運試し、その2★
基本は隠密。
身を隠し、息を潜めて、脅威をやり過ごす。
目的地は西に一区画行った、北の扉の奧。
移動距離はごく短い。
脅威に―― “骸骨百足” にさえ気づかれなければ、簡単な作業だ。
(……まあ、それが問題なんだが)
二×二四方の玄室を高速で巡回警邏している異形の骸骨を思って、アッシュロードは小さく息を吐いた。
不死属だけあって疲れ知らずであり、休息するということを知らない。
玄室の狭さは移動距離の短さでもあるが、リングの狭さでもある。
かくれんぼに向かない。
“龍の文鎮” でしたように、“静寂” を自身に施して音を消すことはできない。
万が一戦闘になった際に加護が願えなくなってしまうし、エルミナーゼとの意思の疎通も困難になる。
なにより切り札の “不幸の石” まで封じられてしまう。
自殺行為もいいところだ。
(……タイミングは俺に合わせろ。遅れるな)
不安げな表情で背後に立つエルミナーゼに囁き、黒衣の男は扉に手を当てた。
――運試し、その2だ。
胸の内で呟くと慎重の上にも慎重を重ね、軋み音ひとつ立てずに押し開ける。
シャカシャカシャカシャカシャカッ!
“骸骨百足” の無数の節足が至近を、高速で通過していく。
3、2、1――。
(今だ!)
アッシュロードは合図し、扉をさらに押し開け、玄室を出た。
古強者の冒険者であるエルミーナゼも、即座に続く。
遠ざかっていく異形の巡回者との間合いを計りながら、壁に張り付くように走る。
移動速度は “骸骨百足” が上回るので、見る見る距離が開いていく。
あっという間に位置取りが逆転し、追う位置から追われる位置に。
だがまだ気づかれてはいない。
移動距離はわずかに一区画。
わずかに一〇メートル。
しかしその一〇メートルが遠い。異常に遠い。
地下迷宮特有の現象、時空の歪み。
(走れ!)
(は、はい!)
走れ! 走るしかない!
心臓が止まってもいいから、走れ!
骸骨の探知範囲に捉えられたら、破滅の呪文が飛んでくる!
シャカシャカシャカシャカッ!
総毛立つ移動音が急速に近づいてくる!
「カタカタカタカタカタカタッ!!!」
巨大な髑髏が鳴いた!
「気づかれた!」
前後していた無数の節足が止まり、おぞましい詠唱が始まった!
人類の発音とはまるで違いながら、同じ韻律の詠唱!
究極の破壊呪文、“対滅” !
呪文が完成すれば対消滅の天文学的なエネルギーに巻き込まれて、一瞬で爆散だ!
「ア、アッシュロード卿!」
「振り返るな、走れ!」
アッシュロードはエルミナーゼの手を掴み、さらに加速した!
一〇歩! 八歩! 六歩! 四歩! 二歩! 半歩!
(――南無三宝!)
扉にぶち当たる刹那、男神に帰依する黒衣の君主が念じたのは、彼自身が知らない言葉だった!
肩が抜けるほどの勢いでエルミナーゼを引き込み、扉を閉める!
その瞬間、轟音と衝撃が伝播した!
爆熱風が吹き込まないように扉を押さえるアッシュロード!
少しでも隙間が開けば吹き込んできた熱風で、オーブンの中の七面鳥だ!
ジュウウウッッッ!!!
「ぐうううっっっ!!!」
鉄製の扉が一瞬で真っ赤に焼け、戦闘用の分厚い黒革の手袋ごとアッシュロードの掌を焦がす!
ジュウウウッッッ!!!
「ううううっっっ!!!」
エルミナーゼもアッシュロードの隣りに立ち、扉を押さえる!
両掌が焼け爛れ、苦悶の呻きと汗が噴き零れる!
詠唱のために足を止めたことで探知範囲からは出ている!
この扉を押さえれば――押さえきれれば――!
「「うぉおおおっっっっっっ!!!」」
そして筋力と耐久力を振り絞った対照的なふたりの君主は、この試練に耐えた。
衝撃と爆風が治まり、扉に加わっていた凶暴な圧力が徐々に下がっていく。
ドサッッ!
倒れ込むように尻餅を突くアッシュロードとエルミナーゼ。
「「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!!!」」
生き残った?
生き残ったのか?
生き残った!
ふたりは荒い息のまま顔を見合わせ……言葉が出なかった。
体力も気力も使い果たしていた。
もう指一本だって動かすのは嫌だった。
「――痛ぅ!」
と、突然エルミナーゼの両手に激痛が走った。
死地からの生還が実感を伴ったとき、痛覚もまた甦った。
“狂君主” の金色の籠手を通して、重度の熱傷を負っていた。
声を出すのも億劫なアッシュロードは人差し指だけで、クイクイとうながした。
怖ず怖ずと両手を出すエルミナーゼ。
“大癒” が詠唱され、痺れるような感覚のあと耐えがたかった苦痛が解け去っていく。
「あ、ありがとう。今度はわたしが」
代わって差し出されたアッシュロードの両手を見て、エルミナーゼは息を呑んだ。
焼け爛れ、一部肉が溶け落ちて白い骨が露出していた。
「ご、ごめんなさい。わたし、まだ “中癒” までしか授かっていないのです」
蒼ざめながらもそれでも懸命に女神に祈りを捧げ、手当を施すエルミナーゼ。
“中癒” 二回。そして “小癒” を一回嘆願して、ようやく癒やすことができた。
ホッと胸を撫で下ろす、エルミナーゼ。
強ばっていた麗貌が年相応にほころぶ。
「これでよいでしょう。本当に危ないところでした。ですが二度目の運試しにも勝ちましたね」
凶悪な “骸骨百足” から、どうにか逃げ切ることができた。
死神に後ろ髪をつかまれかけたが、振りほどくことができた。
「いや……今度は俺たちの負けだ」
しかしアッシュロードは治療の礼を言うでもなく、実に冴えない表情でぼやいた。
「……え?」
「後ろを見てみろ。何が見える」
言われままに振り返るエルミナーゼ。
そこは一×一区画の最少の玄室だった。
たった今自分たちが死守した入り口以外に扉はなく、ただ三方から煉瓦製の内壁が見つめるだけだった。
「なにも……澱んだ空気があるだけで他には……――え?」
エルミナーゼはようやく、アッシュロードの言葉の意味を理解した。
なにもない。
なにもないのだ。
「そうだ。転移地点の魔方陣がねえ。ここはただのちっぽけな玄室だ」
「そんな……どうして……」
「元々ここは転移地点の出口でしかなかった。もしかしたら何かの手違いで入り口が浮かんでるかとも思ったんだが、そう都合良くはなかった」
一転して蒼ざめたエルミナーゼと違い、アッシュロードは恬淡としていた。
転移地点は基本的に一方通行。
たとえ迷宮支配者から魔力が供給されていて迷宮の仕掛けが生きていたとしても、どの道ここに魔方陣はなかったのだ。
二度目の運試しとはいったものの、勝てる可能性は限りなく低かったのである。
「それでは、わたしたちはここから……」
対してエルミナーゼは、絶望に侵されていた。
自分のたちが移動できるのはこの狭い玄室と、“骸骨百足” が周回している玄室。そして最初に目覚めた “玉座の間” だけ……。
それ以外の区画には出られない……。
「そういうことになるな……」
呆然自失のエルミナーゼを励ますでもなく、黒衣の男はブツブツと何かを呟くのみだった。
「……アッシュロード卿」
やがてエルミナーゼが口を開いた。
押し殺した声に、アッシュロードは気づかない。
「あ? ――って、おい! なんの真似だ!?」
突きつけられた切っ先に、ようやくアッシュロードの顔色が変わる。
“望むがままに”
“僭称者” が漏らしたという言葉が、エルミナーゼを支配していた。







