君主の受難★
確かに、臭いが違った。
地下迷宮にはそれぞれ、固有の臭いがある。
死臭、血臭、腐敗臭、黴、排泄物、そういった臭気そのものはもちろん、壁や床、天井、視界を染める闇から発せられる気配。
迷宮ごとにひとつとして同じ臭いはなく、階層ごとにも違っている。
世界三大迷宮のふたつを完全に踏破し、残るひとつにも半ば以上足跡を残しているアッシュロードだったが、この臭いには覚えが無い。
未知の迷宮だった。
(……文字どおりの地下牢ってわけだな)
自分という囚人を繋ぐための地下の牢獄。
クソ喰らえだ。
「“蟻民” も “提灯南瓜” も、あなたには手強い魔物ではない……とてもとても陰湿だわ」
斥候 として先に立つガブリエルが背中越しに、苦痛に顔を歪めるアッシュロードにいった。
たとえ拘束を解いて監禁されていた玄室から逃れても、真綿で首を締めるように、ジワジワと殺しに来る。
強力な魔物で一息に屠るのではなく低レベルのモンスターで徐々に、脱獄者の戦力を削ってくる。
“死の指輪” の呪いに切り刻まれる身体で死力を尽くし生き残れば、また次の雑魚が立ち塞がる。
「……そういうのをな『兵力の逐次投入』っていうんだ」
殺すなら全力で殺す。
獲物とじゃれるのは三流のやることだ。
どこのどいつか知らないが、意識のないうちに俺を殺さなかったことを後悔させてやる。
両手両足の指すべてに同じ指輪を嵌めてやる。
ドス黒い憎悪と復讐心が、鉛のようなアッシュロードの両足を動かしてる。
「そろそろ回復した方がいいわ」
ガブリエルが立ち止まり、振り返った。
頭ふたつ以上高いアッシュロードの土気色の顔を見上げる。
“死の指輪” は “毒” の三倍の速さで生命力を奪い去る。
アッシュロードの癒やしの加護は見る見るうちに減っていた。
「……マッピングは出来てるか?」
「頭の中でなら。一六×一六区画の階層よ」
高次元界の住人である天使の知力は、文字どおり次元が違う。
記憶力、空間把握能力など迷宮での目視での測量に必要な能力も、人類属を遙かに上回る。
ガワはドワーフでも、知性は熾天使のままなのだ。
「……こじんまりとしてやがるな」
癒やしの加護を施し、一息吐くアッシュロード。
“紫衣の魔女の迷宮”、“龍の文鎮”、“林檎の迷宮” どれもが、一階層二〇×二〇区画の規模を誇る。
この迷宮はそれらよりも二回りほど小ぶりだ。
(……未発見だった迷宮か? 発見済みなら、マグダラが何かしらの手を打っているはずだ。誰がなんのために……)
「問題は上るべきか下るべきかだと思うわ――そうでしょう?」
まるで散漫なアッシュロードの思考を読んだかのように、ガブリエルがいった。
「……そのとおりだ」
力なく苦笑するしかない。
迷宮では地上との出入り口がある階を第一層とする。
ここが “紫衣の魔女の迷宮” や “林檎の迷宮” と同じ地下なら、上る。
“龍の文鎮” のように岩山の内部なら、下る。
その先が第二層となる。
縄梯子や階段の類いを見つけたとき、決断しなければならない。
アッシュロードもガブリエルも “示位” の呪文は使えず、その力を宿した魔道具も持っていない。
出口に近づくか、それとも深みにはまるか。
「上るにしろ、下りるにしろ、魔物が強くなっていたら引き返しましょう!」
パムッと掌を合わせるガブリエル。
脳天気な仕草だが核心を突いている。
現状ではそれぐらいしか、迷宮の深度を探る術がない。
「……それで行こう」
(……“林檎の迷宮” の最奥に飛ばされたときよりもマシだ)
やさぐれた君主は気を引き締め直し、再び地上を目指す。
グレイ・アッシュロードには助けなければならない娘がふたりもいるのだ。
こんなところで立ち止まっている暇など一秒たりとてない。
短躯と長躯のバディは未知の迷宮を行く。
やがて――。
「この扉の先が、この階層の “E0、N0” よ」
ガブリエルが足を止め、南の内壁に現れた壁を見た。
彼女とてただ闇雲に進んでいるわけではない。
階層の四隅。
特に南西の角には、地上への出口が設けられていることが多いのだ。
「準備はいい?」
アッシュロードが剣を構えるのを確認するとガブリエルは扉に近づき、危険の有無を調べた。
罠がないのを確認すると扉に耳をつけ音を探る。
魔物の気配はない。
ガブリエルはそっと扉を押し開けた。
フルパーティなら蹴破って雪崩れ込むところだが、今は気取られないように慎重を期すべきだった。
梯子も階段も……ない。
扉の奥は一×一の玄室で、上層への縄梯子も下層への階段もなかった。
ただ不思議な香りの香が焚かれた玄室の中央には、フードを被った人型の彫像が立っていた。金色の光に照らされた彫像には宝石がちりばめられている。
嫌な予感が走った。
一〇メートル四方の玄室に急速に広がる妖気。
「……こんなところで出会うとはな」
懐かしい旧友との再会にアッシュロードが口の端を歪めた。
かつては高価だったに違いない貴族風のジュストコールにジレ、キュロット姿の亡者――。
“貴族の亡者” が現れた。
狂気の大君主トレバーンの士官学校時代の学友。
大貴族の子弟で、下級騎士の出身だったトレバーンを蔑み嘲った少年。
後年トレバーンが帝位に就いたあと格別の慈悲を以て “無視” された結果、恐怖と疑心暗鬼から家族家臣を惨殺した末に狂死。
死後も紫衣の魔女によって彼女の迷宮の一画に、駆け出し探索者の練習相手として縛り付けられている、永遠に安らぎ得られぬ存在。
それが “貴族の亡者” だ。
だが――。
(……別の個体だ)
すぐにアッシュロードは気がついた。
似ているが別人。別の個体。
アンドリーナの影響を受けたのか。この迷宮の支配者は、アッシュロードの知らぬ貴族を再利用したのだろう。
「わたしに任せて」
ガブリエルが左右の腰から短刀を引き、気息奄々のアッシュロードをかばった。
「……任せた」
下がるアッシュロード。
生まれたてとはいっても熟練者の盗賊 だ。
先ほども “提灯南瓜” を鮮やかに屠っている。
“貴族の亡者” ごときに後れを取ることは……。
ドタドタドタ!
ドタドタドタ!
ドタドタドタバタ!
「きゃーっ!」
しかしアッシュロードの期待は、あっけなく裏切られた。
攻撃が届かず、逆に亡者に追いかけ回されるガブ。
「おい、ガブ! なにやってやがる! 手足が短すぎるぞ! カドモフを見習え! あいつならそんなドタバタはしねえ!」
「そんなこと言ったって、どうも身体がしっくりこないわ!」
「ど、どうにかしろ! 仮にもおまえは魔王に匹敵する最強天使だろうが!」
「今はただのドワーフなの!」
どうやら “提灯南瓜” を仕留められたのは隠れる からの不意打ち が決まったお陰らしい。
手先は器用で罠の解除には長けているが、それだけで探索者の盗賊は務まらない。
時として前衛職と伍しその敏捷性を活かした立ち回りで、魔物と渡り合わなければならないのだ。
そしてドワーフの敏捷性は人間属では最低だった。
「なんで人間かホビットか、せめてエルフかノームか、とにかくドワーフ以外の種族を選ばなかったんだ!」
君主の受難は続く……。







