リトル・オールドマン★
「―― “墓守” !」
開け放たれたままの扉の脇に立つ小柄な老人を見て、隼人くんが鋭い声を上げました。
(“墓守” !? このお爺さんが!?)
“墓守”
それはこの “呪いの大穴” が “林檎の迷宮” へと変容する前に、迷宮上層を徘徊していた謎の怪人。
白髪白髯。かつては緑衣だったと思われる襤褸をまとった、枯れ木のように痩せ衰えたみすぼらしい老人で、一見すると迷宮支配者が配した人外のように思えますが、戦闘が可能なことから通常の守護者に分類されていました。
戦闘力が無きに等しいうえに臆病ですぐに逃走してしまい、駆け出しの脅威にさえならない迷宮最弱の魔物らしいですが、倒したとしても何度でも復活することから、
『二〇年前の大乱の際に “僭称者” に味方した不忠義者がニルダニスの怒りを買い、女神の祝福によって王城が崩落したあとも死ねずに彷徨い続けているのだ』
そんな噂がまことしやかに囁かれていたそうです。
リーンガミルの探索者の間で侮蔑を込めて “墓守” と呼ばれるその怪人が、唐突に現れたのでした。
「こいつ、まだいたのか!」
早乙女くんが喫驚し、わたしも同様の思いでした。
これまでの四回の探索では、遭遇することがなかったからです。
わたしだけでなく “緋色の矢” からも遭遇の報告はされていません。
迷宮の変容と強化によって、上層の魔物はすべて入れ替わったものと思っていたのですが――。
「捕まえろ!」
視線が合うなり脱兎のごとく逃げ出した “墓守”を見て隼人くんが叫んだのは、当然の判断でした。
現在確認された中で、唯一変貌した迷宮で存在し続けている有限体。
捕まえて話を聞き出すことができれば、有益な情報が得られるかもしれません。
全員が “墓守” を追って駆け出しました。
小柄な老人は回廊を東に向かって逃げていきます。
(……速い!)
あの枯れ枝のような足のどこに、これだけの脚力があるというのでしょうか。
既視感が過り、逃げていく老人の背中が可愛そうな “アレクサンデル・タグマン” さんの姿に変わりました。
あの時は怯え逃亡するアレクさんを捕まえるために、“棘縛” の加護を願ったのでしたが――。
「厳父たる男神 “カドルトス” よ―― “棘縛” !」
早乙女くんが立ち止まり、物凄い早口で祝詞を唱えました。
「クソッ! やっぱり駄目だ!」
地団駄を踏み、再び走り出す早乙女くん。
そうなのです。
非力なうえ裸同然で装甲値も最高値ですが、魔法を無効化する能力だけは一〇〇パーセントなのです。
(――まるで旧約聖書に出てくる “カイン” です!)
旧約聖書『創世記』第四章。
羊飼いである弟の “アベル” を殺した農耕者の “カイン” は、神の加護によって死ぬことが出来ず、永遠の彷徨い人となったと伝えられています。
まるでその伝承を模しているようではありませんか。
“墓守” は逃げに逃げ、先ほどわたしたちが引き返した岐路を北に折れました。
どうやら階層の中央区域に逃げ込む気のようです。
中央区域は五×五区画の正方形の広間で、周囲をすべて扉に囲まれた異様な場所でした。
かつてこの迷宮がまだ地上の王城であった頃には、ニルダニスの礼拝堂だったとも言われていて、さらに広間の中央には東西南北に扉が着いた一×一の狭い玄室がありました。
いかにも何かありそうな玄室なのですが、最初の威力偵察でもその後の “緋色の矢” と “フレッドシップ7” の探索でも、何も発見されていません。
隼人くんたちの話では似たような場所が変容する前の迷宮にもあったらしく、そこには人外の亡霊がいて、“女神の試練” に関する助言とも警告とも取れる言葉が聞けたらしいのですが……。
“墓守” は中央区域に入り、さらに中央の小部屋に逃げ込んで扉を閉ざしました。
「深追いは駄目です!」
小部屋を前に、わたしは声を鋭くしました。
すでにパーティは勢い余って広間に入り込んでしまっています。
根城にしていた魔物がいたら危険なところだったのです。
「……だが他の扉が開いた気配はないぜ」
聞き耳を立てている五代くんが “墓守” が閉ざした南の扉以外に、開閉の気配がなかったことを告げます。
「……奴はまだこの中だ」
「……どうするの?」
田宮さんが曲剣の柄に右手を添えながら、隼人くんに訊ねました。
「……ここで引き返す手はない」
「……だな」
うなずいたのは早乙女くんでした。
「……で、でも中に他の魔物がいたら……?」
「……その場合はそいつらと戦うまでだ。まだ生命力 にも精神力にも余裕がある」
安西さんの震える声に、隼人くんがキッパリと答えました。
慎重に危険を避けることは、もちろん重要です。
ですが迷宮探索とは、そもそもその危険の上に成り立っている作業です。
危険を回避するだけでは何も得られません。
大事なのは、その危険の上でどれだけの仕事ができるかなのです。
わたしたちは何かを得るために、迷宮に潜っているのです。
わたしが何も言わなかったことで、隼人くんは突入を指示しました。
五代くんが再び扉を調べ罠がないことを確認すると、パーティは扉を蹴破り玄室に突入しました。
“永光”が、玄室内を隈なく照らし出します。
(えっ?)
玄室の中には遮蔽物などはなく、身を隠せる場所はないはずですが、“墓守” の姿は見当たりません。
「くそっ! 逃げられたか!」
「いや、他の扉が開いた音はなかった」
舌打ちした早乙女くんに、五代くんが冷静な口調で答えます。
「だけど誰もいねえだろうが!」
「もし逃げたのなら、わざわざ扉を閉ざしては行かないはずです」
わたしは玄室の四方に設置された巨大な扉のうち三つに視線を走らせ、指摘しました。
たった今蹴破ってきた扉を除くすべてが閉ざされています。
もし他の扉から逃げたのなら、再び扉を閉ざしていく余裕はなかったはず。
「そ、それじゃどこに……?」
「まさかカメレオンみたいに、保護色で溶け込んでいたりする……?」
怯える安西さんを、田宮さんが背中にかばった瞬間――。
“――試練の挑む者たちよ、汝らに女神の宣託を与えん! しかとその心に留めよ!”
突然の大音声が響き渡ったかと思えば、次の瞬間には恐ろしくも美しい量子の隧道を駆け巡っていたのです!
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………………臭い……です……。
まったく何をやっているのですか、アッシュロードさん……。
“ゆで卵” がみんな腐ってしまっていますよ……。
もったいないお化けがでますよ……。
「――はっ!」
全身を包む腐卵臭に、わたしは咄嗟に意識を取り戻しました。
ふらつく頭を起こすと、視界に映ったのは濛々とした水蒸気。
靄で煙っているため、他の人の姿は確認できません。
辺りに漂う腐った卵の臭いは、硫黄でしょうか。
この濃度では危険はないと思いますが、それでも早く抜け出すに越したことはありません。
(ここは、どこなのでしょうか……)
みんなの名前を呼びたい衝動を必死に抑えて、まずは手探りで状況を確認します。
床は硬い石造りで、迷宮のそれと同じようでした。
(あれは……通常の転移とは違いました。あれはこの世界に転移してきたときと同じ現象でした。いったい何が……)
混乱する思考のまま、ビショ濡れの石畳に手を突きます。
再び倒れないように慎重に立ち上がったとき、
ヒタ、ヒタ、ヒタ……、
湯気のヴェールの奥から、何かが近づいてくる気配がしました。
わたしは息を殺し、幸いなことにベルトに吊られたまま失っていなかった戦棍に手を伸ばします。
「~~♪」
魔法の槌矛を持って身構えるわたしの耳に、今度はのんきな鼻歌が響いてきました。
足音に重なる鼻歌はさらに近づき、ついに――。
手拭いを肩に掛けたアヒル……さんとなって、わたしの前に現れたのです。
「ガァ?」







