聖女、再び★
不意に視界が闇に染まった。
一寸先も見通せない漆黒に包まれ、先を行くドワーフの低い頭を見失う。
肌に纏わり付くような濃密な闇。
迷宮の真の闇。
(……くそっ、暗黒回廊か)
胸奥で舌打ちするアッシュロード。
地下迷宮ならあって然るべき仕掛けだが……今の自分の状態ではやっかい極まるギミックだ。
視覚、聴覚、嗅覚、感覚、味覚。
五感のすべてが “死の指輪” の呪いで変調を来している。
目は霞み、耳鳴りは激しく、臭いは感じず、肌に触れられても気がつかない。
舌先で舐める汗の味さえしなくなっていた。
「……ガブ、迂回できねえか? 今の俺にはちっとばかしキツそうだ」
アッシュロードは肩で息をしながら、目の前にいるはずの天使に訊ねた。
沈黙が答えた。
もしやわずかの間に、はぐれてしまったのか?
小さな手がアッシュロードの手に触れた。
「アッシュロード……ここは暗黒回廊ではないわ」
「………………そうか」
いよいよ呪いの効果が『霞み目』程度では済まなくなったようだ。
「……そいつは良い知らせだ。少なくともおめえは見えてる」
「わたしがあなたの目になる。心配はいらないわ」
「……わかってる」
見事な答えだ。と、ガブリエルは思った。
仲間に命を預け、仲間の命を担う迷宮無頼漢の答え。
善悪の属性すら越えた、信頼の言葉。
天使が口にすることのない、口には出来ない、命を賭けるに価する物語。
もう守護者と被守護者ではない。
ふたりは歩き出した。
(時間がないわ。アッシュロードは限界に近づいている)
ガブリエルは焦燥に駆られた。
命綱ともいえる癒やしの加護は、すでに半分を割り込んでいる。
たとえ精神力が残っていたとしても、肝心のアッシュロードが集中力を失い男神と接続できなければ、加護は嘆願できない。
回復の魔法を残したまま、指輪に呪い殺されてしまう。
頭の中に描いてきた地図を開く。
迷宮探索とはつまるところ、階層を虱潰しにしていく作業だ。
階層のすべての区画に足跡を残していく。
それが今はできない。
闇雲に歩けば歩くほど、アッシュロードは死に近づく。
(あの時、別の扉を選んでいれば……)
天使の――ドワーフの少女の胸に過る後悔。
ガブリエルとアッシュロードは “貴族の亡霊” と遭遇する前に、並んだ三つの扉に行き着いていた。
そして『正しき扉はひとつのみ』の立て札。
同様に並んだ扉は “呪いの大穴” と変容後の “林檎の迷宮” でも確認がされており、まるで模しているかのようだった。
ガブは地上への出口がある可能性が高い座標0、0を目指すために、一番南の扉を選んだのだが……。
「……道に迷ったら、鼻を利かすんだ」
「え?」
「……縄梯子にしろ階段にしろ、別の階層と繋がってる。空気が流れてる」
振り返ると、アッシュロードに透明な微笑が浮かんでいる。
ガブリエルが転生したのは、熟練者の盗賊 。
練達の斥候なら、 微細な大気の揺らぎを読めて当然だった。
ガブリエルはうなずくとチュパッと人差し指を舐め、顔前に立てた。
「こっちよ!」
五感を研ぎ澄まし、澱んだ空気のわずかな変化を感じ取る。
揺らぎは北からきていた。
ガブリエルはアッシュロードの手を引きながら迷宮を進む。
「……ここだな」
立ち止まったガブリエルよりも早く、アッシュロードが呟いた。
斥候でなくても感じられる風が、アッシュロードの肌に当たっている。
「……階段か? 縄梯子か?」
できることなら階段がいい。
上るにしろ下るにしろ盲た状態で一〇メートルの高さの縄梯子にぶら下がるのは勘弁願いたい。
「……ガブ?」
「そのどちらでもないわ。階段も縄梯子もない。あるのは上層への空気の流れよ」
「……強制連結路か」
「ええ」
階段や縄梯子と違い、強制連結路は一方通行。
行ったが最後、後戻りはできない。
地上に近づければいいが、もし迷宮の深みに陥ってしまったら……。
「……考えるまでもねえ、GOだ」
アッシュロードに躊躇はない。
すでに視覚は失われ、指輪が嵌まっている左腕の感覚もなくなっている。
今から引き返して階段や縄梯子を探している暇はない。
「いいわ。確率は二分の一。幸運ロールよ」
ガブリエルはうなずき、ふたりは強制連結路に足を踏み入れた。
強い上昇気流が湧き起こり、体重が消失する。
アッシュロードとガブリエルは空気の奔流に翻弄されながら、数秒後には上層階に達していた。
「はぁ、はぁ! 暗黒状態での強制連結路は、なかなか乙だ!」
床に投げ出されたアッシュロードの腹が、吹子のように上下する。
乙どころか二度と御免な絶叫マシンだ。
「その元気があればまだ大丈夫よ。さあ、行きましょう」
ガブリエルは減らず口を叩くアッシュロードの脇に短躯を差し入れ、立たせた。
彼女の相棒は、今や自力では立ち上がれぬまでに消耗していた。
「もう少ししたら回復しましょう。それまで頑張って」
アッシュロードの嘆願できる癒やしの加護は残り少ない。
苦しくてもギリギリまで節約するしかなかった。
「……了解だ」
進むは、闇。
待ち受けるは、死。
立ち向かうは、絶望。
そして目指すは、一筋の光。
死地に微かな光明を求めたぐり寄せるのが迷宮探索であり、迷宮探索者だ。
最後に光をつかめるかは、意思の強さ。
断固たる生への執着。
(わたしは、わたしの楽しいを守る!)
(……絶対に、絶対に連れ戻す!)
ガブリエルとアッシュロードの両足を、絶対の決意が突き動かす。
だから持ち上げたと思った爪先が蹴躓いて転倒したとき、“蟻民” から奪った剣を差し出して、アッシュロードは言った。
「……ガブ、俺の左腕を落とせ」
暗闇をみつめるような瞳が、ガブリエルに向けられる。
「……このままじゃ加護さえ嘆願できなくなる。もったいねえが、ここが決断時だ」
「……アッシュロード」
最上の癒やしの加護である “神癒” でも、欠損した四肢を再生させることはできない。
切断された部位を接合することはできても、失った肉体の一部を甦らせることはできないのだ。
ここでアッシュロードが左腕を切り落とせば、腕は指輪の呪いでたちまち腐り果てるだろう。
持ち帰って接合することは不可能であり、アッシュロードは不具者となる。
「いいえ、駄目よ」
「……他に方法はねえ」
「なくても駄目よ」
「……ガブ」
頑なに頭を振るガブリエルに、アッシュロードは説得の言葉がでてこない。
すでに精根は尽き果て、言葉を発するのも辛いのだ。
「駄目っていったら駄目! 嫌っていったら嫌!」
激しく拒絶すると、ガブリエルは小さな身体でアッシュロードを背負い上げた。
男のひょろ長い足を引き摺りながら歩き出す。
「あなたは黙ってわたしに背負われていればいいの!」
「……おめえまで死んじまうぞ」
アッシュロードは説得を諦め、目を閉じた。
「たとえ小指の先でも、あなたが失うのは耐えられない。第一そんなことになれば、彼女が還ってきたときに大変なことになってしまうわ。怒り狂ったライスライトが世界を滅ぼしてしまう」
「……大げさな」
「いいえ、大げさでもなんでもないわ。アッシュロード、あなたはまだ本当の彼女を知らない」
(あなたがあなた自身を知らないように)
ガブリエルが胸中で呟いたとき、それは起こった。
蒼白い聖光が迷宮に溢れ、ガブリエルの視界を奪った。
“熾天使” すら及ばない “聖” の気配が、ふたりを圧倒する。
こんな気配を発せられる存在を、アッシュロードはひとりしか知らない。
ガブリエルの言う “彼女” 以外の誰が、こんな神の降臨に等しい神圧を発せられるというのか。
やがて蒼白い光が集束を始め、人影を形作っていく。
光が完全に治まったとき、ひとりの尼僧が立っていた。
純白の僧衣に身を包んみ、僧帽から零れる髪が銀色に輝く少女。
「ライスライト、おまえなのか!?」
盲のアッシュロードが叫ぶ。
「いえ、ライスライトではないわ……」
ガブリエルが否定する。
エバ・ライスライトではない。
だがガブリエルは、この少女を知っていた。
「あなたたちの聖典に記されるところの、かつて伝説の勇者と共に魔王を討滅した――先代の “ニルダニスの聖女” よ」







