けられた意味を理解できないほど、わたしは子供ではありません。
「では、これを持っていってください」
ハンナさんが腰に着けた大きめの雑嚢から、厚手の防水布に厳重に包まれた物を取りだし、わたしの前で広げました。
防水布の中から出てきた物は “十枚程度の羊皮紙の束” “金色に輝く鍵” そして “青い綬” の三つでした。
「これは……」
「ギルドで販売している “迷宮の地図” と、地下一階の暗黒回廊に入るためのキーアイテム “金の鍵” 。そして地下四階にある二基目の昇降機の許可証 “青の綬” です」
「この上もなく貴重な贈り物です!」
ハンナさんの説明を頭の中で反芻し、その意味するところを理解したわたしの口から驚嘆と感謝の声が漏れました。
これらの品物があれば、わたしたちは地下二階にキーアイテムを取りにいく必要もなくなれば、五階まで一階ずつ縄梯子で下りる必要もなくなるのです!
「……勝算が見えてきた」
「ああ、これで八階まで一気に潜れる」
カドモフさんが、むぅ! と意気込み、ジグさんがニヤリと口の端で笑ってみせます。
「ミストレス・バレンタイン――いや、ハンナ。感謝する。本当に感謝する」
やはり溢れんばかりの喜悦を浮かべたレットさんが、防水布の上のアイテムから顔を上げてハンナさんにお礼を言います。
「でも、いいのか? こんな貴重な品。君の裁量でどうにかなる物なのか?」
……あ。
レットさんの言葉に、わたしの表情から喜びの色が消えます。
レットさんの言うとおりです。
これほどのアイテムを持ち出すとなると、ギルド長かそれに次ぐくらいの高い役職の認可が必要なはずです。
探索者の支援をする官営ギルドとはいっても、所詮はお役所に違いありません。
ようやく朝日が登り始めたこの時間に、ハンナさんがそんな偉い人から許可をもらってきたとは到底思えず……。
「受付嬢の裁量では、どうにかならないでしょうね」
ハンナさんが微笑みます。
何かを突き抜け吹っ切った、透きとおるような笑顔です。
「厳罰は覚悟の上です。それでも死を賭して友人を助けに行くあなたたちを、ただ見送りたくはなかったんです」
そして、わたしを見つめるハンナさんの瞳が、長い睫毛が、結んだ唇が……震えました。
「あの人は、わたしたちが必ず連れて帰ります」
それがわたしに言える、ハンナさんへの精一杯のお礼――言葉でした。
「お願い……します」
アンナさんが両手を揃えて丁寧に、そして深々と頭を下げます。
その時、遠くから蹄の音が聞こえました。
その音は瞬く間に大きくなり、城塞都市から続く悪路を砂塵を巻き上げ駈けてくる、一騎の白馬となって現れました。
操るのは、旭日を浴びて文字どおり燃えるように燦然と輝く緋色の髪の女性。
「そこのパーティ、待った!」
白馬にまたがり颯爽と現れたスカーレットさんはそう叫ぶと、鞍も置かれていない乗馬を巧みに操って、わたしたちの前に止まりました。
襲歩からの見事な減速、停止です。
「君は――どうして」
レットさんが馬上のスカーレットさんを見上げて、驚きの表情を浮かべています。
「どうやら、わたしよりも先に来ていた者がいたようだな」
スカーレットさんは、わたしたちの中にハンナさんの姿を認めて顔をほころばせました。
それから再び口元を凛々しく引き締め、馬上からレットさんに訊ねました。
「レット。おまえが今日これから迷宮に潜らなくても、八階にいるおまえの仲間はおまえを恨んだりはしないだろう。命の果てるその瞬間、助けに現れなかったおまえを許すだろう。それでも行くのか」
「確かに命の果てる瞬間には許してくれるだろう。だがそれまでの時間は、迷宮を彷徨い、餓えと渇きに苦しみ、魔物から逃げ惑っている最中には、俺たちが迎えに来ることを信じて、それだけを心の支えにしているはずだ」
レットさんは答えます。
「人にとって何よりも辛いのは死ぬことじゃない。大切な誰かの信頼に応えられないことだ」
それは飾り気のない言葉でした。
まるでレットさんの人柄を現しているような飾り気のない、でもとてもとても真摯で誠実な言葉。
その言葉は、わたしだけでなくこの場にいた全員の胸に深く染み入りました。
きっと、スカーレットさんの胸にも……。
「――選別だ。持ってゆけ」
満足げな笑顔を浮かべたスカーレットさんが、レットさんに “何か” を放りました。
小さな小さなその “何か” が日の出を反射してキラキラと輝きながら、レットさんの掌に収まります。
「これは―― “滅消の指輪” じゃないか!」
「それがあれば地下八階までのほとんどの魔物を塵にできる。未熟なおまえたちでも仲間と再会することができるだろう」
「あ、ありがとう!」
「礼には及ばぬ。わたしはわたしの戒律に従ったまでだ」
破顔するレットさんにスカーレットさんが微笑んだとき、城塞都市の方からさらに数騎の騎馬兵が駈けてきました。
血相を変えた、騎乗の衛兵さんたちです。
「ふっ、やっと来たか」
「スカーレット、君は――!」
「道の端をコソコソと行くのは性に合わないのでな。なに、心配は無用だ。たとえ “覇王の道”の真ん中を早駆けしたとて、初犯なら死罪にはならん」
スカーレットさんは馬首を巡らして、疾駆してくる騎乗兵に向かって叫びました。
「――衛兵の諸君、任務ご苦労! わたしはスカーレット・アストラ! 城塞都市 “大アカシニア” の探索者ギルドに所属する探索者だ! わたしは逃げも隠れもしない! さあ堂々と胸を張って同行しようではないか!」
その雄々しくも気高い姿に、つい今し方のハンナさんやレットさんの姿も重なって、わたしはつくづく思いました。
この迷宮という場所は何にも増して、人の―― “人間の戦いの場” なのだと。
そしてわたしは三人の仲間に向き直りました。
「皆さん、行きましょう!」
◆◇◆
「――もう無理よーーーーーーーーーーッッッ!!!」
エルフの少女が絶望に押し潰され壊れていく様を、アッシュロードは目の当たりにしていた。
錯乱し、大声で叫き散らし、自ら魔物を呼び寄せる。
止めなければならない。
そして、そうするための手っ取り早い方法が、彼の手にはあった。
アッシュロードは溜め息交じりに剣を鞘に戻すと、取り乱すフェルに声を掛けた。
「おい」
「――来ないで!」
近づいてきた “みすぼらしい男” に、フェルがビクッと戦棍の 柄頭を向ける。
「落ち着け。大声を出せば徘徊する魔物を引き寄せる」
「今さら良い人ぶらないで! 元はと言えばみんなあなたが悪いんじゃない!」
「俺が?」
「そうよ! あなたがわたしたちを助けるから二度もこんな目に遭うことになった!」
恐怖による混乱 。
「あなた、死んだことがないのでしょう!? だから保険屋なんて残酷な仕事が出来るんだわ!」
蘇生経験者の典型的な後遺症。
再度の生命の危機に陥ったときに見せる重度の病的興奮状態。
先程から耳鳴りがし始めたアッシュロードの頭の片隅で、冷めた分析がなされる。
「嫌よ、もう死ぬのは嫌っ! あんな冷たくて寂しい思いはもう嫌なのっ! 嫌なのよっ!」
フェルが戦棍を振り回して、アッシュロードを含めた自分の周囲のすべてを拒絶する。
時間がないのだ。
こんなことをしている間に、本当にホビットが死んでしまう。
アッシュロードは無造作にフェルの間合いに踏み込むと、 戦棍を振り回すエルフの少女の右手を簡単につかみ、さらに盾で振り払おうとする左手も反対の手でつかんだ。
そのまま玄室の内壁に押しつけて、強引に唇を奪う。
「――!?!」
フェルの瞳が驚きに見開かれる。
ガランッ、と大きな音を立てて、フェルの右手から戦棍が石畳の床に落ちた。
それでも構わずアッシュロードは唇を重ね続ける。
エルフの少女の身体から完全に力が抜けきるまで。
やがて唇を奪われたままフェルの身体が腰砕けになり、壁から床にズルズルと滑り落ちた。
そうなってから、ようやくアッシュロードはフェルから顔を離した。
そして、静かな口調で語りかける。
「いいか。よく聞くんだ。ホビットは――パーシャはまだ死なない」
「…………え?」
茫然自失でぼやけていたフェルの瞳に、再び焦点が戻る。
「……で、でも」
「ああ、加護は封じられている。水薬も使えない。でも、まだこれがある」
アッシュロードはそう言うと左手に嵌めていた “銅製の篭手” を外し、分厚い戦闘用の黒革の手袋を脱いだ。
そして薬指から飾り気のない銀の指輪を抜き取って見せた。
「……それは……?」
「“癒しの指輪”。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう」
フェルの目が再び見開かれる。
「まさか」
“癒しの指輪”
それは所持しているだけで、ゆっくりとだが着実に生命力を回復させてくれる、奇跡のような魔道具である。
遙か昔に製造法が失われた古代魔法帝国の遺物であり、“ボルザッグ商店 “ では一介の探索者からしたら天文学的な 300,000 D.G.P. の売値が付けられていたが、その在庫はいつでも払底していて、入荷は未定とされている幻の品だ。
「どこで……それを……」
「昔、最下層でな――フェル」
「は、はい」
いきなり名前を呼ばれて、エルフの少女は反射的に返事をした。
「これをあんたの手でパーシャに嵌めてやるんだ。そうすれば毒の効果を減殺することができる」
「そ、それじゃ!?」
「ああ、がきんちょは死なずにすむ。出来るな?」
「もちろんです! ああ、ありがとう! ありがとう!」
エルフの僧侶は両手で拝むように指輪を受け取ると、すぐに仲間であり友人でもあるホビットの魔術師の元に駆け寄った。
まず混乱を鎮め、次に希望を示し、最後に簡単な仕事と使命感を与える。
保険屋は死と蘇生――その両方と向き合う専門家だ。
蘇生経験者のグリーフ・ケアもできぬ人間が名乗ってよい職業ではない。
ただ迷宮から死体を拾ってくるだけなら、それは保険屋ではなくただの回収屋だ。
しかしアッシュロードは “翼竜” と “精霊” との連戦。そして今のフェルとのやりとりで、精根の尽き果てる思いだった。
もはや気力が欠片も残っていなかった。
やがて “癒しの指輪” を一番太い親指に嵌められたパーシャが目を覚ました。
「……気分はどうだ?」
「…………最……悪」
「……俺もだ」
耳鳴りでガンガンする頭で、アッシュロードは友人のエルフに抱かれるホビットの少女を見下ろした。
「……だが最悪ならもうそれ以上 悪くなることもないな」
アッシュロードはそういうと、現在自分たちが置かれている状況を説明した。
“精霊” との戦闘の混乱で、アレクとはぐれたこと。
そして “焔爆” を喰らった際に、地図を消失したこと。
「……つまり俺たちは、最後の命綱を失ったってわけだ」
自嘲気味にぼやいたアッシュロードに、
「……ここは……今の座標は…… “精霊” に襲われたときのまま……?」
ホビットの少女は落胆するでもなく訊ね返した。
「……? ああ、移動はしてないが」
「……それなら……大丈夫。あたいが……全部……記憶してるから」
「……なに?」
「えへへ……召しませ……ホビット自慢の……脳味噌……ここにあり……ってね」
そして紫に変色したパーシャの顔に、不敵な笑みが浮かぶ。
「……ここからは……あたいの……手番」
毒に冒されてなお地図係パーシャの無双が始まる。







