ミストレス
リーンガミル市街は表面上、平静だった。
二〇年前に王国を滅亡の淵に追い込んだ史上最大の簒奪者 “僭称者” の復活と、それに伴う王女エルミナーゼの略取は、すでに女王マグダラの名において布告されていた。
富を持つ者の一部は王都から逃げ出したが大部分の市民は、心魂に焼き付く凄惨な記憶に怯えながらも生活を続けていた。
他国へ移りそこで新たな人生を切り拓ける者など、どんな世界のいつの時代でも一握でしかない。
ハンナ・バレンタインはそんな不安を、日々の営みの煩雑さで紛らわす雑踏を渡っていた。
彼女たちの部隊の拠点となっている宿屋 “神竜亭” を出て、リーンガミルの冒険者ギルドに向かっているのだ。
“神竜亭” が店を構えるのは王都の中心に広がる旧内郭の近くであり、そこは今では “呪いの大穴” と呼ばれる巨大な地下迷宮と化してきた。
ハンナは都大路を一歩進むごとに背中に受ける気配が減じていくのを感じ、安堵していた。
迷宮支配者の帰還した “呪いの大穴” はさらに魔素を増し、今やさらに凶悪な “林檎の迷宮” へと変容している。
迷宮に満ちる魔素そのものは、女神ニルダニスの施した結界によって封じられてはいるが、忍び寄る “負の気配” までは抑えきれない。
色も臭いもなく、どんな精緻な探知魔法でも検出されないが、それは確かに存在し、実際に近隣の住人の中には “僭称者” の帰還以後、体調を崩したり精神的な変調を来す者がいた。
ハンナは心身共に健康な一九才の若女だったが、迷宮に慣れた無頼漢ではなく、それだけに地下から漏れ溢れる気配には敏感だった。
「荷物をお持ちしましょうか、ミストレス・バレンタイン」
付き従う “オルソン・ハーグ” が訊ねた。
同様の申し出をしたのは宿を出てから、これで二度目である。
「ありがとう。でもいざというときに、あなたは出来るだけ身軽な方がよいのではなくて?」
叙勲間もない青年騎士に、ハンナは微笑んだ。
「はっ……確かに」
オルソンは顔を赤らめ、モジモジとうなずいた。
彼は女王がハンナの護衛 兼 補佐としてつけた騎士である。
戦場での指揮こそまだ未熟だったが、マグダラは若者の才能は中間支援にあるとみていた。
後方支援を担当する文官と、前線で剣を振るう武官とをつなぐ存在。
その才能に気づかせ伸ばすには、ハンナに学ぶのが何よりというわけだ。
オルソンはハンナよりも三つ年上だが、童顔でともすれば姉弟が連れ立っているように見えた。
事実オルソンは騎士道的な博愛精神を別として、ハンナを尊敬――憧憬していた。
ハンナは探索者ギルドの受付嬢として迷宮無頼漢たちの部隊に加わってはいるが、歴とした “大アカシニア神聖統一帝国” 侯爵家の出身である。
中でもバレンタイン家は、上帝トレバーンが帝国を興す以前から続く武門の名家であり、名声は遠くリーンガミルにまで伝わっている。
トレバーンの隆盛以後に現れた出来星の貴族とは、わけが違うのだ。
しかもハンナは若く聡明で、何よりも美しかった。
オルソンが知っている中でハンナよりも美しい女性は、不敬ながら主君である女王マグダラその人以外になく、彼の感覚で言えば(『義勇探索者』の公称をその女王より正式に与えられたとはいえ)、無頼漢たちに交じって立ち働く婦人ではない。
ハンナは肩から斜めに、大きな鞄を提げていた。
中には “林檎の迷宮” 第一層から第二層の詳細な地図の他、出現する魔物の種類や能力、モンスターレベルなどを記した詳細な報告書が収められている。
“フレンドシップ7” や “緋色の矢” が描いた地図、集めた情報を彼女がまとめ清書したもので、見るものが見れば凄まじい価値のある品だ。
彼女はこの貴重な情報を冒険者ギルドに届け、広く後発の冒険者に提供しようとしていた。
すべての階層の探索が終わった踏破後の迷宮ならいざ知らず、探索途中の――しかもその最前線を張るパーティの情報が他者に提供されるなど、本来なら有り得ないことである。
しかしそうでもしない限り、彼女たちに続く迷宮無頼漢たちが現れず、万が一彼女たちの部隊が全滅した場合、王女エルミナーゼの救出は完全に頓挫してしまう。
この情報はリーンガミルの冒険者ギルドに登録した冒険者すべてに、無償で提供される。
これで後に続く者たちが幾分でも増すと信じるしかない。
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騎士オルソンに護衛されたハンナは無事、冒険者ギルドに地図と報告書を届けた。
“神竜亭” に戻ると最上階に登り、王侯貴族の寝所と見まごうばかりの豪奢な扉を開ける。
最上階をまるまるワンフロア使ったロイヤルスイートは今、彼女たち部隊の指揮所となっている。
寝台やソファーはすべて運び出され、会議用の二〇人掛けのテーブルと、数台の執務机が運び込まれていた。
「ただいま戻りました」
ハンナは入室すると、南向きのバルコニーを背に置かれた一番大きな机に向かって敬礼した。
彼女の上官であるグレイ・アッシュロードは、文献や古文書が山と積まれた机に向かったままで、副官の帰還に気づかない。
彼女が出がけに置いていった昼食も、手つかずのままだ。
唯一、珈琲の陶杯だけが空だった。
ハンナはもう一度一礼し、アッシュロードの机の左側に置かれた二回りほど小さな自分の机に向かった。右側は副指揮官であるドーラ・ドラの机だ。
ここでオルソン・ハーグの、騎士道的博愛精神が発露した。
心身共に正統的な騎士であるオルソンは、アッシュロードが好きではない。
やさぐれた外見から、がさつな立ち振る舞いから、伝法な口調まで、とにかく何から何まで、生理的に受け付けられない。
「アッシュロード卿! いかに上官といえど、ミストレス・バレンタインに失礼ではありませんか! 騎士のご婦人に対する態度とは思えません!」
「……あ?」
オルソンの青臭くも正義感に満ちた怒声に、ようやくアッシュロードが顔を上げた。
「ああ、戻ったか」
「はい、ご命令どおり地図と怪物百科用の報告書は冒険者ギルドに届けました」
「ご苦労……」
そういったきりアッシュロードは、再び顔を伏せた。
ハンナはアッシュロードの机から、冷たくなってしまった昼食を下げた。
古文書や文献にはもちろん “恒楯”の加護が施されていて、食事を零した程度で破損することはなかったが、集中が妨げられることには変わりない。
「ハンナ」
アッシュロードが机に向かったまま、トレーを手に退室しかけたハンナに言った。
「明日は俺が “フレンドシップ7” と潜る。ドーラを残す。第三層が二層みてえに暗黒回廊だらけならまたあいつに潜ってもらうが、それも含めて確かめてくる。そのつもりで段取ってくれ」
「承りました」
ハンナは退室し、オルソンもそれに続いた。
「ハーグ卿」
退室するとすぐにハンナは立ち止まり、青年騎士に向き直った。
「はっ」
「今後、アッシュロード卿の作業を妨げるような言動は、閣下の副官としてわたしが許しません」
もしや感謝の眼差しを向けられるのでは――と淡い期待を覚えていた騎士の心は、初めて見るハンナの厳しい表情に、冷水を浴びせられた。
「……も、申し訳ありません……」
「一個人の能力をはるかに超えた責任と期待を背負わされる人が、世界には確かに存在することを、あなたは理解すべきです」
「……はい、ミストレス……」
ハンナは昼食を片付け、新しい珈琲を淹れるために一階に下りた。
若き騎士も、その後に続く。







