靄の中の合流
靄が出てきた。
十字路の北が、手では触れられぬ白い壁に覆われつつあった。
ズンズンと野放図に進んでいた三十郎の足が止まる。
「いつもここから湧いて出やがる。ずっと奥から漂ってきてるみてえなんだが、覗いちゃいねえ」
「賢いね」
ドーラは三十郎の判断を是とした。
濃い靄は視界を塞ぎ、人間型の生き物の戦闘力を著しく減殺する。
目的もなく足を踏み入れるのは、愚者の選択である。
「これは魔法の――妖術の靄だよ。自然に湧いてるもんじゃない」
古強者の迷宮探索者であるドーラは、北から漂ってくる靄の正体を即座に看破した。
不自然に渦巻く靄には、全身の毛がビンビンと逆立つほどの妖気が含まれている。
探索者としての経験と猫の本能が共に、この靄の奥に潜む存在に対してひっきりなしに警報を発していた。
「くわばらくわばら」
飄々とした反応を示すと、三十郎はついと十字路を右に――東に折れた。
異世界からきた浪人者が猫人のくノ一を拐かしたのは、そちらの方角なのだろう。
そして再び、スタスタ、ズンズンと歩いて……は行かなかった。
身体を東を向けたまま、顔だけを北に戻す。
もちろんドーラにも、自分の用心棒が酔狂でそんな振る舞いをしたのでないことはわかっていた。
彼女の小さな三角形の耳も、その音を捉えていたからだ。
白い靄の奥からヒタヒタと近づいてくる跫音。
数は極少ない。
ひとりだ。
三十郎が、ゆっくりと懐手を解く。
左右の手が擦り切れた袖口から覗いたとき、白い靄が人の形に盛り上がった。
強ばっていたドーラの顔がほころぶ。
「――捜したぜ」
靄の中から現れたアッシュロードの顔もほころんでいる。
「無事だったのかい」
「なんとかな――おい、ちょっと見ないうちに男を作ったのか?」
アッシュロードが三十郎を見て微苦笑を浮かべた。
「馬鹿お言いでないよ。こいつは――」
「氷壁三十郎……もうすぐ四十郞だが、妙な縁でこの猫女に雇われた」
仏頂面の用心棒が名乗る。
「あんたと同じ転移者らしくてね。見てのとおり侍なんだけど “真龍” の支配下にはないみたいなのさ。ここでしぶとく生き抜いてきただけあって腕も立つし、階層の構造にも詳しいみたいなんで雇ったのさ」
「そうか。相棒が世話になったな」
アッシュロードがさらに顔をほころばせて、三十郎に歩み寄った。
「いや、袖すり合うもなんとやらだ。酒に釣られただけだ気にするな」
その態度に、ようやく三十郎の緊張も解ける。
無精髭に覆われた精気に溢れる男臭い顔に、愛嬌のある笑顔が浮かんだ。
「それよりもおめえ――」
「? なんだ?」
「いつから人間やめたんだ?」
次の瞬間、アッッシュロードの顔が微笑を含んだまま、首の皮一枚を残して真後ろに倒れた。
水際だった腕前。
抜く手も見せない居合いの業に、マスター忍者のドーラですら指一本動かせない。
ドーラの表情が凍り付く。
時間の止まった猫人の眼前で、首から上を失った彼女の相棒がスローモーションのような動きで倒れた。
チンッ……!
抜き打たれた刀が、澄んだ鍔鳴りの音と共に再び鞘に収まる。
その音がドーラを金縛りの呪縛から解放する。
「――貴様っ!!!」
激高したドーラが曲剣を抜くのも忘れて、無手で襲い――掴みかかった。
忍者は神髄は、徒手空拳での闘法にある。
常態のくノ一であったなら、如何に練達の士であったとしても、いなすことは出来なかったであろう。
しかし今のドーラは違った。
普段の沈着さは欠片もなく、動きは乱雑で隙だらけだった。
その姿は師である老忍者に利き腕を切り落とされ、愛用の “手裏剣” を奪われたあの時そのままであった。
とはいっても並みの遣い手では、素拳の一撃で頭骨を陥没させられていただろう。
だが異邦の剣豪は、達人に比肩する男だった。
飛び掛かってきたドーラの手首をつかむと、後ろ手にねじり上げた。
「放せっ!!! 貴様、殺してやるっ!!!
「おめえは丑年の生まれか? 突っかかる前に落ち着いて目ん玉見開いてみな」
そういって暴れるドーラの顔を身体ごと、凍った床に大の字になっている首無しのアッシュロードに突き付ける。
「いくらおめえの相棒が変わり者でも、死んだあとにああはならねえだろう」
それでもなお暴れようとするドーラの目の前で、首のないアッシュロードの死体がブクブク、グツグツと泡立っていた。
「――」
呆然とするドーラの身体から力が抜けると、背中から三十郎が離れた。
「おめえの相棒が物の怪の類いじゃねえってんなら、頸を刎ねても文句はねえはずだぜ」
「…… “変身獣人”」
それは “シェイプシフター” とも呼ばれる、人の姿を真似る獣人だった。
気づかぬうちに本人と入れ替わり、油断した家族や仲間を襲う魔物。
迷宮では最後尾を行く者が襲われやすく、特にいつの間にか遅れた殿のメンバーが追いついてきたときなどが要注意だと聞く。
「急ぐぜ。グズグズしてるとおめえの相棒、雪だるまになる前に物の怪に喰われちまうかもしれねえ」
用心棒の言葉に、ドーラの背筋に戦慄が走った。







