惑言
「おめえ、息が白くねえぜ」
呆れ顔のアッシュロードの言葉に、ドーラに化けた “変身獣人” ……と同化している異星の生命体は、虚を衝かれた。
異星の生命体―― “妖獣” 自体に知能はないが、寄生している獣人は人間を騙して補食するという特性上、人並み以上の知能を有している。
その知能が投げつけられた言葉を分析し、自身が見破られた原因に行きついたとき、“妖獣” は眼前の個体を絶対に仲間にしなければならないと思った。
ここで取り逃して他の個体に見破る方法を伝えられては、今後 “変身獣人” の能力を活かせなくなる。
「KiSYaaaaーーーーーーーっ!!! おまえ、仲間になれっ!!!」
歯を剥き出しにして “妖獣” がアッシュロードに掴みかかる。
醜く歪んだ顔には、もはや美しい猫人の影はなかった。
「お断りだ!」
そんな冷たい抱擁を受けるアッシュロードではない。
すでに深手を負わせている相手である。
軽いバックステップで躱し、差し出されてきた両手を躊躇なく斬り落とす。
再び耳を覆いたくなる絶叫が、氷結した回廊に反響した。
だがその直後、細く鋭い影が獣人の身体から飛び出し、アッシュロードを襲った。
「テメエ、“妖獣” か!?」
残心を解いていなかったアッシュロードは、不意を打たれることなく針のような触手を斬り払った。
不意を打たれたのは触手による攻撃ではなく、その正体にだ。
そして合点がいった。
人に化ける能力を持つとはいえ、“変身獣人” は生物学的には人間に近しい存在である。
恒温動物であり、酸素を吸って二酸化炭素を排出する。
高い体温で温められた呼気は、寒冷下では白くならなければおかしい。
だからこそ、アッシュロードは靄の中から現れたドーラが偽物だと看破した。
その理由が、これか。
「ギギッ!? なぜだ、なぜ石にならない!?」
驚愕したのは “妖獣” も一緒だった。
シュウシュウと白煙を上げて背中と両手の傷を再生しながら、内心でほくそ笑んでいた “妖獣” が目を剥いた。
触手による攻撃には失敗ったが、変幻自在な針管が斬り飛ばされた際に飛んだ体液が、確かに付着したはずだった。
“妖獣” の体液には、接触した対象を石化する成分が含まれている。
その毒性は非常に強力であり、ほんの少量であったとしても有機物・無機物問わず石にしてしまう。
それなのに、なぜ目の前の個体は平然としているのだ?
「俺はおめえと同じで、特異体質なんだよ――」
沈着さを取り戻したアッシュロードが双剣を振り抜き、勝負は着いた。
驚異的な回復力によって復活する前に、今度こそ “妖獣” の命脈は断たれた。
「……畜生……畜生……」
それでも、なますに刻まれてなお言葉を発しているのは、この世界の生物では考えられない生命力だった。
「おい、おめえらの巣はこの近くにあるのか?」
ダメ元でアッシュロードは訊ねた。
どうせ話半分、眉唾しか吐かないだろうが、情報は情報だ。
真偽を判断するのは、また別の話である。
「……ギギギッ……ああ……あるよ……あるとも……この近くに……ここから北に行ったところにね……」
死相を醜い笑みで歪めて、“妖獣” の残骸が答えた。
「……でも……残念だったね……時間切れさ……」
「時間切れ?」
「……そうさ……一足遅かったのさ……もう手遅れ……もう止められない……おまえたちの世界は……滅ぶ……」
「テメエ、何言ってやがる?」
「……ギギッ、ギギギッ……嘘だと思うのなら……行って……確かめてごらんよ……あたしたちの素晴らしい仕事を……その仕事が終われば……おまえたちは死に絶えて……この世界はあたしらの物さ……」
そして死に瀕した “妖獣” は、耳障りな笑い声を上げた。
「戯れ言だ」
吐き捨てたアッシュロードを無視して、“妖獣” は最期の言葉を漏らした。
「……そう思うなら……還るといい……南に行けば……探していた……帰り路が見つかるよ……」
「なに!?」
「……仲間と一緒に……滅びるがいいさ……」
“妖獣” はグツグツと泡立ち、再生ではなく死滅の白煙を上げて溶け去った。
残ったのは辺りに漂う、鼻が腐り落ちるほどの異臭だけである。
「もうすぐ……世界が滅ぶだと?」
前言撤回だ。
聞くんじゃなかった。
“妖獣” が寄生した相手の知能や能力を奪うのなら、同化したのは獲物を騙して捕食する “変身獣人” である。
騙すことは能力であり本能なのだ。
真実など吐くわけがない。
「馬鹿馬鹿しい」
いいぜ、それなら確かめてやろうじゃねえか。
アッシュロードは漆黒の装甲に覆われた爪先を南に向けた。
南に帰路があるなら、これ幸いというものだ。
だがもしそうなら……それはつまり “妖獣” の言葉が真ということになる。
アッシュロードは立ち止まり、靄に包まれる回廊の北の先を振り返った。
惑言が……迷宮の深奥へと保険屋を誘う。
◆◇◆
ドーラは自分でも戸惑うほどの焦慮に囚われていた。
自制しなければ――と気づいているが、普段のように精神状態を的確に制御できない。
あの男のことだ。
“変身獣人” と同化した “妖獣” に出くわしても、見破るに決まっている。
目の前に自分の偽物が現れても、不覚を取るわけがない。
グレイ・アッシュロードの迷宮での抜け目のなさは魔人のそれであり、街での生活無能力者とはまったくの別人だ。
心配する必要など微塵もない。
しかし、同様に抜け目のなさを自負していた自分が、コロッと騙されたのである。
(――下手を打ったら承知しないよ、アッシュ!)
心中の天秤が信頼と不安の間で激しく揺らぐドーラの目に、それは飛び込んできた。
動揺してはいても、やはり熟練の忍者にして練達の斥候 である。
その観察眼は、他の者ならまず気づかないであろう回廊の極小の差異を見逃さなかった。
「どうした?」
氷結した回廊の壁に駆け寄ったドーラに、三十郎が訊ねた。
「アッシュの伝言だ!」
ドーラが見つけたのは、内壁を覆う氷に刻まれた傷文字だった。
それは彼女たちのパーティ “穏やかな会話” だけが解読できる独自の暗号であり、トリニティ・レインが考案し、アッシュロードが改良した。
「なんて書いてある?」
「戦士への贈り物は葡萄酒よりも林檎酒を」
「なんだそりゃ?」
「“帰路” の隠語だよ」
“読解” の呪文を使われても意味を悟られないように、裏の意味が持たされているのである。
考えたのはもちろん……だ。
「帰路はこっちだ」
「待ちな」
喜悦を浮かべて進み始めたドーラを、三十郎の寂のある声が制す。
「その伝言とやらが嘘を言ってねえって、なぜわかる?」
「なぜって、それは――まさかこの伝言まで “妖獣” の仕業だっていうのかい?」
「おめえの相棒が物の怪に取り憑かれた物の怪に取り憑かれてるなら、それぐらい手の込んだことはするんじゃねえか?」
「用心深い用心棒ってのは頼り甲斐があるけどね――そうなんでも疑って掛かっちゃ、虎の児は得られないよ」
ドーラは苛々した。
すでに人に化ける獣人の存在は認識しているのである。
さっきのように不意を衝かれることはない。
慎重なのも場合によりけりだ。
「まあ、聞きな」
凄腕のくノ一に睨まれても、異邦の浪人者は動じない。
「仮にその言伝がおめえの相棒が書いたもんだったとするぜ。おかしくはねえか?」
「どこだい? なにがだい?」
「帰り路ってのは普通、行きついた先で見つかるもんじゃねえのかい? それを道々書き記していくなんて変じゃねえか」
ドーラは一瞬キョトンとして、それから三十郎の言葉を反芻した。
そして言わんとすることを理解し、押し黙った。
「もしその傷文字がおめえの相棒が残したもんだとして、おめえの相棒は帰り路を見つけたあとここまで戻ってきたことになる――俺がおめえの相棒なら、そんな真似はしねえがな」
三十郎曰く、帰路が見つかったとして、傷文字を残すなら離散地点と帰路の間だ。
それ以外の場所に残せば、却って合流の妨げになる。
最初の取り決めどおり、ドーラは分断地点に戻ろうとするだろう。
アッシュロードもドーラを待つなら、帰路(の始点)ではなくそこだ。
「そしてここは、おめえたちが散けた場所から外れてる」
「……」
ドーラは黙り込んだ。
三十郎の言葉は正鵠を射ている。
「それなら……それなら確かめてみようじゃないかい。この文字をアッシュが残したかどうか。この先に帰り路があるかどうかを」
ドーラの意思は堅い。
たとえ一パーセントでも可能性があるなら確かめる。
確かめないわけにはいかないのだ。
三十郎も、それ以上は何も言わない。
違和感は告げた。
警告もした。
敢えて火中の栗を拾うと言うのなら、それはもう雇い主の勝手次第だ。
そうして猫人の忍者と異邦人の侍は、氷壁の傷文字に導かれるままに回廊を進んだ。
無言で歩を進めることしばし。
果たして傷文字はくノ一の相棒が残したものだった。
階下へ戻るための扉が、確かにふたりの眼前に現れたのだ。
しかしそこに相棒の――アッシュロードの姿はなかった。
「……あの馬鹿っ!」
扉の横に残された最後の傷文字を見て、ドーラが口汚く吐き捨てた。
「なんて書いてある?」
「……魔術師のひとりは紅茶と酒が好き」
「意味は?」
「……先に帰れ」
グレイ・アッシュロードは帰路を見つけたあと、何らかの理由で単身氷の迷宮に引き返したのである。







