“時の賢者”
「侍女さん」
わたしは顔を上げると、田宮さんと安西さんに慰められる侍女さんにお願いしました。
「わたしたちに、このお部屋を調べさせていただけませんか?」
人形の侍女さんはキョトンとしたあとに、小さめの顔を傾げました。
それからまた顔を真っ直ぐに戻して、
「申し訳ございません、お客さま。仰っている意味がわかりません」
と、心の底から申し訳なげに謝ります。
「わたしには筐体および内部機構に、経年劣化による複数の不具合がございます。お客さまのご要望に応えられず、ご不快な思いをさせたことをお許しください」
「そうではないのです。あなたのご主人のルーソさんがどこに行ったのか。今何をしているのか。その手がかりを見つけたいのです」
わたしは頭を振り、できるだけ視覚的に反応を示します。
あるいはその方が理解しやすいのでは――と思ったのです。
「ルーソさんがこの部屋を出てすでに五八年が過ぎています。これは人類の寿命が均一化したこの世界では、とても――とても長い時間です。これだけの期間戻らないということは、ルーソさんの身に不測の事態が起こったのかもしれません」
侍女さんの紅玉色の瞳が揺らぎました。
「ご主人さまが危険な目に遭われたのですか?」
「それを確かめるために、この部屋を調べたいのです」
侍女の務めとルーソさんを慕う気持ちがせめぎ合いるのでしょう。
今にも泣きそうな表情で固まってしまった侍女さん。
「1、侍女は主人に危害を加えてはならない!
またその危険を看過することで、主人に危害を及ぼしてはならない!
2、侍女は主人に与えられた命令に服従しなければならない!
3、1から2に反する恐れがない限り、侍女は自身の身を守らなければならない!」
突然早乙女くんがソファーから腰を上げると、押し黙ってしまった侍女さんに拳を握って熱弁を振るいました。
「それは……なんですか?」
「侍女三原則だ!」
早乙女くんを除く全員の眉根が寄ります。
え~と、早乙女くん、それはもしかして……。
「1は2よりも優先するんだ! 君は主人に危害が及ぶのを見過ごすのか!?」
「……」
侍女さんは端正な眉を寄せて考え込んでいましたが、やがて表情を和らげ、
「お客さまのご意見は論理的かつ道義的であると思います。お客さまのご意見を承りました。正常な記憶領域に “侍女三原則” を登録させていただきました」
「それじゃ!」
「はい。どうかこの部屋を調べて、ご主人さまの安否を確認してくださいますよう、お願いいたします」
丁寧に頭を下げました。
「……無理が通れば道理が引っ込むだな」
「仮にも魔術師の部屋だ。まずは俺と枝葉と早乙女で “看破”を使って罠の有無を確かめる。それから手分けして調べよう」
“看破” は主に宝箱に仕掛けられた罠を識別する際に嘆願される加護ですが、決してそれ専用というわけではありません。
宝箱に限らず指定した範囲に “悪意” ある仕掛けがあれば、嘆願者に知らせてくれるのです。
一区画四方の部屋は、三人の “看破” でギリギリカヴァーできる広さです。
罠は……ありませんでした。
さらに目的のルーソさんの手がかりは、あっけないほど簡単に、部屋を調べ始めてから三〇秒も経たずに発見されたのです。
それは一枚の羊皮紙に書き綴られた手記とも手紙ともとれる書き置きで、書斎机の中央に水晶の文鎮で押さえ置かれていました。
◆◇◆
『この部屋を訪れた客人たちに、これを書き残す。
わたしはルーソ。
この部屋の主にして “時の賢者” と呼ばれる者。
わたしはこれより時を遡行し、過去へ向かう。
目的は “悪魔王” の復活を阻止することにある。
あの魔王が復活して四〇余年。
今や世界は滅亡の淵に立たされている。
すでにこのリーンガミル以外の都市はすべて滅び去った。
女神の加護がなければ、この都もとうに滅びていただろう。
だが女神の加護も無限ではない。
その力は徐々に弱まりつつある。
女神の加護が尽きる前に、過去を変えなければならない。
何が “悪魔王” の復活の引き金となったのか。
それを確かめ、阻止するのだ。
そして……客人よ。
そなたが、あるいはそなたらがこの書留を読んでいるならば、それはわたしが使命に失敗したことを意味している。
わたしは過去を変えられず、未来を――現在を変えられなかったのだ。
客人よ……今、世界はどうなっているだろうか。
母なるアカシニアは、どうなっているだろうか。
心残りは無数にあるが、もはやわたしにはどうすることも出来ない。
そしてもしこの無能な魔術師を哀れんでくれるのなら、わたしの帰りを待っているだろう×××に優しく接してやってほしい。
わたしはこの部屋に “時空遮断” の封印は施さずに発った。
あの娘に永遠にわたしを待ち続ける責め苦を負わせたくはなかったからだ。
どうかわたしの娘に憐憫を……』
◆◇◆
手記を読んだ全員から言葉が失われました。
「……この “時空遮断” の封印っていうのは何かしら?」
やがて田宮さんが口を開きました。
直接ルーソさんの話題を口にしなかったのは、側にいる侍女さんを慮ってのことでしょう。
侍女さんの名前は虫によって食い荒らされ、判別できません。
「……おそらく、この部屋を外界から隔絶して、時間の流れを極端に遅くする魔法でしょう」
「……つまり龍宮城か」
「……ええ」
隼人くんにうなずきながら胸をよぎるのは、妻を愛し、夫を慈しみ、娘を想った、一組の夫婦の姿です。
「お客さま。ご主人さまがいつお帰りになるかお分かりになりましたか?」
侍女さんが弾んだ声で訊ねました。
銀色のツインテールが期待に揺れ、紅玉色の瞳が希望に輝きます。
胸をつまされる思いに、誰も答えることができません。
唯一、
「ああ――ああ、わかったぞ! わかったとも!」
侍女さんに向き直ると、早乙女くんが快活に答えました。
「もうすぐだ! ルーソさんはもうすぐ帰ってくるぞ!」
「……早乙女くんっ!」
驚いて制しかけた田宮さんの腕に手を置き、わたしは顔を左右にしました。
真実に望みがないのなら、嘘は救いにもなるでしょう。
田宮さんはわたしの言わんとすることを察し、それ以上何も言いませんでした。
「それはとても嬉しい知らせです。お客さま、ご主人さまはいつお帰りになるのですか?」
「ルーソさんは今、この世界を救うために働いているんだ! でももうすぐ! もうすぐだ!」
早乙女くんの声が、徐々に涙に滲んできます。
「わかりました。お客さまのお陰で、これからは毎日が楽しくなりました。わたしにはご主人さまがお帰りになられたら、ずっとお願いしたかったことがあるのです」
「お願い?」
「涙を流せるようしていただきたいのです。ご主人さまから、人間は悲しいときや寂しいときに涙を流して紛らわせると聞きました。涙を流せるようになれば、次にご主人さまがお出かけになるときにも、きっとお待ちすることができるでしょうから」
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「……泣いてるのか?」
「うるせぇ! これはあの娘の涙だ! あの娘が泣けない分、俺が泣いてやってるんだ!」
先頭を行く五代くんが背中越しにどこかトゲのない声で指摘し、四番手の早乙女くんが涙を拭いながら怒鳴り返しました。
来たときと同様、侍女さんの丁寧なお辞儀に見送られ、わたしたちの姿は再び迷宮にありました。
帰らぬ主を待ち続けてきた機械仕掛けの侍女さんはこれからも独り、帰ることない主を待ち続けるのです。
でも。
今の彼女の心には、灯火がありました。
早乙女くんが点した、希望という名前の灯火です。
その灯火は涙の代わりに彼女の孤独を払い、悲しみを癒やしてくれるでしょう。
異変に気づいたのは五代くんではなく、二番手の隼人くんでした。
「――敵だ」
全員が身構え、一〇〇年後の迷宮で初めての戦いに突入しました。







