逆走★
光蘚の薄弱な発光の中、憎悪を湛えた双眸だけが異様に輝いていた。
どうやら王女の狂気は続いているらしい。
アッシュロードは刃を返した “悪の曲剣” に左手を添えて、身構えた。
魔法の繊維で編まれた “青の綬” は通常の縄よりもよほど丈夫だが、“狂君主” の化け物じみた膂力を封じられるかまでは未知数だ。
「……グレイ・アッシュロード!」
王女――エルミナーゼ・リーンガミルが、血を吐くように罵った。
敵意に充ち満ちた声音。
だが転移させられる前に剣を交えながら聞いた声とは、明らかに違っていた。
生臭いほどに血肉の通った声。
「ここはどこ!? この戒めを解きなさい!」
両手足を縛られたまま、陸に打ち上げられた海老のように、のた打ち暴れる王女。
「おい、静かにしろ! 魔物を呼び寄せる気か!」
(正気に戻ったのか!? それとも――)
叱りつけながら、アッシュロードは混乱した。
擬態――演技か?
油断させて、寝首を掻く気か?
だがアッシュロードの判断がつくよりも速く、
「……魔物?」
エルミナーゼがビクリッと怯えて、静かになった。
王女であると同時に姫騎士。ネームドの冒険者でもある。
魔物という響きには、本能的に恐怖する。
「そうだ、魔物だ。しかもここは “呪いの大穴” の最下層、その最奥だ。湧いて出る化け物も、生半可な奴じゃねえ」
絶句の沈黙。
最下層、最奥という言葉が効いたのだろう。
アッシュロードは、エルミナーゼが混乱から立ち直るのを待った。
「……わたしは……どうしてここにいるのです?」
ややあってエルミナーゼが、震えてはいるが冷静な声で訊ねた。
「覚えてねえのか?」
「……なにも」
「おめえは拐かされたんだよ、“僭称者” にな」
「――!?」
「ああ、奴は復活した。そして俺たちの歓迎舞踏会に現れて、おめえを連れ去った」
王女の黒い瞳が見開かれる。
「そんな…… “僭称者” が……どうして……」
「さあな」
あっさり匙を投げるアッシュロード。
思考し分析するには、情報が不足しすぎている。
そして最大の情報源と思われていたエルミナーゼは、なにも覚えていない。
それでもアッシュロードは、この娘にとっては幸いなことだと思った。
「…… “僭称者” はなぜわたしを……?」
「それもわからん。ただ奴はマグダラに執着してる様子だった。唯一残ってる二〇年前の因縁の相手だからな。おめえを使って何か企んでたのかもしれねえ」
「……お母様……」
言葉を失うエルミナーゼ。
アッシュロードも黙り込み、思考だけが加速していった。
(そもそもなぜ “僭称者” は、この娘を解放した? 何かしらの目的があったから拐かしたんだろうに――)
そして胸の内で『考えるのはあとだ』頭を振る。
今はこの最悪の中の最悪からの生還だけに集中する――しなければならない。
「……では、その時にあなたも一緒に?」
「いや、それは別件だ。俺たちはおめえの救出を志願してリーンガミルに残った。迷宮の三層まで潜ったとき おめえを連れた “僭称者” と遭遇した。おめえは魅了か何かで操られてたんだ。そして俺と斬り合っているとき奴は “対転移呪文” で、ここに飛ばした……『望むがままに』とかどうとか言ってな」
「……望むがままに……」
反芻し押し黙ったエルミナーゼに、アッシュロードは警戒心を高めた。
操られているにしろそうでないにしろ、この娘が自分に含むところがあり、実際に剣を向けてきたのは間違いのない事実なのだ。
やがてエルミナーゼが顔を上げた。
「戒めを解いてください、アッシュロード卿。迷惑をかけた償いは、いずれかならずします。ですがそのためにも、まずはこの迷宮から出なければなりません」
強ばった表情と決意の籠もった瞳が、アッシュロードに向けられる。
腹を括るしかなかった。
例え正気を装っているにしても、今は自分の足で歩いてもらわなければならない。
魔物との遭遇を考えれば手の戒めも解き、武器も渡さなければならないだろう。
いつ切っ先が向けられるかわからない武器を。
アッシュロードは歩み寄り、用心しながら施したばかりの戒めを解いた。
まずは足首。
そして後ろ手にした手首。
エルミナーゼは、襲いかかってはこなかった。
「おめえ、職業 とレベルは?」
「職業は君主。レベルは11です」
「父親の血を引いたか」
何気ない言葉だったがエルミナーゼは、古強者がたじろぐほどの眼差しで睨んだ。
アッシュロードは警戒心を増しながら、近くに転がっていた剣を拾った。
“狂君主” が振り回していた剣で手を離れているので “呪われた武具” ではない。
未鑑定だが斬撃の鋭さから見て、“真っ二つにするもの” だろう。
「おめえの得物だ。魔物に使え」
念を押して手渡すと、エルミナーゼは強ばった顔のまま、黙って受け取った。
「盾と兜もその辺に転がってねえか」
そういってアッシュロードは、わざと無防備な背中を晒した。
隙を見せ、エルミナーゼを試したのだ。
だがエルミナーゼが斬りかかってくることはなく、逆に剣帯に吊った鞘に剣を納めている。
「見当たらないようですね」
アッシュロードの短剣 と同様、元の座標に落としてきたのだろうか。
甲冑と同じ金色の盾と兜は落ちていなかった。
「手持ちの品でやりくりするしかねえ――この階層についてどこまで知ってる?」
「記録に遺されていることはすべて」
「ならこの階層が『二重構造』だってのは知ってるな?」
「ええ。卿は先ほど、わたしたちが迷宮の最奥にいると仰いましたが……」
「ああ、後ろを見てみろ」
言われるままにエルミナーゼは後ろを振り返り、凍り付いた。
闇の中に聳える、禍々しくも巨大な玉座。
「……あ、あれは……」
「そうだ。ここは迷宮の深奥も深奥。“魔太公” の座所だ。俺たちはここから始点の縄梯子まで戻らなきゃならねえ」
エルミナーゼが闇の中でもそれとわかる、死人のように蒼白な顔で振り返った。
「で、ですがアッシュロード卿。もしここが “玉座の間” なら……」
「気づいたようだな――ああ、そのとおりだ。始点から “玉座の間” までは一方通行の転移地点と扉で構成されている。逆走はできねえんだ」
絶望的な現実が、エルミナーゼの反応を奪った。
まさしく目の前のみすぼらしい男の言うとおりだった。
ここが魔太公の玉座の間であるなら、一度足を踏み入れてしまった以上、“転移” の呪文を使わない限り、脱出は不可能なのだ。
他に方法があるとすれば、聖職者系第六位階の加護 “帰還” を嘆願することだが、アッシュロードにしろエルミナーゼにしろ未だ授かっていない。
「では、どうするのです……?」
「運試しだ」
震える声で訊ねるエルミナーゼに、アッシュロードは言下に答えた。
「ここから三区画南に一通の扉がある。本来ならこっちの側からは出られねえ扉だ。だが “魔太公” が駆逐されてる今なら違うかもしれねえ」
迷宮の仕掛けは迷宮支配者によって整備され、魔力が供給されている。
その迷宮支配者が討たれている以上、一方通行の扉は、あるいはただの扉に戻っているかもしれない。
「“永光” や “認知” の無効化が生きてることからみても、“僭称者” が戻ったせいで仕掛けが甦ってる可能性もある」
冷静に考えれば、遺棄されたままの “玉座の間” のために魔力を供給し続ける意味はない。
しかし加護を無効化する罠が生きている以上、それも不確かだ。
「だから運試し――賭けだ」
エルミナーゼはうなずくしかなかった。
“僭称者” の帰還によってすべての仕掛けが甦っていれば、自分たちはこの座所から出ることはできない。
飢渇に苦しんだあと、餓死するしかない。
出来ることはといえばせめて救出隊に回収されることを祈って、死体が消失しないように聖水で魔方陣を描いておくくらいだろう。
それもほんの気休めにすぎない。
アッシュロードは歩き出し、エルミナーゼも続いた。
幸いなことに時空は歪んでいなかったらしく、すぐに突き当たりに行き着いた。
「アッシュロード卿!」
エルミナーゼの顔がほころび、声に喜悦が滲んだ。
「ああ、どうやらまだ運が残ってたらしい」
視線の先に現れたのは強化煉瓦の内壁ではなく、通行可能な扉だった。
アッシュロードは慎重に扉に近づき、小さく “看破” の加護を嘆願した。
罠はなし。
静かに扉を押し開き――すぐにまた閉じる。
「ど、どうしたのです?」
「……前言撤回だ。俺たちの運はとっくに尽きてる」
「……え?」
アッシュロードが扉の先に見たもの。
それは異形としかいいようのない骸骨の魔物。
「…… “骸骨百足” だ」







