記憶
“カシャン”
と、耳障りな音を立ててティーカップが砕けた。
探索者ギルドの受付カウンターの奥、ハンナ・バレンタインの足元に湯気を立てた赤みを帯びた茶が拡がっていく。
幸いなことに身体には掛からず、火傷を負うことはなかった。
にも関わらず、磨かれた床を徐々に濡らしていく液体を見て、ハンナの心に押し潰されるような不吉な予感が膨らんだ。
こんなことは初めてだ。
彼女は “善” と “悪” どちらの戒律にも縛られない無属性である。
善悪の戒律を持つ者に比べて信仰心は薄く、迷信深くもない。
それなのにハンナは今日に限って――今回に限って、心臓を胸の内側から握られるような、言いようのない不安感に囚われた。
同僚の受付嬢が “あらあら” と苦笑し、モップを取りに行く姿も視界に入ってこない。
意識にあるのは、今この瞬間も迷宮に潜っている顔見知りの探索者たちの姿である。
自分が担当する探索者たち。
まだまだ駆け出しの者もいれば、古強者もいる。
その中でも取り分け彼女の意識を占めているのは、やさぐれたひとりの 君主であった。
自身を “闇堕ちした君主” とうそぶき、迷宮保険屋を生業とする元探索者。
“死” への実感を持たない、持ち得ない駆け出しの探索者たちを幾度となく迷宮へと送り出し、その死を目の当たりにしてきたハンナ。
もっと真剣に “死” というものを考えてほしかった。
もっと真剣に “死” というものと向き合ってほしかった。
そんな、わけもわからぬまま迷宮に “苔むした墓” を建てていく新米の探索者たちを、ひとりでもふたりでも連れ帰ってきてくれるのが、そのやさぐれた “悪の君主” であった。
彼と契約し運良く蘇生できた者の中には、探索者から足を洗う者もいた。
また迷宮に潜る者もいた。
そして、再び戻らぬ者も。
しかしハンナは納得していた。
きっと当人も。
“死” を身をもって体験し、実感した上で再び迎えた最期なのだから。
やさぐれた “悪の君主” は――グレイ・アッシュロードは、ハンナにその納得をもたらしてくれる男だった。
彼女の心にケジメと乗り越える切っ掛けを与えてくれる男だった。
これは “虫の知らせ” ではない。
あの妙な依頼を受けてから、たんに自分が神経質になっているだけだ。
ハンナ・バレンタインは床に拡がっていく液体に視線を奪われながら、そう自らに言い聞かせた。
◆◇◆
その子は虐められていました。
大人しく、いつもおどおどしていて、そのくせ目が合うとおもねるような弱々しい笑顔を向けてくる女の子でした。
わたしがその子と同じクラスになったのは、小学校三年生の時でした。
それまで幼稚園から小学校一~二年と同じクラスだった隼人くんやリンダと、初めて別のクラスになった時です。
わたしは出来ることなら、その子と仲良くなってあげたかった。
出来ることなら、友達になってあげたかった。
でも出来なかった。
その子と仲良くしたら、今度はわたしが虐められるのではないかと思ったから。
そして一年と少し。
四年生の夏休み。
その子は近所の川で遊んでいて、行方不明になってしまいました。
見つかったのは、小さな赤いサンダルが片方だけ。
その時、わたしは初めてその子の好きな色を知りました。
誰もその子が川に落ちたところは見ていません。
なぜなら、その子はいつも一人で遊んでいたから。
わたしから話を聞かされて、ある程度事情を知っていたリンダがいいました。
「可哀想だけど、よかったじゃない。これでもう虐められることはないんだから」
わたしは、“それは違う!” と叫びたかったのですが、やはり何も言えませんでした。
捜索はそれからしばらく続けられましたが、その子が見つかることはありませんでした。
その子のお父さんとお母さんは、今でも諦めきれず彼女を捜すビラを作り続けています。
でも、クラスメートたちはみんなその子が亡くなったと思っています。
先生もです。
お葬式もあげられていないのに、いつの間にかその子は死んだことになっていました。
みんな口には出さないけど心のどこかで、
“可哀想だけど、これでもう虐められないね。よかったね”
そう思っていました。
わたしは思ってません。
“死ぬことが救い” だなんて思いたくありません。
だから、彼女が死んでしまったとも思っていません。
でも……もしかしたら……。
もしかしたらそれは他の人よりも、もっとずっと酷い思いなのかもしれません……。
ただ “見て見ぬ振りをしていた” わたしが、そんな思いを抱くことは……。
……バ……。
……バッ……。
……エバ……。
「エバッ!」
「は、はいっ!」
肩を強く揺さぶられ、突然わたしは覚醒しました。
急速に焦点を合わす視界と意識。
“永光”の魔法光に照らし出された、レットさんとジグさん、それにカドモフさんがわたしをのぞき込んでいます。
「気がついたか」
ホッとした表情が三人に浮かびました。
「わたしたち、どうし――」
そこまで言い掛けて、不意に直前の記憶が甦りました。
錯乱したアレクさんによって開け放たれた宝箱 。
発動する “強制転移の罠”
そして、わたしに向かって手を伸ばす――。
「! アッシュロードさんは!? パーシャやフェルさんは!?」
意識の混濁が吹き飛び、わたしは慌てて辺りを見渡しました。
そこには最初に視界に飛び込んできた三人以外の姿はありません。
「他のみんなはどこです!?」
噛みつくように、レットさんを問い質します。
「わからない。気がついたときにはこの四人だけだった」
レットさんは疲労感の滲む顔を左右に振りました。
「そんな――アッシュ「よせ!」」
立ち上がって叫び掛けたわたしをジグさんが強く制止ました。
「離してください!」
「落ち着け! 徘徊する魔物を呼び寄せる気か!」
「で、でも!」
「とにかくキャンプを張ろう。どうするか決めるのはそれからだ」
「……っ」
落ち着かないと。
冷静にならないと。
わかっては……わかってはいるのですが。
心がざわついて、どうしようもなくざわついて。
不安がわたしを苛み、解き放ってくれないのです……。
わたしが唇を噛みしめている間に、カドモフさんが黙々と聖水で魔方陣を描いてくれています。
その淡々と頼もしい様子に、わたしはようやく落ち着きを取り戻すことができました。
「取り乱してすみませんでした。もう大丈夫です」
「……仲間とはぐれて取り乱さないような奴と、パーティなんぞ組みたくない」
聖水を背嚢に戻しながら、カドモフさんがボソッと言いました。
「……ありがとうございます」
この人は……この若いドワーフの戦士さんは、滅多に言葉を漏らしませんが、それでもこのパーティになくてはならない人なのです。
「まず確認しなければならないのは、今ここにいる全員のステータスと装備だ。確認して報告しろ」
「俺はなんともない。装備も全部そろってる」
「……俺もだ」
「ええと、わ、わたしも大丈夫です」
レットさんの指示を受けて、わたしを含めた他の三人が自身を確認し答えます。
背嚢は背負ったままですし、腰の雑嚢の蓋は閉じられたままですし、戦棍も盾も手元にあります。
“混乱” しかけましたが、それもどうにか治まりました。
「ダメージもなく、装備も失ってないのは不幸中の幸いか」
「でも “強制転移 の罠”で、パーティが散けちまうなんて聞いたことないぜ?」
「あの場には八人もいたからな」
レットさんとジグさんの会話の中に出てきた “八人” という人数。
通常パーティは六人編成です。
“強制転移”の罠で飛ばせるのも六人まで。
それは “転移 の呪文で飛べる人数が、最大で六人であることに由来します。
キャンプを張るときに描く魔除けの魔方陣が六芒星であることからも、“六” という数字は迷宮では魔法数なのです。
「罠を仕掛けた奴にしても想定外の事態ってことか。迷宮の外に飛ばされなかっただけでも大当たりなんだろうな」
罠を引いて大当たりもないものですが、迷宮から飛び出して周囲の分厚い岩盤の中に実体化する可能性もあったわけですから、的外れすぎる表現ではないのかもしれません。
「問題は、ここが迷宮のどこかだな」
「ああ」
わたしたちは今、十字路に面した一区画幅の回廊の端にいます。
振り返れば回廊は(今いる座標を含めて)四区画続いていて、その先でまた十字路になっていました。
ずいぶんと規則正しい造りです。
「こんな場所見たことないぜ」
「二階よりも深い階層だろうな」
「この迷宮の造り……」
わたしは顎に手を当てて考え込む仕草をしました。
「心当たりがあるのか?」
「ええ、はい……どこかで確かに……」
規則正しく十字路が並んでいる構造の階層。
どこかで確かに目にしました。
あれは……。
『これはあんたが持ってろ』
そう、あの時!
リンダの遺体を回収するため初めて地下二階に下りたとき、アッシュロードさんから預かった地図で見ました!
あれはわたしが見ていた地図の、すぐ下の羊皮紙に描かれていた――。
「ここは地下三階です」
「間違いないか?」
「はい、以前アッシュロードさんにお借りした地図で見ました」
確認を取るレットさんに、間違いありません――と頷きます。
「“座標” の呪文が使えないので、正確な現在位置まではわかりませんが……」
「こうなると、パーシャとはぐれちまったのが痛いな」
“座標” は魔術師系第一位階に属する呪文で、詠唱者の現在位置を知ることのできる魔法です。
迷宮の中で迷い自分のいる位置を見失ってしまったときの救いとなる、第一位階のみならず魔術師系の呪文の中で、ある意味最も重要と言える呪文です。
「“|死人占い師の杖《ロッド オブ ネクロマンシー》” では、自分たちのいる場所はわかりませんからね。わかるのは――」
「エバッ!」
レットさんが、ハッとわたしを見ました。
そうです、なぜ今まで気づかなかったのでしょう!
わたしたちには自分たちの位置を知る術はありませんが、はぐれてしまった仲間の場所を知る方法はあるのです!
「やってくれ、エバ!」
言われるまでもなく、わたしはすぐに “死人占い師の杖” を取り出し、杖に秘められた “探霊” の加護を引き出しました。
大まかですが、念視によって行方不明者の魂魄の位置を特定します。
そして――。
「――いました! 生きています! 全員無事です!」
全身に拡がる、これ以上ない喜悦!
アッシュロードさんも、パーシャも、フェルさんも、アレクさんも無事です!
「そうか、よかった! どこだ? 二階か? 三階か? 近くにいるのか?」
「……あ」
レットさんに言われて、四人がいる正確な階層を探ったわたしの表情が見る見る蒼ざめます。
「そ、そんな……」
「どうした?」
「四人が……アッシュロードさんたちがいるのは……八階です」
◆◇◆
同時刻。
地下八階。
エバ・ライスライトが念視したグレイ・アッシュロードは抜き身の剣を手に、やはり武器を構えたフェル&パーシャの二人組と険悪な面持ちで対峙していた。







