悲劇
アッシュロードは、自分がこれから悲しい光景を目撃するのだと思った。
心が砕け散ってしまい、それまでの自分ではいられなくなってしまう、耐えがたい光景を目にするのだと。
彼の視線の先には、少年と……少女がいた。
少年は魔術師風のローブを着ていて、少女はまっ白な鎖帷子を身につけていた。
どちらも一七、八の若さに見えた。
少女は倒れていて、少年に抱きかかえられていた。
少女の命の灯火は、今まさに消え去ろうとしていた。
少年は必死に彼女の名前を呼んでいる。
両眼からは涙が溢れ落ち、少女の顔を濡らしていた。
少女は弱々しく、儚げに微笑んだ。
少年は、少女をよく知っていた。
少女は、少年の幼馴染みだった。
ふたりは、一緒に育ってきた。
少女は、不器用な少年がずっと好きだった。
常に人に誤解され敬遠され続けてきた少年が、愛おしくてたまらなかった。
だが少女は、少年以上に不器用だった。
“好きだ” とはどうしても言えなかった。
態度で好意を示し続けてきたが、それは歳の近い姉が弟の面倒を焼いているようにしか見えなかった。
そんな風に気持ちを言葉にできないまま、一〇年の歳月を費やしてしまった。
そしてふたりは他の友人たちと共に、この世界にやってきた。
降り立った王国の統治者の求めに応じ、冒険者となった。
見知らぬ異世界で生きるためには、他に選択の余地がなかった。
少女には剣士としての才能があった。
少年にはなんの才能もなかった。
王国の統治者である王女は、自分と共に迷宮に挑む優秀な冒険者を求めていた。
少女は友人たちと一緒に、王女のパーティに組み込まれた。
友人たちもまた、冒険者としての才能に恵まれていた。
少年だけが違った。
才のない “持たざるもの” が王女とパーティを組めるわけもなく、少年だけが少女や友人たちと別れ、別のパーティを探さなければならなかった。
数年の月日が流れた。
少女は成長し、最精鋭の冒険者を集めた王女のパーティで剣名を謳われる存在になっていた。
幼き頃から習い続けていた剣道の技が、過酷な迷宮で磨かれ開花したのだ。
少年もまた、しぶとく生き残っていた。
王女のパーティとは比べるべくもない三流のパーティで、だがそれでも生き残るために必死に考え、策を巡らし、悪巧みを捻り出しては窮地を脱し続けた。
最低・最弱と蔑まれた少年のパーティは、いつしかエリート部隊である王女のパーティと肩を並べるほどにまでなっていた。
そしてエリートと雑草……ふたつの対照的なパーティが、迷宮の深層で予期せぬ邂逅を果たしたとき、悲劇は起こったのだった。
少年の腕の中で、少女の生は尽きようとしていた。
少女は思い残したくはなかった。
想いを残したまま、逝きたくはなかった。
少女は 初めて “好き” という言葉を口にし、少年に気持ちを伝えた。
少年はうなずき、“自分もだ” と答えかけた。
しかし、その言葉はどうしてか口から出なかった。
好きなはずなのに……少女のことが好きなはずなのに。
それなのに少年は、どうしても “好き” という言葉を口にすることが出来なかった。
少女は悲しげな微笑を浮かべ、そして息絶えた。
蘇生は二度失敗し、少女は消失した。
友人たちは少年を責めた。
少年も自分を責めた。
善良だった少年は “ 悪” に転じ、やがてその存在は迷宮よりも濃い歴史の闇に消えていった。
アッシュロードは見たくもない光景を見せつけられた。
見たくもない、見たこともない光景。
だが彼には、その光景に見覚えがある気がした。
少年にも、少女にも、その友人たちにも、どこか見覚えがある気がした。
いつか見た夢。
目覚めたら忘れてしまうが、何かのおりに思い出す夢。
これも、そんな夢のひとつだろうか。
もしそうなら、早々に目を覚まして再び忘れたかった。
迷宮の臭いが染みついた保険屋の目にも、この情景は救いがなさ過ぎた。
そこには絶望と悲しみしかなかった。
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「……シュ……」
「……アッシュ……」
「――アッシュッ!」
激しく揺り動かされて、アッシュロードは目を覚ました。
「起きな、ぐうたら! 眠ったまま凍っちまいたいのかい!」
相棒の怒声よりも身を切るような寒さに、一瞬でぼやけていた意識の焦点が合う。
たった今まで見ていた悲劇は、忘却の彼方に消え去っていた。
「ここはどこだ? “真龍” は?」
「さあてね。あたしが目を覚ましたときには消えちまってたよ。それよりも火だよ。火を熾さないと死んじまうよ」
状況の確認よりも何よりも、今は先ず火を熾して暖を取らなければアッシュロードもドーラも生きたまま凍りついてしまう。
アッシュロードは背負い袋に詰められるだけ詰めてきた固形燃料を取り出すと、凍りついた玄室の床に積み上げた。
相棒が火を熾している間、ドーラは聖水を使って魔除けの魔方陣を描き、キャンプを張る。
高位の聖職者の祝福が施された水は、この状況下でも凍ることはなかった。
燃料を積み上げたアッシュロードは火口石で火を着けようと試みたが、指先がかじかんでどうにも上手くいかない。
頭にきた彼は “火精” が封じられた水薬をぶっかけて無理やり着火した。
“動き回る海藻” を乾燥・圧縮させた燃料は瞬く間に燃え上がり、蒼氷に覆われた玄室に橙の陰を揺らめかせた。
古強者たちは燃えさかる炎に、身を炙るように近づいた。
冷え切った身体が痛みと共に熱を取り戻していく。
ふたりは人心地つくまで、しばらくその苦痛に耐えなければならなかった。
「……魔道具の効能がなけれりゃ、目覚める前に死んでたね」
「……そうだな」
炎に手をかざしながらポツリと呟いたドーラに、アッシュロードは静かに同意した。
冷気に耐性がある “空の護符”
極寒の中でも常に暖熱を帯びる “炎の杖”
そして所持している者の体力を永続的に回復し続ける “癒しの指輪”
どれかひとつが欠けても、ふたりはこうして会話を交わすことはなかっただろう。
「ここは……元の玄室なのか」
アッシュロードはドーラと同様に火に手をかざしながら、周囲を見渡した。
そこは二×二区画の氷結した玄室で、彼ら以外に動く物はなかった。
「“真龍” はどこにいった?」
「さあてね。溶けて消えちまったんじゃないのかい」
ドーラから投げやりな答えが返ってきたが、アッシュロードは納得しない。
「いや、それは有り得ねえ。あんな馬鹿でかい図体が溶解したのなら、そのエネルギーは莫大だ。近くにいた俺たちが生きてるはずがねえ」
アッシュロードは “真龍” が佇んでいた玄室の中央を見た。
床の氷には解けた様子も、再凍結した痕跡もなかった。
「それじゃ、いったいあのデカ物はどこに行っちまったっていうんだい?」
「……元からいなかったのかもしれねえな」
「幻影か! 馬鹿にしてるね!」
アッシュロードは背後を振り返った。
意識を失っている間に自分たちが移動していないのなら、そこには南の内壁と鉄の扉があるはずだった。
だがあったのは内壁だけで、霜の降りた鉄扉はどこにも見当たらない。
「……一方通行か」
「どうするね? “転移の冠” を使うかね?」
アッシュロードは答えず、玄室に残っている唯一の扉……北の扉を見つめた。







