前・林檎の迷宮★
「林檎の……樹?」
布きれで押さえた口から、疑念の渦巻いた声が漏れた。
警戒が先行し、呆けなかったのは隼人の成長の証だろう。
他の四人も同様で、不用意に近づいたりはせず遠巻きに様子をうかがっている。
「植物系の魔物?」
佐那子が右手の布で口元を覆いつつ、反対の親指で曲刀の鍔を押し上げた。
古流の抜刀術を修める佐那子は、ボルザッグの店で扱われている曲刀の中でも、特に日本刀に似た形状のものを選んでいた。
「そんな魔物、今まで一階にはいなかったぜ?」
やはりくぐもった声で月照が答える。
これまで第一階層に出現していた魔物は主に、“小鬼” や “犬面の獣人” といった亜人・獣人の中でも最底辺の手合いであり、そこに希に冒険者崩れの破戒僧や、食い詰めて迷宮の盗賊に堕した手品師が混じる程度だった。
迷宮の影響で凶暴化した “河馬” や致命の一撃 を持つ “追い剥ぎ” など、一部手強い敵もいることはいたが数は限られていた。
「……いや、そもそもこの迷宮に “植物系” は出現しないはずだ」
忍が冷静を通り越した冷めた口調で言った。
「そ、そうだね、訓練場で習った中に植物系の魔物はいなかった」
皆の後ろから怖々とうなずく恋。
この “呪いの大穴” は二〇年前に踏破されていて、生息する魔物の種類や各階層における分布など、すべて明らかにされている。
それらの知識は “街外れ” の冒険者訓練場で、迷宮が閉じられていた間も座学として教えられてきた。
半年前に再び開放されたあともその情報は生きており、大いに隼人ら冒険者たちの助けになっていたのだが……。
「植物系の魔物なら “龍の文鎮” に多く生息しているはずだけど……」
佐那子の何気ない言葉に、隼人の心はかき乱された。
彼の幼なじみの枝葉瑞穂は仲間と共に “龍の文鎮” に召喚され、過酷な探索の末にこれを踏破し、結果的に世界を救ったという。
(……集中しろ、すべては過去だ)
隼人は女々しく引きずる自分を叱咤し、眼前の事象に意識を戻した。
「異常なのはいいことだ。変わっているのに表面上普通の顔をされるよりもよほどいい――安西」
「は、はい」
「“火弓” を、射程距離ギリギリから当ててみてくれ。それで様子を見る」
いささか乱暴だが、魔物なら反応があるはずだ。
一〇フィートの竿で突くよりも、効果があるだろう。
「わ、わかった」
恋は自ら率先して行動するのは苦手だが、指示には迅速に対応する。
すぐに精神を統一し、魔術師 としてはもっとも初歩の呪文を唱え完成させた。
恋の指先から細い火線が一条走り、巨大な林檎樹に突き刺さる。
一秒……二秒……。
「……なにも起きないな」
ゴクリと生唾を飲み込む月照。
樹皮が少し焦げただけで、林檎の樹に変化は現れない。
「ただの林檎の樹……ってこと?」
佐那子が困惑する。
ここは地下迷宮なのだ。
ただならただで、それは異常だ。
「……どうする?」
忍が隼人を見た。
どこか隼人を試すような気配があるのはいつものことである。
「先に進む。現状で問題がないのなら、引っかかる必要はない」
仲間たちはうなずき、進発の準備をした。
月照が “永光” “認知” “恒楯” の嘆願を終えると、一行は隼人、佐那子、月照、恋、忍の一列縦隊で東に向かった。
一階には悪辣な罠は少なく、先頭に斥候 を立てる必要はない。
毒や麻痺などといった特殊攻撃をしてくる敵もいないので、忍よりも装甲値の低い月照が前衛に立っていた。
一カ所だけある穽の位置も判明しているので、忍は最後尾で後方警戒に徹する。
すぐに次の異変にぶつかった。
縄梯子からわずか東に二区画。
座標 “N0、E2” の北の内壁に、これまでにはなかったはずの扉が現れたのだ。
「……これでハッキリした。 “僭称者” が帰還したことで、この迷宮は変わったんだ」
押し殺した隼人の声に、仲間たちの緊張はいや増した。
それはすなわちこれまで自分たちを助けてきた知識・情報が、用をなさなくなったことを意味する。
「……どうするの?」
硬い声で佐那子が訊ねる。
北の内壁に扉がある以外は、長い回廊がまっすぐに東に続いている。
扉の類いが出現してもまずは無視して階層の外縁を固めていくのが、迷宮探索の定法とされている。
隼人たちもこれまで、それに倣ってきたのだが……。
「開ける」
隼人は即断した。
定法には反するが、ここはまだ縄梯子に近い。
仮に扉の奥に魔物が待ち構えていて結果として敗走したとしても、地上に逃げ戻ることができる。
回廊を進み階層の奥まで入り込んでしまったあとでは、それもままならない。
迷宮が “林檎の迷宮” へと変容した今、生息する魔物にも変化があったと考えないのはどうかしている。
もし未知の魔物と戦うのであれば、地上へは近ければ近いほどよかった。
隼人は迷宮探索をする冒険者のリーダーとして資質があったのだろう。
結果として、この判断がパーティを全滅から救った。
忍が扉を調べると、果たして魔物の気配があった。
やり過ごすという選択肢はなかった。
変貌した迷宮にどんな魔物が巣くっているのか、まずは確かめなければならない。
忍がハンドサインで、カウントダウン。
指が三本立ったところで一番体格のよい月照が扉を蹴り開け、魔剣を抜き放った隼人が突入した。
すぐさま四人が続き――全員が絶句した。
一×一区画の玄室にいたのは、身の丈三メートルを超える巨人の群れだった。
その数、実に一〇体。
“永光” の明かりと “認知” の効果で、すぐさまその正体を見極められる。
“食人鬼頭” ×5
“亜巨人” ×5
(マズイ!)
隼人は自分たちが決定的な敗運を招いたことを直感した。
初見の魔物と数を目の当たりにしての、一瞬の硬直。
対する巨人の群れは、間髪入れずに行動に移っている。
“食人鬼頭” が五匹、同時に同じ呪文の詠唱を始めていた。
当然だ。
“食人鬼頭” のレベルは8。
隼人たちよりも力量は上なのだ。
「“焔爆” !?」
恋が悲鳴を上げる。
「逃げろ!」
月照が怒号する。
「駄目だ! もう遅い!」
隼人は走り出しかけた仲間を無理矢理引き留めた。
逃走の機は逸した。
今逃げれば魔法の射程から逃れる前に、背中から五発の火の玉を喰らってしまう。
パーティは消し炭だ。
「――“亜巨人” は放っておけ! “食人鬼頭” を止めろ!」
隼人は叫ぶなり、“静寂” の加護を嘆願した。
“焔爆” よりも位階が低い分、詠唱が短い。
『大男総身に知恵が回りかね』――人間の魔術師 よりも一割増しで遅い “食人鬼頭” の詠唱をまくることができる。
わずかに遅れて、月照が同様の祝詞を唱え始めた。
佐那子は “昏睡” の呪文だ。
君主と侍という上級職を持つパーティの強みだ。
いざとなれば、前衛も魔法を使うことができる。
これで恋が “昏睡” を唱えれば、被害を最小限に――。
だが恋が唱えた呪文は違った。
(―― “焔嵐” !? 安西、それは違う!)
魔術師ゆえに五重に重ねられる “焔爆” の呪文に恐怖してしまったのだろう。
咄嗟に自分の使える最強の魔法を唱えてしまったのだ。
恋の性格を思えば、呪文の指示まで出さなかった隼人のミスだった。
隼人の “静寂” がまず完成した。
呪文を封じられたのはわずかに一匹。
月照も同様だった。
格上の相手へのデバフは通りにくい。
焦っていたこともあり、効果は最少に終わった。
佐那子の “昏睡” は、その魔法を封じた二匹を含む三匹を眠らせた。
“食人鬼” は催眠耐性低く、眠りの呪文が弱点なのだ。
だが呪文を封じた二匹を眠らせたところで価値は低い。
佐那子の戦果もまた僅少だった。
そして恋の “烟嵐” よりも早く、残り二匹の “焔爆” が完成した。
パーティの中心で炸裂する人間の頭大の火球に、隼人たちは残らず吹き飛ばされた。
前衛の隼人と佐那子、そして耐久度 に秀で生命力の高い月照はどうにか立ち上がることが出来たが、忍と恋は意識を失い絶命寸前だった。
わずか二発の “焔爆”で、パーティは半身不随に陥ってしまったのである。
「……田……宮っ!」
隼人はかすれ声を張り上げるなり、もう一度今度は “棘縛” の祝詞を唱えた。
ノッシノッシと緩慢な動きで近づいてくる “亜巨人” を阻止しなければ、自分たちは全滅する――。
その恐怖だけが、隼人を突き動かしていた。
曲刀を支えに立ち上がった佐那子も同じだった。
焼かれた皮膚の痛みに耐えながら、必死に呪文を紡ぐ。
間に合うかどうかは神々の慈悲よりも、瀕死の獲物を見下す “亜巨人” の油断に懸かっていた。
そして……。
白い大理石の壁に囲まれた病室で今、隼人の視線の先にはリーンガミルを……彼の元を去ったはずの枝葉瑞穂がいた。







