ワースト・オブ・ワースト
暗中にうっすらと浮かび上がる、巨大な陰影。
禍々しい意匠が施されてはいたが、それは紛れもなく王たる者の座具であった。
堕天した天使の長が魔界を征服した際に、屠った無数の先住者の骨で造らせし物。
魔界の王にして “僭称者” と盟約を結びし、“呪いの大穴” の真の迷宮支配者――。
“魔太公” の玉座。
アッシュロードは戦慄した。
リーンガミルに到着した直後、女王マグダラにあてがわれた王城の一室には、以前の利用者の残置物があった。
中には “呪いの大穴” の詳細が記された書物もあって、アッシュロードは義勇探索者として “神竜亭” に移ったあとも、マグダラの許可を得て持ち出していた。
それから得た知識がアッシュロードに、自分の置かれた状況を理解させた。
“永光” と “認知” を消し去るが、“恒楯” は無効化しない区域。
そして眼前の、迷宮の天井まで届く異形の玉座。
ふたつの条件が重なる場所は、迷宮に唯一カ所。
“魔太公” の座所は、最下層である第六層の最深部に存在する。
アッシュロードは “呪いの大穴” の最奥も最奥に、転移させられてしまったのだ。
その瞬間、フラッシュバックが起った。
聖銀の装甲に身を包んだ騎士が単身、四本腕の強大な影と斬り結ぶ映像だ。
アッシュロードは再び頭を押さえた。
「くそっ……魔王の残り香に当てられたか」
おそらくは二〇年前のドーンロアと魔太公の決戦だろう。
残留想念の焼き付いた魔素が未だに濃く、当時の情景を幻視させたのだ。
同時に胸に激痛みが走り、心臓が鋼を打った。
まるで何かが内側から喰い破ろうとしているようだ。
(クソッタレめ! なんだってんだ!)
最悪の中の最悪。
そんな言葉が、脂汗を流して胸を押さえるアッシュロードの脳裏を過る。
これまでにも幾度となくうんざりするような窮地には陥ってきたが、今回はその中でも文句なしに最悪。
まさしく最悪の中の最悪な状況だった。
やさぐれた迷宮無頼漢は自分の運のなさを痛む胸中で嘆き、毒突きまくった。
「はぁ、はぁ、はぁ――!」
やがて幻は消え、胸の痛みは去った。
アッシュロードは大の字になって、乱れに乱れた息が鎮まるのを待つ。
呼吸が治まるにつれ、冷静さが戻ってくる。
(……まぁ俺ひとりなら、最悪でも俺ひとりだ)
自分ひとりなら最悪でも “苔むした墓” はひとつで済む。
そこから先は仲間が回収してくれるのを祈るばかりだが、迷宮の深度を考えると先に消失する可能性がはるかに高く、望みは薄かった。
(……まぁだからこその、最悪でも俺ひとりだ)
アッシュロードはもう一度胸の内で独りごちると、立ち上がった。
もちろん諦めるつもりなどサラサラない。
お人好しの仲間たちが危険な救出行にでる前に、自力での脱出を試みるつもりだ。
仲間たちに危険を及ぼさないためにはさっさと脱出するか、さもなくば消失しなければならない。
そして後者はありえなかった。
あの娘を取り戻すまで、アッシュロードは死ねないのだ。
装備を確認する。
予備の武器の短剣は見当たらないが、それ以外は主要武器である曲剣、背嚢・雑嚢の中身を含めてすべて残っていた。
地図はないが、階層の構造は頭に叩き込んである。
問題はなかった。
まずは南に向かわなければならない。
四区画先の突き当たりが、最初の難関だった。
アッシュロードは玉座に刻まれた、魔王の御璽に背を向けて歩き出した。
しかしわずか一区画進んだだけで、男の決意と目論見は揺らいでしまった。
視線の先に暗闇に紛れて現れたのは、倒れ伏した金色の甲冑だった。
「……おい、冗談はやめてくれ」
兜から零れる栗色の髪を見て、アッシュロードは呻いた。
ここでまたチャンバラの再戦など、絶対に願い下げだ。
この状況である。
エルミナーゼを見捨てたとしても、非難はされないだろう。
アッシュロードの属性は利己的な傾向が強い “ 悪” であったし、なによりエルミナーゼは “僭称者” に操られている。
むしろここで救出にこだわる方が、自殺行為。
正常な判断ではない。どうかしている。
だが “悪” は “悪” でも、アッシュロードは “善” からの転向者。
より正確には “秩序にして悪” の属性だった。
本人は絶対に認めないだろうが要するに、悪人の皮を被った善人。
ちょい悪オヤジ。
アッシュロードは右手に握る曲剣の刃を返して、慎重に近づいた。
いざというときは峰打ちで再び昏倒させなければならない。
傍らに跪き、口元に手をかざす。
息はあった。
(……どうやら “アレクサンデル・タグマン” のみてえに、不死属にされてはいねえみてえだな)
まずは安堵したが、それでも拘束はしなければならない。
エルミナーゼが依然として “僭称者” の支配下にある可能性は高いのだ。
アッシュロードは自分の所持品を思い浮かべ、舌打ちした。
ふん縛るための縄がない。
武器や防具以外の探索に必要な品は重装備の前衛ではなく、より身軽な中・後衛が携帯するのが常だ。
“フレンドシップ7” では盗賊 のジグが持ち込んでいる。
今回の探索では斥候 として前衛に立っていたが、殿を守るアッシュロードにはかさばらない魔道具をいくつか渡しただけで、縄は預けていなかった。
他に何か使えそうな物は……と雑嚢に突っ込んだ指先に、よさげな物が当たった。
摘まんで引っ張り出す。
“青の綬”
“紫衣の魔女の迷宮” の四階にある屯所で手に入るキーアイテムだ。
屯所にはアンドリーナが配置した中~高レベルの戦士・魔術師・僧侶・忍者で編成される部隊が待ち構えていて、ネームド程度の探索者では返り討ちに遭うことも多い。
“青の綬” はその戦利品であり、四層から九層に下りられる直通昇降機の使用許可証だった。
アンドリーナの慈悲であり、中レベルの探索者をいきなり迷宮深層へ誘う罠でもある青い装飾帯を解き、エルミナーゼの手足を縛る。
この時点でアッシュロードの精魂は尽き果てていたが、気力を振り絞って別の雑嚢から蒸留酒の小瓶を取り出した。
酒飲みの必需品だが、気付けや傷の消毒にも使えた。
安酒の強い芳香を嗅がされ、エルミナーゼが噎せ返った。
憎悪と殺意の籠もった双眸が、アッシュロードに向けられる。
“青い綬” があってよかったと、やさぐれた探索者は思った。
王女の狂気は、まだ続いているようだ。







