一〇〇〇年王国
蒼い夜空が、聖王都一〇〇万の眠りを見守っていた。
盈月は煌々と明るく、ときおり流れかかる雲塊にも隠れることはない。
美しく、静かで、穏やかな夜だった。
夜の王都は、地上の星。
夜空から零れた星々が輝きを失わないまま、灯り続けている。
それは下ろし忘れた鎧戸の奥から漏れる燭台の明かりであったり、千鳥足の酔漢の手に下げられた角灯であったり、街路に灯された魔法の光であったりした。
満天を霞ませる、人工の星海である。
その無数の輝きの中心に、墨を垂らしたような深淵が拡がっていた。
かつての “旧王城” があった区域。
人々が “呪いの大穴” と呼ぶ一帯を、都で一番高い建造物である “新王城”の尖塔の頂から、人影が見下ろしていた。
魔力に満ちた月光に照らされてなお、視線の先の深淵と対を成すような漆黒の人影。
強風に吹き曝される尖塔の頂の、さらに先端に建つポールに爪先立ちになりながら、微動だにしない。
怪人であった。
怪人はどこから来たのか。
怪人は何者か。
怪人はどこへ行くのか。
怪人は何をしようというのか。
怪人は深淵を見つめ、深淵もまた怪人を見つめ返す。
城塞都市 “リーンガミル” はこの時……まだ平穏だった。
◆◇◆
魔法世界アカシニア最大の大陸であるルタリウス。
その西方に威を張る “リーンガミル聖王国” は、遙かな過去、世界に君臨した古代魔道帝国に連なる大国です。
一〇〇〇年王国。
魔導王国。
女神ニルダニスに祝福されし聖なる王国にして、古代の大罪に連綿と囚われ続ける呪われた王国。
数多の呼び名を持ち、栄光と血臭漂う歴史の果てに、長く “伏した龍” “盲いた龍” とも呼ばれていた老いたる大国。
年月を経ることで気骨と活力が失われ退嬰の道を歩むのは、国家と人の常なのでしょうか。
富める者はますます富み栄え、貧しき者はますます貧に喘ぐ。
民衆の不満は何世代にもわたって沈殿し、遂にはその澱の中から史上最大の簒奪者を生むことになりました。
簒奪者―― “役立たず” とも蔑称される “僭称者” は、人々の願望が具現化した存在でした。
腐り果て悪臭を放つ権威を一掃する、革新の風。
濁り澱み鬱した精神を流し去る、変化の奔流。
身心をがんじがらめに縛り続けるすべての矛盾を灼き尽くす、浄化の炎。
それは長い月日をかけて圧し殺されてきた人々の、魂の叫びだったのでしょう。
ですが何百年にもわたって親から子へ、そのまた子へと受け継がれ続けた鬱屈は、やがて慟哭となり、さらには呪詛へと変貌していたのです。
革新の風は、一〇〇〇年樹さえなぎ倒す暴嵐に。
変化の奔流は、大地すら抉る濁流に。
浄化の炎は、それを望んだ人々をも呑み込む怨念に。
“僭称者” は貧富・貴賤を問わずリーンガミルに存在するすべてを憎悪し、復讐の対象としたのです。
虐殺の狂飆が吹き荒れました。
王は妃と共に弑逆され、王統に連なる者は女も子供もことごとく殺められました。
貴族たちは誇りと尊厳を粉々に踏み砕かれたうえでの屈従か、さもなくば残酷極まる死を選ばされました。
民衆は歓呼の声を上げる前に、新たな支配者と自分たちにもたらされた運命の激変に恐怖しました。
王都には魔物が跋扈し、見上げる空には邪法によって呼び起こされた暗雲が厚く垂れ込め、太陽も月も望むことが出来なくなりました。
貧困と飢餓と疫病が新たな住民として、都を我が物顔で歩き回りました。
絶望の時代が到来したのです。
王家の血を引くふたりの姉弟が魔手を逃れ得たのは、女神ニルダニスの大いなる加護でした。
弑された先王の嫡子である王子は双子の姉姫と逃亡し、神託に従って長き探索を行い、女神の造り賜ふた五つの武具を集め、伝説の “運命の騎士” となったのです。
破邪の力を手に入れた王子は魔城と化した王城に攻め上り、天地を揺るがす激闘の末、ついに “僭称者” を討ち倒したのでした。
ですが人々の呪詛の化身である “僭称者” の断末魔は王城を崩壊させ、自らの仇である王子ともども奈落の底へと引きずり込んだのです。
王城は地層深くに埋没し、巨大な地下迷宮へと変容。
救国の英雄となった王子は、伝説の武具をまとったまま迷宮の闇に呑まれてしまったのでした。
姉姫はすぐさま “探霊” の加護を通じてニルダニスに弟の安否を訊ねました。
しかし女神ですら、“僭称者” の怨念渦巻く呪われた大穴を見通すことは適いませんでした。
伝説の武具の加護によって弟が生きていると信じ、姉姫は捜索隊を迷宮に向かわせました。向かわせるしかなかったのです。
王子の捜索は、未知の地下大迷宮の探索に他なりません。
捜索は生き残った騎士たちの他、莫大な報奨金に釣られた冒険者たちによっても行われましたが、広大複雑な迷宮と凶悪な魔物に阻まれ、遅々として進みませんでした。
遭難につぐ遭難。
全滅につぐ全滅。
犠牲は増え続け、最後には魔法使いとして希代の才能を持つ姉姫までもが、冒険者として迷宮に潜ったそうです。
そして……。
過酷な探索の末に弟 “アラニス” の形見として五つの武具を回収した姉姫は、最後の王統として王位に就きました。
若くして戴冠した彼女は善政を敷き、大陸中央に覇を唱える軍事大国、狂気の大君主 “アカシニアス・トレバーン” の治める “大アカシニア神聖統一帝国” に比肩する国力を、わずか一〇年余りで取り戻したのです。
――そのリーンガミル聖王国中興の祖にして、英邁の誉れ高き女王 “マグダラ四世” が、控えめな先触れに続いて謁見の間に入場してきました。
◆◇◆
「はぁ……世の中にはあんな美しい女性がいるんですねぇ」
「…………へぇ」
「わたしはあんな美しい女性を見たことがありません」
「…………へぇ」
「違うのですよ。フェルさんのエルフ特有の妖精のような美しさ(エルフずるい、超ズルい)とも、ガブさんの人間型の生きものを超越した神々しい美しさ(天使ずるい、超ズルい)とも」
「…………へぇ」
「もちろんドワーフが造った立像のように完璧な容姿なのですが、あくまで人間の女性の美しさなのです。相反する厳父のような威厳と、女神のような温かな母性と包容力が見事に調和していて――あれこそ、まさに女王のたたずまいといいますか」
「…………へぇ」
「――もうなんなのですか! せっかく人が感動しているというのに、さっきから生返事ばかりで!」
わたしは天蓋付きの豪奢なベッドの横に置かれた、これまた豪華な腰掛けににチョコンとお尻を下ろしたまま、ムッ!と恐い顔をしました。
「……だっておめえ」
生返事の主グレイ・アッシュロードさんはベッドにうつ伏せになり、ふかふかのピローにしゃくれ顎の半分以上を埋めながら、分厚い革表紙の書物を開いています。
寝酒のブランデーをチビチビ舐めながらの、至福の読書タイムというわけです。
まったくいいご身分です。
「だって? だってなんです?」
「…………いや、なんでもねぇ」
「ああ、そういうの気になるんです! 人の気を引いておいて最後まで言わないのは、よくないと思います!」
「……人に女の話を振っておいて、興味を示すと途端に不機嫌になるも良くないと思います」
アッシュロードさんらしからぬ切れ味鋭い切り返しに、思わず『うっ!』と詰まってしまいました。
ア、アッシュロードさんのくせに生意気な。
「そ、それはそれ。これはこれです」
「……だいたい客の身でホステスの、それも他国の女王の論評をするなんて不敬ってもんだ」
ううっ!
ですが、それもそれ。これもこれです。
「だいたいアッシュロードさんが悪いのですよ。大切なお目通りの儀式をすっぽかすから」
劣勢に立たされたわたしは、拗ね顔で抗弁します。
そして深々とため息。
「まったく信じられません。武官のトップである筆頭近衛騎士が “他国の女王様” の引見から逃走するなんて」
「……逃走じゃなくて病気……病欠だ」
「テスト当日の小学生じゃないのですから」
「……おめえ、俺がそういう席に出て物の役に立つと思ってるのか?」
「それは……思いません。まったく」
これっぱかしも。
グレイ・アッシュロードさんは非常の人です。
非常の事態にこそ役に立ち、真価を発揮し、他者から求め認められる人です。
この人を平時の親善外交の場に出すなど、人材の無駄遣い……どころか百害あって一利無し。
下手をすると “宣戦布告” と受け取られかねません。
なんといっても、近衛騎士として城勤め三日で上帝陛下のお手討ちになりかけた伝説の持ち主なのですから……。
「統率90、武力91、知力96、政治55、魅力72……ただし一部キャラにはマスクデータとして150」
「……なんだ、そりゃ?」
「某歴史シミュレーションゲーム風に、あなたの能力を表したものです。真田信繁とか姜維 伯約型ですね」
「……へぇ」
生返事を繰り返すアッシュロードさんに、わたしはもう一度、今度は小さくため息を漏らしました。
……確かにそのとおりでしょう。
病気とは言わないまでも、“龍の文鎮” を出たあとのアッシュロードさんは肉体的にも精神的にも疲労困憊でした。
ただただ寝床と寝酒を求めるだけの、老いたグレートデンでした。
わたしたちがリーンガミル聖王国の王都である城塞都市 “リーンガミル” に入ったのは、迷宮から解放されて一ヶ月以上経ってからです。
時空に歪みのある迷宮での、長期間にわたる生活でした。
ズレてしまった外界との時間の整合性を取らなければならなかったのはもちろんですが、徹底的に “みすぼらしく” なってしまった使節団の陣容を整え直す必要があったのです。
失った武具や装備。
痛んでしまった衣装。
燃料やトイレになってしまった馬車。
逃げ散ってしまった馬。
すべて本国から取り寄せなければなりません。
馬鹿げた話だとは思いますが、“大アカシニア神聖統一帝国” の面子に懸けて、目と鼻の先のリーンガミルに援助を求めることはできなかったのです。
人数を減じたとはいえ親善訪問団が元陣容を取り戻すまで、“転移” の呪文を最大限に活用しても一ヶ月以上を要しました。
そのひと月余りは、アッシュロードさんにとって眠りの時間でした。
疲れ切ったこの人に、すぐに王都への入城など出来るものではなかったのです。
岩山 の麓に開かれた新しい拠点での無為の日々は、この人にとって必要な時間だったのです。
ですがそれでもまだ完調とはいいがたく、アッシュロードさんは以前にも増してぐったりしています。
トリニティさんも、その辺りのことがわかっているのでしょう。
普通なら “首に縄をつけてでも” 列席を強要するところなのに、強いて何も言わなかったのですから。
「さっきから何を読んでいるのです?」
「……へぇ」
「……」
バフッ!
「お、おい!」
隣にジャンピング寝そべったわたしに、ようやくアッシュロードさんが書物から顔を上げました。
「へぇ」
生返事を空返事で返されて、ぐうの音も出ないアッシュロードさん。
『……嫁入り前の娘が』
『……俺を信用しすぎだ』
『……俺がその気になったらどうする気だ』
『……卑猥だ』
などとブツブツ零しながら、それでもズリズリと身体をずらしてスペースを空けてくれました。
心配が三周ぐらい遅れています。
わたしはアッシュロードさんと並んで寝そべりながら、開かれていた書物に視線を走らせました。
強力な打撃系武器にだってなりそうな、巨大な革表紙の書物です。
「えっ? これはもしかして……」
描かれていたのは地図でした。
それも正方形をした人造物の。
「ああ、“呪いの大穴” だ」
「やっぱり……すごい、詳細ですね」
広いページいっぱいに精密な地図が描かれ、注意事項がビッシリと書き込まれています。
縄梯子や扉、罠の位置はもちろん、出現する魔物の種類まで。
探索者ギルドで販売している地図よりも、ずっと情報量があります。
「どうしたのです、これ?」
「そこの書棚にあった」
アッシュロードさんの頭が微かに揺れました。
ピローに埋めたままの顎をしゃくったようです。
「そうなのですか。わたしのお部屋にはニルダニスの聖典しかなかったです。いいな、いいな」
食い入るように第一階層の地図を見つめながら、わたしは大いに羨望しました。
「ニルダニスの聖女の言葉かよ」
「わたしは聖女である前に迷宮探索者なのです。迷宮大好き」
「~こっち側にようこそ」
(そういえば……)
書物の中の未知の迷宮を探索しつつ、頭の片隅で思いました。
このお部屋は客室にしては随分と “生活臭” がありますね。
わたしたちのお部屋も同じように豪奢ですが、超高級ホテルのロイヤルスイートといった趣で、快適ですがやはり場違いな思いを覚えます(I am 小市民)。
でもこのお部屋には、つい昨日まで誰か他の人が暮らしていたような気配が残っていて、それが居心地の良さにつながっている気がします。
王城に入る直前まで、
『こんな堅苦しい所は嫌だ。“冒険者の宿” に泊まる』
と駄々を捏ねていたアッシュロードさんが、大人しく収まってるくらいなのですから。
(……個人の趣向まで調べたうえでの “おもてなし” でしょうか? そうだとするならありがたいことですが……)
「“小鬼” に “犬面の獣人” 、それに “バブリースライム” 。“紫衣の魔女の迷宮” とほぼ同じくらいの手強さでしょうか」
“犬面の獣人” がいて “バブリースライム” がいるなら、当然 “骨犬” もいます。
迷宮の掃除屋さんである “バブリースライム” は、なぜか “犬面の獣人” の骨だけが消化できないようで、“犬面の獣人” のいる迷宮には漏れなくセットで……というわけです。
「モンスターレベルは最大で3ですね。やはり “試練場” と大差ない感じです」
「だが “追い剥ぎ” もいるし、レベル1の魔術師 や2の僧侶もいる。致命の一撃や魔法が 駆け出し区域から飛んでくることを考えれば、こっちの方が歯応えがあるだろうよ。特にこの “河馬” なんか――」
「カバ? どうして迷宮にカバがいるのです?」
コンコン、
迷宮にカバなんてそんな河馬な――と思ったとき、高級チーク材のドアに取りつけられている純金製のノッカーが、来訪者を告げました。
「? こんな時間にルームサービスですか?」
「いや頼んだ覚えはねえが――出てくれ」
「よいのですか?」
あなたのお部屋からわたしが出てきたら、マズいのではないでしょうか?
「俺が出て、オメエがベッドに寝ている方がずっとマズい」
「それは確かに」
それはそれで美味しいシチュエーションですが、そもそもわたしたちがこの国に来た理由がそれなのですから、ここで火に油を注ぐのは得策とは言えないでしょう。
「わたしはベッドを出ると、乱れた髪と服装を正しドアに向かいました」
わたしは地の文をセリフにすると、乱れた髪と服装を正しドアに向かいました。
その表現やめろ! 卑猥だ! ――との怒声を聞き流すと、ドアの向こうに伺いを立てます。
「どちら様でしょう?」
返事はありません。
ただの屍のようです。
「むぅ、さてはフェルさんか、ハンナさん。あるいはその両方ですね。今夜はわたしのお当番の日なのに」
その表現やめろ! 卑猥だ! ――との怒声を無視すると、わたしは眉を吊り上げ、肩をいからせ、勢い良くドアを開けました。
「フェルさん、ハンナさん、今夜はわたしがお世話をする番ですよ。淑女協定はちゃんと守ってくだ――」
ですが開け放たれたドアの向こうにいたのは、妖精のような美しさを誇るエルフでも、眉目秀麗な探索者ギルド一の才媛受付嬢さんでもありませんでした。
そこにいたのは “リーンガミル聖王国” の上級メイド服を着た、見知らぬ侍女さんでした。
「夜分に失礼いたします。女王陛下がアッシュロード卿のお見舞いに伺いました。どうぞ卿にお取り次ぎください」
「…………はひ?」







