苔むした墓★
「これはいったい何の冗談です……?」
唐突に現れた “苔むした墓” に、エルミナーゼが愕然と呟いた。
今の今まで死の瀬戸際で、死神に足首を掴まれていたのも忘れたかの声。
“役立たず ここに眠る”
光蘚の仄暗い光におぼろに浮かぶ墓碑銘は、確かにそう読めた。
アッシュロードは答えず、ゆっくりと遠巻きに墓の円周を回った。
情報不足で推論どころか、当てずっぽうすら答えられない。
彼に言えることは……。
「まだ近づくな。近づいた途端、“トモダチ” が湧くかもしれねえ」
視線のみ中央の墓に注ぎながら、一×一区画の玄室全体に気を配る。
墓に気を取られている間抜けを、暗闇から窺っている魔物がいるかもしれない。
墓からにせよ玄室の闇からにせよ、今のふたりの状態では “驚かされた” が最後、彼ら自身の墓が建つ。
「魔物は……いないようです」
周囲に警戒の視線を走らせたエルミナーゼが、剣先を闇に向けたまま囁く。
幸いにして玄室をねぐらにしている先住者はいないようだった。
「よし……調べるぞ」
アッシュロードは腹を括り、墓石に向かって足を踏み出した。
その背中に隠れるようにエルミナーゼも続く。
墓は装飾などは一切なく、成人の人族よりもわずかばかり小さい岩をただ板状に削り出しただけの代物だった。
短い墓碑銘以外、刻まれた言葉はない。
「これが “僭称者” の墓なのでしょうか……?」
アッシュロードの身体越しに、怖々と墓石を覗き込むエルミナーゼ。
自分を拐かし操った老醜の魔術師が這い出てきたかもしれないのだ。
恐れと嫌悪が滲むのを抑えきれない。
「だが痕跡はねえみてえだ」
這い出してきた痕跡が、である。
「これがあの半デッドの墓で奴がこの下から血迷って出たにしても、まさか出てきた穴を塞いだりはしねえだろ」
「で、ですが、そういう性格なのかもしれませんよ?」
墓の乱れを気にするきちんとした性格なのかも――と言いたいのだろう。
アッシュロードは胸の内で嘆息した。
このエルミナーゼという娘、いろいろと拗らせてはいるが、やはり王女様だ。
いい感じにズレている。
「問題はそこじゃねえ。仮にこれが奴の墓だったとしてだ、いったいどこのどいつが建てたんだ?」
「……あ」
アッシュロードの言わんとするところを理解し、エルミナーゼが言葉を失った。
「この区域の構造には見覚えがある。俺が最初に王城で宛がわれた部屋――おめえが稽古を所望に押しかけた部屋だ。あの部屋の前の居住者が、この迷宮について詳細に書き残していた。全階層の地図もあった」
アッシュロードは続ける。
「“林檎の迷宮” に変容したあとも、どうやら最下層の構造に変化はねえみてえだ。
この辺りも書物の地図と変わりがねえ――俺たちを救った “回転床” がいい目印だ。あれも確かに描かれていた」
エルミナーゼは胸に走る鈍痛が顔に出でないように苦慮した。
彼女はアッシュロードのいう部屋の主が誰かを知っている。
(これは……なんて奇妙で、そして悲しい物語なのでしょう)
目の前のやさぐれた男は自分こそがその部屋の主であり、迷宮の詳細を描き残した “運命の騎士” であることを知らないのだ。
今こそエルミナーゼは母マグダラが、二〇年の長きにわたり抱いてきた想いを理解できた気がした。
「だがその書物に描かれてた地図に、この墓については何も書かれちゃいねえんだ。あれだけ几帳面な仕事をした奴に記載漏れは考えにくい。だとすれば考えられるのは調査がされたときにはまだ、この墓がなかった可能性だ」
エルミナーゼはアッシュロードの言葉を、正確に理解できた。
墓を建てた者がいるのだ。
墓に埋葬した者がいるのだ。
墓から復活させた者がいるのだ。
「つまり協力者がいる……ということでしょうか?」
「あるいは “狂信者” か」
アッシュロードは渋面を作って “苔むした墓” を見た。
“僭称者” は一〇〇〇年王国リーンガミル史上、最凶最悪の簒奪者だ。
その特異性と残虐性は人後に落ちず、歴史上類を見ない。
だがなればこそ、カリスマ・シンボルたり得るのではないか。
最も凶悪な存在だからこそ、ある種の人間を惹きつけてやまない。
そういう人間が狂信的な妄執に憑かれた末に “僭称者” の復活に蠢動したとしても不思議ではないのではないか。
「そういう輩がいるのかもしれねえ」
「まさしく “狂信者” です!」
語気を荒げるエルミナーゼ。
二〇年前の騒乱で、いったいどれだけの犠牲が払われたか。
真っ先に復讐の対象にされた王家はほんの一握りを除き、根絶やしにされた。
余興とばかりに血祭りの贄に供された多くの貴族が、老若男女、一族郎党すべてを跋扈する魔物に貪り食われた。
そしてなにより、一〇万を超える無辜の民。
真に正統な王家の嫡流である王子の自己犠牲的相打ちにより、凄惨な簒奪劇は終焉したかに思えた。
しかし最凶の怪人が今わの際に発した禁呪は、血戦の舞台となった旧王城を地の底深くに没し去り、巨大な迷宮へと変容させた。
さらには女神の加護さえ届かぬ迷宮の最奥に盟約者である魔界の王を召喚して、己が野望を引き継がせた。
艱難は続き、またしても多くの悲劇が繰り返された。
あの怪人が現れなければ母は王冠を戴くこともなく、本当に愛する人と結ばれたかもしれない。
自分は父母への疑念に苛まれず、自己を否定しながら育つこともなかっただろう。
そして目の前の男は……。
「いったい誰が再び、あの悲劇を望むと言うのですか!」
激高するエルミナーゼをアッシュロードは、やるせない思いでみつめている。
エルミナーゼは正しい。
だが間違ってもいる。
男は知っていた。
闇に呑まれた人間が時として己の犠牲を厭わず、世や他者への復讐に走ることを。
そこに損得感情はなく、ただただ憤怒と憎悪だけが燃えさかっていることを。
人間の本性は常に闇と隣り合わせであり、容易に転がり堕ちることを。
やさぐれた迷宮保険屋は知っていた。
アッシュロードは思った。
この娘はやはり迷宮には向いてない。
だがなればこそ迷宮に潜る必要がある。
かつてこの娘の母親がそうしたように、炉に入れ直された剣のようにこの娘もまた自身を鍛え直さなければならないのだ、と。
エルミナーゼも理解し、望んでいたのだろう。
だから自ら進んで志摩隼人たちのパーティに加わり、“女神の試練” に挑んだ。
未熟ではあるが賢く、なにより誠実な娘だった。
男の悪い癖が出た。
――こういう娘は歪めちゃなんねえ。
アッシュロードは今は遠く離れてしまったあの娘にするように、説明した。
「結論を急ぐな。あくまでそういった人間がいるかもしれねえって話だ。証拠はまだ何もねえ。
この迷宮の封印が解かれたのは、志摩隼人ら転移者が現れたわずか半年ほど前だ。
それまでは “ニルダニスの杖” の加護で堅く閉ざされていて、誰だろうと足を踏み入れられなかったはず。
“僭称者” を甦らせたのが誰にせよ、実際に行動に出たのはこの半年以内だろう。
それでも昨日今日企てられた謀でないのは確かなはずだ。
仮に信奉者だの協力者だのがいたとして、二〇年前に “僭称者” が討たれた日から地下に潜り、息を殺して今回の機会を窺っていたのだとしたら怨念じみた執念だ。
取り戻した平和と繁栄を享受する人間たちに紛れて、表面上は笑顔をたたえながら再びの惨劇を思い描いていたのなら、その不気味さはまさに “闇” そのものだ。
魔族の方がまだ人間らし……」
「どうかしましたか?」
眉根を寄せて黙り込んだアッシュロードに、エルミナーゼの不安が募った。
「信奉者や協力者の類いがいたとして、必ずしも人間である必要はねえわけだ」
「え?」
「女神の加護さえ届かねえ迷宮最奥にまで達して、二〇年も昔の屍を甦らせるなど、並みの術者にできる芸当じゃねえ。そんな凄腕の術者が果たして世界に何人いるか。いたとしてそれだけの力があれば、“僭称者” なんて危険極まる輩を復活させる必要なんてねえとは思わねえか? いくらでも野心を満たす力はあるのに」
「グレイ……なにが言いたいのです?」
エルミナーゼはアッシュロードの行き着いた答えを恐れ、震えた。
「到達したんじゃねえ。奴らはいたんだ。あの時から変わらずこの迷宮の底に――」
そのとき突然ふたりの周囲に、いくつもの色鮮やかな火球が浮かび上がった。
あるものは赤。
あるものは青。
人間の頭大の火球は胎動を繰り返しながら倍々に膨れ上がり、人間の身の丈の数倍の直径になったとき爆ぜた。
「“地獄公爵”!」
そして、
「“蒼氷色の悪魔”!」
魔界から現れた赤と青の強大な悪魔たちに、アッシュロードが呻く。
さらにはその凶悪な群れの中から、まるで散策をするような気軽さで近づいてくる
骸骨のような姿――。
「“魔軍参謀”!」
かつて “玉座の間” で主と共に “運命の騎士” を迎え撃った魔王直属の護衛団が、アッシュロードとエルミナーゼを取り囲んだ。







