夜討ち
――そのリーンガミル聖王国中興の祖にして、英邁の誉れ高き女王 “マグダラ四世” が、控えめな先触れに続いて謁見の間に入場してきました。
教わった礼法どおり頭を下げて、目を伏せます。
現在のわたしの正式な身分は、上帝トレバーン陛下の家臣であるアッシュロードさんの所有物なので、膝を突いての跪礼はしません。
トリニティさんを始めとする、親善訪問団の方々も同様です。
やがて静かな衣擦れの音がして、女王が玉座に着いた気配がしました。
『面を上げてください、盟邦の友人たちよ』
広い謁見の間に、落ち着いた柔らかなアルトが透き徹りました。
ごく自然な声量でしたが、魔法使い特有の発声であることがわかります。
マグダラ女王は司教の職業 に就いていた元冒険者であり、世界で唯ふたりだけといわれている恩寵 “賢者” の持ち主なのです。
そしてもうひとりの “賢者” であるトリニティさんが顔を上げ、わたしを含めた親善訪問団の他の列席者も倣いました。
白亜を基調とした瀟洒ですが決して華美ではない広間が、再び視界に拡がります。
白色の空間はともすれば心理的な圧迫感を覚えるものですが、謁見の間はマグダラ陛下のお人柄を現してか、お声同様に鷹揚で解放感のある空間でした。
その広間の壁際中央に置かれた玉座に、長く豊かで艶やかな栗色の髪と神秘的な漆黒の瞳を持つ人族の女性が座っていました。
どんなドワーフの名匠でも表現できないと言われているご容姿。
およそ人間の女性で、この方以上に美しい人が存在しうるでしょうか。
わたしには、とてもそうは思えません。
現リーンガミル聖王国女王、“マグダラ・リーンガミル” 陛下その人です。
『篤き歓迎を、我が主君 “アカシニアス・トレバーン” に成り代わり感謝いたします、マグダラ陛下』
威を張らず、へりくだらず、懐深く堂々と、トリニティさんが口上を述べます。
『またやむを得ぬ仕儀があったとはいえ、到着が遅れたことをお詫びいたします』
『“龍の文鎮” での経緯は聞き及んでいます。にわかには信じられない話でしたが、あなた方のお陰でリーンガミルのみならずこの世界が救われたことを、アカシニアのすべての民を代表してお礼申し上げます』
『多くの、貴い犠牲があったればこそです』
『命を落とした勇敢な騎士と従士の魂が、安らかな眠りに就けるよう、女神ニルダニスに祈らせていただきました』
『陛下に祈りを捧げていただけたことは、散っていった者たちへの何よりの手向けとなりましょう』
型どおりでしたが決して外交儀礼とは言い切れない、気持ちの籠もった会話が交わされます。
マグダラ陛下は穏やかにうなずき、視線をトリニティさんから随行員に移しました。
陛下の御前に進み出たトリニティさんの後ろには、文官の方々が並んでいます。
名目上今回の親善訪問団の “御神輿” であるわたしが、その先頭です。
カチンコチンなわたしに、陛下は優しく微笑んでくださりました。
その瞬間、身体から緊張が解け去って……。
為政者としての確かな威厳と、女性としての温かな包容力。
まことに失礼ながらわたしはポ~っとしてしまい、陛下の視線が隣のオレシオン伯に移ったことに気づきませんでした。
副使節であるオレシオン伯爵は、“龍の文鎮” で身籠もった侍女エッダさんの主人であり、現在は後見人の方です。
有能な外交官で、リーンガミルに到着した今、ようやく力を奮えると意気込んでいました。
親善訪問団の中核である上級文官は、トリニティさんを含めて一五人。
マグダラ陛下はその一人一人をみつめて、うなずいていきます。
文官の次は、武官です。
先頭に立つのは華麗な礼服に身を包んだ、次席近衛騎士のドーラさんです。
マグダラ陛下の視線は、他の方よりも長くドーラさんの上に留まったように見えました。
ドーラさんの隣は、席次ナンバー3のボッシュさん。
ビシッと正装し丹念に調髪した姿は、これで軍帽を被れば、まるで遙かイスカンダルへの遠征を成功させた某宇宙戦艦の艦長さんです。
使節団長のトリニティさん自身が、『わたしよりもよど団長だな』と半ば真顔で評したのも、宜なるかなの貫禄です。
続く四人は第一~第四の近衛小隊長さんです。
そのうちのひとりロドアーク卿は、前述のエッダさんが結ばれた、従士ヨシュアさんの主君です。
“湖岸拠点” を巡る戦いでは、第一小隊長として南側の守備に就き、群がり寄る “妖獣” を相手に奮戦。最後まで守り抜いた剛勇の士です。
そうしてマグダラ陛下は、トリニティさんの補佐官として列席している最後尾のハンナさんまで、丁寧にお目を留めてくださいました。
『長く野外で過ごし、お疲れでしょう。歓迎の晩餐会などは明日の夜から催させていただきます。今夜はこの城でゆっくりとお休みください』
『ご配慮、感謝いたします』
トリニティさんのその返礼を以て拝謁の儀は終わりました。
『ところで筆頭近衛騎士のアッシュロード卿の姿が見えないようですが――いかがなされたのですか?』
弛緩しかけた空気が凍り付き、訪問団全員の背中にタラリ……と嫌な汗が伝わりました。
◆◇◆
「夜分に失礼いたします。女王陛下がアッシュロード卿のお見舞いにうかがいました。どうぞ卿にお取り次ぎください」
「…………はひ?」
ジョウオウヘイカガ、あっしゅろーどサンノオミマイニ?
チクタク、チクタク、チクタク――ポ~ン!
「しょ、少々お待ちください」
ギギギギギ……と、限りなくギコチナイ笑みを浮かべて、わたしはドアを閉じました。
「アッシュロードさん!」
狼狽えのバッケンレコードで振り返ると、大慌てでテラス窓から逃げだそうとするアッシュロードさんの背中が見えました。
「くおぉぉら! どこへ行く気か、この馬鹿犬がぁ!」
わたしは生涯最高の速度で、ギュンッ! と距離を詰めると、生涯最凶の形相でアッシュロードさんの猫背をむんずとつかみました!
前々から理解はしていましたが、さすがにそれはセコ過ぎます!
セコさのバッケンレコード、久々に更新です!
「なんかの間違いだ! さもなきゃご乱心だ! 俺は総大将直々に夜討ちをかけられるほど大物じゃねえ!」
ええい、ジタバタするな! このぐったりグレートデン!
「仮病なんか使うからです!」
「仮病じゃなくて実際に病気だ!」
「だからこそ、なればこそです! だからこそマグダラ陛下は心配されてお見舞いに来てくれたのですよ!」
「どうして!? なんで!? なんなんの、この罰ゲーム!? 俺はなんにも悪いことはしてねえぞ!?」
「謝れ! 全国の “悪” さんに謝れ!」
わたしも大概、ご乱心です!
「と、とにかく女王陛下を待たせるわけにはいきません! マッハで着替えて口をすすいでください!」
完全に泣きが入ってしまったアッシュロードさんをしかと確保し、腹を据えます!
据えるしかありません!
今こそ、今こそわたしの奥さん力が試されるときです!
燃え上がれ、わたしの中の秘めたるパワー! ゴー・ファイヤー!
わたしは着た切り雀だったアッシュロードさんのシャツをむしり取り、むしったシャツで顔をこれでもかと拭きに拭き、口に歯ブラシをツッコミ、新しい下着を被せ、スラックスをはかせ、礼服に袖を通させると目にも留まらぬ早業でボタンを留め、ゴテゴテした金糸の飾緒を吊るし(慌てていたので危うく絞殺するところでした)、勲章と階級章をつけ、狂気の突貫工事で “狂気の大君主” の筆頭近衛騎士を仕立て上げます!
「完成!」
この間、わずか二〇秒!
エバ・ライスライト生涯の勲は、ここに全きを成しました!
わたしは金ぴかに着飾った直立したグレートデンを前に “シャッ!” と拳を握りしめると、顔面グニグニ体操で強張りに強張った表情をほぐして、にこやかにドアを開けました。
「た、大変ご無礼をいたしました、陛下。どうかお許しくださいませ」
ドアを開けるなり、深々と頭を下げます。
「お顔を上げてください、聖女様。突然訪れた無作法をしたのはこちらなのですから」
昼間と同じ穏やかなアルトが頭上で響きます。
「あ、ありがとうございます――ど、どうぞ、お入りください」
わたしは身体をどけ、それでも顔を伏せ気味にして女王陛下を招き入れました。
アッシュロードさんが敬礼してくれていたのは、この人にしてはまったくファインプレーだったと言わざるを得ません。
「た、宅の主人のアッシュロードです」
緊張のあまり微妙にズレた表現になってしまいましたが、マグダラ陛下は鷹揚に聞き流してくださいました。
「アッシュロード卿、どうぞ面を上げてください」
マグダラ陛下の許しを得て、アッシュロードさんがゆるゆると顔をあげます。
「……グレイ・アッシュロード……です」
「……」
マグダラ陛下は、いい加減寝酒が回ってわたしの目から見ても冴えているとは言いがたいアッシュロードさんを、黙って見つめています。
物珍しいとか、そぞろ哀れを催したとか、そういった眼差しではありません。
もっと深い、懐かしさ、親しみ、慈しみ……愛おしさ。
そんな万感の想いを湛えた瞳。
(……え、どうして?)
わたしただけでなく、アッシュロードさんも戸惑った表情を浮かべています。
やがてマグダラ陛下は夢から醒めたように、
「案じていたよりもまろやかな様子で、安堵しました」
そんな不思議な言い回しで、また元の柔らかな表情に戻りました。
「し、心配していただくほど具合は悪くなくて、い、いえ、もちろん拝謁の儀に出られない程度には重篤でしたが、い、今はこのとおり回復していますです、はい」
「それも聖女様が付きっきりでお世話をしたお陰でしょうね」
「ふ、粉骨砕身努力しています」「……いえ、別に」
クワッ!
(な、なんだよ、別に付きっきりで世話なんてしてねーだろが)
(言葉のあやです、あや! それぐらい察してください!)
(~~~)
「ほほほ、も、もうしわけありません。宅の主人はまだ少々寝ぼけているようです」
わたしは口に手を当てた出来るだけ上品(と自分が思う)仕草で笑ったあと、件の侍女さんが恐い顔をしているのを見て、
「――あ、し、失礼いたしました。どうぞ、お掛けください」
女王陛下を立たせたままだったことに気づき、慌てて椅子を勧めました。
マグダラ陛下は気を悪くした風でもなく、やはり鷹揚にうなずかれて、典雅な所作で部屋の中央に置かれた大きめのティーテーブルに着きました。
(侍女さんがいつの間にか移動していて、椅子を引いていたのは流石としか言いようがありません)
まったくこれがトレバーン陛下だったら、首が飛んでいたかもしれません。
「さ、あなたがたも」
「は、はい」
「……」
「メリッサ、お茶を」
「はい、陛下」
侍女さんはすぐに部屋を出て、通廊に置いてあったワゴンを押して戻ってきました。
その姿がまた姿勢正しく気品があり、一国の為政者に使える超一流の侍女の “プロフェッショナルな流儀” が感じられます。
紙のように薄い白磁のティーセットが鏡のように磨き上げられた銀のトレーで出され、侍女さんが流麗な動作でお茶の支度をしていきます。
(も、もしかしてこの場合、本来ならわたしがお茶をお出ししなければいけなかった……のでしょうか?)
この部屋の主はアッシュロードさんで、わたしはその借金奴隷。
マグダラ陛下がお客様。
でも、アッシュロードさんはマグダラ陛下のお客様で……えーと、えーと。
固まった笑顔の下でパニクっているうちに、お茶の支度が整いました。
うっすらと湯気を昇らせる澄んだ琥珀色のお茶と、シンプルな色と形の焼き菓子。
「どうぞ、おあがりください」
陛下は先にティーカップを取り、微笑みました。
「い、いただきます」
わたしはポキポキした動作でカップに手を伸ばすと、そろりそろりと口をつけました。
初めて体験する神秘的な香りがまず鼻腔に、ついで熱く芳醇な味わいが口内に拡がります。
最初は紅茶かと思いましたが違います。
香草茶なのでしょうが、こんな味わいのものは日本でもアカシニアでも知りません。
この世界独自の香草なのでしょうか。
「……美味しい」
柔らかな清涼感が全身に染み渡っていき、緊張に凝り固まっていた筋肉がくつろいでいくのがわかります。
「……」
普段お茶の類いを嗜まず(“酒場は酒を飲むから酒場なんだ” ――本人談)、飲んでもコーヒーなアッシュロードさんは、驚くというより困惑した様子です。
「城の薬園で育てている香草です。稀少な物らしく市井には出回っていないようです」
「そうなのですか。初めて口にするお茶ですが、美味しいです、とっても」
「焼き菓子も召し上がってください。料理長の自慢の品です」
「は、はい」
陛下に勧められるままにティーカップを受け皿に戻し、焼き菓子をひとつ手に取りました。
お菓子にもマグダラ陛下のお人柄が出ているのでしょうか。
ロイヤルやノーブルな方々が口にする品の割に、色も形も控えめです。
ですが――。
「……ん? んんっ!? んんんーーーっっっ!?!?!?」
ひとくち囓ると、焼き固められた小麦粉がサラサラとたちまち舌の上で溶けて、甘く、優しく、官能的な……官能的な……。
「同じ菓子と茶を、他の方々の部屋にも届けさせてあります」
――ああ、このお気遣い。これがこのお方の人心掌握術なのですね。
なにか特別なことをしているわけではないのです。
ごく自然な気遣いを、必要なときに、必要に応じてしているだけなのです。
でも、それなのに――それなのにです。
こんな感動を受けたら、誰だってこのお方に生涯の忠誠を捧げてしまうでしょう。
ジワッ……、
「お、おい、なに泣いてやがる」
「だって、だって……」
(~相変わらず単純な奴だ)
「迷宮では、甘い物は口に出来ませんものね」
「あ、いえ、まったく口に出来なかったというわけではなく、乾し葡萄は手に入りました」
焼き菓子の美味しさと、陛下のお心遣い。
ダブルな意味での感涙をゴシゴシとローブの袖で拭うと、わたしは慌てて答えました。
陛下の後ろに影のように立つ侍女さんが、眉を顰めています。
「まあ、地下迷宮で乾し葡萄が?」
「はい、それもすごく糖度の高い物が」
わたしは思わず身を乗り出して、“龍の文鎮” では “動き回る蔓草” から乾し葡萄や葡萄酒を造っていた話をしました。
「――あ、す、すみません、こんな殺伐とした話」
「殺伐だなんてとんでもない。わたしもかつては冒険者として迷宮に潜っていた身。とても興味深く楽しい話です。もっと聞かせてください」
「は、はい! 迷宮の話なら得意です! いくらでも出来ます!」
というか、それ以外できません!
これも女王陛下のお気遣いだったのでしょう。
陛下もその辺りのことがわかっていて、話を振ってくれたのだと思います。
でも決してそれだけではなく、本心から楽しんでくれているのもわかります。
ああ、初対面の方と共通の話題があることの、なんと幸福なことでしょうか!
話題は必然的にアッシュロードさんの一連の活躍に及び、わたしは鼻高々で身振り手振りを交え、ご主人様の悪辣極まる “悪巧み” の数々を披露しました。
夜のお茶会は、俄然わたしの独演会の様相を呈していったのです。
・
・
・
「――と、いうわけだったのです。ひぃ、ふぅ」
わたしは大河ドラマのような “龍の文鎮” での冒険譚を語り終えると、文机に置かれているドワーフ製の置き時計を見て、真っ青になりました。
(い、一時間も話し続けてしまいました……)
「も、もうしわけありません! つ、つい夢中になってしまって!」
「アッシュロード卿を……信頼なさっているのですね」
「そ、それはもちろん! わたしはこの人を誰よりも信頼しています!」
これ以上なく勢い込むわたしに、マグダラ陛下は微笑み立ち上がりました。
「とても楽しい時間でした。今度はわたしの部屋に遊びにきてください」
「は、はい!」
陛下はもう一度微笑み、いつの間にか移動していた侍女さんが開けていたドアに向かいました。
本来なら侍女さんのように、敬礼してお見送りするのが礼儀なのかもしれませんが、完全に舞い上がっていたわたしにその余裕はありません。
そんな無作法なわたしの視線の先で、陛下が立ち止まりました。
「……アッシュロード卿、この部屋の使い心地はいかがですか?」
背中越に、マグダラ陛下が訊ねます。
(ア、アッシュロードさん!)
ポカンとしているアッシュロードさんの脇腹を肘で突きます。
「あ……いや、悪くない……です」
「そうですか……以前ある人が使っていて、そのままにしておいたのです。お出しした茶も菓子もその人が好きだった物です」
それだけ仰ると、陛下は今度こそ部屋を出て行かれました。
「ゆ、夢のような時間でした……」
夢見心地で呟きます。
退出されたあとも陛下の残り香が、わたしを魅了し続けるのです。
「相変わらず単純な奴だ」
「な、何でも複雑に考える誰かさんよりは良いと思います」
人が余韻に浸っているのに、すぐそういう意地悪を言うのですから。
この人は本当に、おこちゃまランチです。
「そうじゃなくて――女王はおまえが俺にどう扱われてるか、その目で確認しにきたんだ」
「……あ」
「おまえが素っ裸でベッドに寝ているようだったら、とっくに衛兵に踏み込まれて、俺は今ごろ地下牢の中だったろうな」
この国の国教はニルダニス教だ――アッシュロードさんは肩を竦めました。
「そう……ですね」
わたしは首肯し、
「でも……それだけではないと思います」
そして否定しました。
「陛下がその目で確かめたかったのはやはり、アッシュロードさんだと思います」
「なぜそう言い切れる?」
「女の勘です」
別の侍女さんがワゴンを片付けにくるまでのわずかの間、わたしは陛下が退出なされたドアを見つめていました。







