勃然★
艶やかな栗色の髪は細腰にまで流れ、漆黒の瞳は森間の湖のように静逸だった。
ドワーフの最高の匠でも再現できないと謳われる美貌は、齢を重ねるごとに叡智と母性を増し、衰えるどころか一層の輝きを放っている。
再出現してきた自分たちの統治者の姿に、“街外れ” に駐屯する兵士二〇〇余名の刻が奪われた。
「お下がりください、陛下! アッシュロード卿の安全は確認されておりません! 魔術師が到着するまで今しばらく! 今しばらく!」
忠誠心と義務感が亡失した時間を引き戻し、指揮を執る中隊長がハッと我に返って叫ぶ。
「それには及びません」
「陛下!」
「アッシュロード卿は正気です」
女王は割って入らんとする兵士を冷静な声で制すと、今にも頽れそうな男に歩み寄った。
“紫衣の魔女” を除けば彼女こそ、世界最高の魔術師なのである。
「よくぞ、よくぞ……戻ってくれました」
マグダラの長いまつげが揺れて震える指先が、襤褸雑巾のようなアッシュロードに伸びる。
その手首をアッシュロードの手が加減なくつかむ。
炭化した戦闘用の手袋がバラバラと崩れ落ちた。
「無頼漢どもを集めろ、俺が救出隊の指揮を執る! エルミナーゼは無事だが、俺を助けるために奴らの元に留まった! おめえの娘はおめえに輪を掛けて無茶な娘だ! 俺は……連れ戻せなかった!」
アッシュロードの顔面が激しい苦痛とそれ以上の後悔に、ぐにゃりと歪んだ。
マグダラの唇が何事かを紡ぐ。
「よせ、今は――」
ハッとしたときには “神癒” の加護が効果を現し、アッシュロードは自身が危惧していたとおり意識を失った。
「あの娘と話してくれたのですね……今はそれだけで充分です」
頽れたアッシュロードを抱き留めながら、マグダラが囁く。
「アッシュロード卿には休息が必要です。すぐに卿を寺院に運びなさい」
「は、はっ! 直ちに!」
マグダラの判断は正しかった。
あと数秒 “神癒” の嘆願が遅ければ冷静さを失ったアッシュロードが、二〇〇名の兵士の前で暴露してしまっただろう。
『今回の裏には魔族がいる』
――と。
◆◇◆
そこは地下迷宮に似つかわしくない、豪奢な部屋だった。
一×一区画、一〇メートル四方の玄室。
壁際に作り付けられた暖炉の炎が赤々と燃え、迷宮特有のジットリと冷たい湿度を追い払い快適だった。
ただその炎以外に明かりはなく、部屋の大部分は薄闇に覆われていた。
家具も調度品も名工の手による逸品のようだったが、そのほとんどが仄暗闇で息を潜めている。
暖炉の側には大きな安楽椅子が置かれていて、黒い法衣姿の人影が深々と身を沈めていた。
目深にフードを被っているので顔は見えなかったが、エルミナーゼにはその人間が男で、酷く年老いていることがわかった。
「……よく似合っている」
酷くしわがれた声が、安楽椅子の男から漏れた。
「これしか着る物がなかったからです」
純白の瀟洒なドレスをまとったエルミナーゼが、憤りの籠もった声で答える。
「あなたが “僭称者” ですね?」
リーンガミル王家の誇りと恨みが、侮蔑を投げつけずにはいられない。
「……左様」
しかし老醜の魔術師は動じなかった。
怒りを表すどころか疲れ切った声で肯定する。
魔導王国リーンガミルを滅亡の淵にまで追い込んだ最凶最悪魔術師のはずなのに、なんの気配も感じない。
ただただ年老いた枯木のような気配が滞留しているだけだ。
エルミナーゼは戸惑いを覚えた。
「なぜわたしをさらったのです? 何が目的なのです?」
「……迷宮はすべての望みが叶う場所」
「なにを……」
「……そなたも叶ったようだな」
「だから何を言っているのです!」
「……求め焦がれていた “父性” に触れられたのであろう」
老いた魔術師の言葉はエルミナーゼの顔面を、まともに打った。
母親譲りの麗貌から血の気が引き、白い肌が真っ青になる。
「ち、違……」
「……否定は無意味だ。そなたの願望は真夏の日の光のように熱く曇りがない。純粋ゆえに鏡に映すようにわかりやすい」
「ならば――あなたの望みはなんなのですっ! 迷宮がすべての望みが叶う場所だというのなら、その支配者であるあなたの望みはなんなのですっ!」
羞恥と怒りが、エルミナーゼの血を逆流させた。
体温が一気に数度高まったかのように、老醜の魔術師に詰問する。
「正統なる権利の奪還」
その瞬間 “僭称者” の身体から触れられるほどの圧力が放射され、エルミナーゼは後ずさった。
「せ、正統なる権利……?」
「然り。この手にするはずだった、地位、栄誉、名声、富、責務――奪われたすべてを取り返す。この迷宮はそのためのもの」
「それはあなたの権利などではありません!」
圧倒的な気配に呑まれながらも、王家の血がエルミナーゼを奮い立たせた。
「あなたの邪な野望のためにいったいどれだけの犠牲がでたか! 王族も、貴族も、平民も、あなたのせいで地獄を見たのです!」
エルミナーゼは憤った。
王族はふたりの姉弟を除いて根絶やしにされた!
貴族の大多数は魔物の贄に供された!
国民の犠牲は一〇万を超える!
すべては目の前の史上最大の簒奪者がもたらした厄災だ!
「地獄? 地獄だと? 地獄の意味も知らぬ小娘が何を言う! よかろう、そこまで言うのなら見せてやる! 本当の地獄を!」
“僭称者” が勃然と立ち上がり、両手でエルミナーゼの頭を挟み込む。
フードの下から覗く双眸がエルミナーゼの瞳を貫く。
「見ろ! これが本当の地獄だ!」
老魔術師の深淵の瞳を通して王女の中に、イメージの奔流が注ぎ込まれる。
絶対の映像と音と臭いが濁流となって彼女を押し流す。
エルミナーゼの精神は攪拌され、引き裂かれた。
「あ、ああ……っっっ」
目を見開き倒れ伏すエルミナーゼ。
栗色の髪が柔らかな絨毯に広がった。
「……見て戻ってこられる場所など地獄ではないのだよ、エルミナーゼ」
“僭称者” の口から憐憫の籠もった言葉が零れたとき、
“少々刺激が強すぎたようですな”
スッ……と骸骨のような姿が薄暗闇に浮かび上がった。
“お部屋にお運びいたしましょう”
“魔軍参謀” がわずかに右手を振ると、エルミナーゼの姿が消え去った。
詠唱もなしに “対転移呪文” を扱う強大な魔力。
“神癒” でエルミナーゼを癒やしたのも、この一見すると亡者のような魔族だ。
「……真実を受け入れるのも王統としての器」
“然り。そしてその器がなければリーンガミル王家の血脈は今度こそ絶えましょう。英邁の誉れ高い女王の薫陶をどこまで受けているかの試金石でしょうな”
「……リーンガミルの血は濃く熱い。見くびれば足をすくわれるぞ」
“すべては我が主の御意のままに”
“魔軍参謀” が胸に手を添え、恭しく頭を垂れる。
「……主か。おまえの真の主はどうであった?」
“未だ眠りの中に。“悪魔の石” に孵化の兆しはありませぬ”
「……今回 “魔太公” は沈黙を守るか。いったい何を考えておるのか」
“王のお考えは我ら下賎の者には想像すらできぬこと”
「……史上最高の賢者がぬけぬけと。その王の不在が長引けばいかな事態を招くか、考えが及ばぬ貴様でもあるまい」
“御意のとおり。彼の魔神もいつまでもナンバー2の座に甘んじてはおりますまい。すでに蠢動を始めている様子”
「…… “災禍をもたらす者” か。奴が公然と叛旗を翻せば、魔界が割れる。再び堕天系と異形系の大戦が勃発し世界は滅びる」
“そうなれば神々も黙ってはおりますまい。特に人間贔屓の “ニルダニス” は”
「……あるいはそれが狙いやもしれぬ。“災禍をもたらす者” が起てば当然、女神は
聖典に記されるが如く再び “運命の騎士” を遣わすだろう。両者が争えば “魔太公” は漁父の利を得られる。勇者が勝てばよし。負けても自身が復活する」
“さればこそ、あの娘の帰還が鍵を握りましょう。勇者の伴侶たるを運命づけられた聖女。その助力なしには如何に “運命の騎士” といえども、彼の魔神に打ち勝つのは容易ではありますまい”
「…… “運命の騎士” がここまで辿り着くのが先か。それとも魔神が “悪魔王” となるのが先か。いずれにせよ、我が目的の前に立ち塞がるならば打ち倒すまで」
“御意”
(……魔神との競争ぞ。当代の “運命の騎士” よ)







