氷中行軍
レットさんはジッと玄室の東側にある霜の降りた鉄扉を見つめています。
今この時、レットさんの頭にはあの “大長征” の記憶が甦っていることでしょう。
わたしたち “フレッドシップ7” 最大の危機であった大彷徨もまた、今と同じような選択から始まったのです。
このまま先に進むか、それとも引き返すのか。
パーティに残されている余力は、そのまま無自覚の誘惑となって迷宮の奥へと足を向かわせます。
しかし必要以上にリスクを怖れていても、探索は一向にはかどりません。
そもそも迷宮に潜るという行為自体が灰と隣り合わせの作業。
危険は承知の上なのです。
「五層へ降りる縄梯子は、ここからそう遠くなかったはずだな?」
レットさんが扉から、地図係であるパーシャに視線を移しました。
「うん。ここから東に八区画――でも、あくまで “座標” 的にはだよ。途中に壁だの回廊だの玄室だのが当然あるだろうし」
五層から続く縄梯子の座標もまた、アッシュロードさんたちによって確認されています。
わたしたちが登ってきた四層からの縄梯子と同様に、ヴァルレハさんの “転移” の呪文を使って測定したのです。
五層はわたしたち “善” の属性が立ち入れない階層。
逆用すれば、いざという時にその縄梯子を使って拠点へ強制帰還できる――と考えてくれたのです。
「そこを目指す。このまま引き返したとして、次回の探索で今以上の状態でこの玄室を確保できるとは限らない。今が可なら進むべきだ」
レットさんの言葉に、わたしを含めた他のメンバー全員がうなずきます。
次の探索では今よりもさらに消耗するかもしれないのです。
危険を過大に見積もりすぎて、さらに大きな危険を招き寄せるわけにはいきません。
すべての状況を鑑みて、最善と思われる決断を下す。
あとは――賭けです。
「だが今日の目的は、あくまでこの階層の魔物の強さを測ることだ。五層への縄梯子へのルートが遠ければ当然途中で引き返す」
「敵を求めて当てもなくうろつくより、万が一の場合の避難路の確認をしておくのはよいことだわ」
「決まりだな」
フェルさんが納得し、ジグさんがニヤリと笑いました。
「カドモフさん、この盾を使ってください」
わたしは立ち上がったカドモフさんに、自分の盾を差し出しました。
“単眼巨人” の一撃を受け、カドモフさんの盾は砕けてしまっているのです。
「よいのか?」
「後衛にいる以上、あまり使いませんから――フェルさんは殿なので、万が一の場合がありますし」
わたしの盾は “火の七日間” の折にトリニティさんから頂いた魔法の盾です。
木製の大きめの盾よりもやや小振りですが鉄製で頑丈です。
軽量化の魔法が掛けられているので取り回しも楽で、前衛の戦闘にも十分に耐えうるでしょう。
「いざとなれば、わたしには守りの加護があります」
「では借りるとしよう」
カドモフさんはうむりとうなずくと、盾を受け取って左手に持ちました。
「――よし、出発だ」
装備の融通が終わると、レットさんが進発を宣言しました。
暖かい炎の揺らめきとも、またしばらくお別れです。
◆◇◆
猫と蛙と熊は仲良しだ。
今やこの拠点でそのことを知らぬ者はいない。
拠点の人間は、猫と蛙と熊で “三獣士” と呼んでおおむね可愛がり、時に手を焼いている。
今日も今日とて三獣士は、“湖岸拠点” での生活を楽しんでいる。
……。
……楽しんでいる?
「なぁ、熊公。俺様はこれでもイケてるナウな蛙として、あの迷宮じゃマスコット的な立ち位置で、日がな一日フィーバーしてた蛙だぜ。それがスイッチが切れてる間にこんな辺鄙な迷宮にいた挙げ句、今や子守だぜ、子守。まったく情けなくて蛙の面に小便だぜ」
「“蛙の面に小便” なら “まったく意にかえさない” って意味だクマー。意味があべこべなんだクマー」
「けっ、意味なんてどうでもいいんだよ。大事なのはリズムだよ、リズム。語韻ってやつよ。ステップも言葉もつまりはそれが肝なわけよ――けっ、これだからインテリは」
「もううるさいニャッ! 口ではなく手を動かすニャッ!」
「でもよぉ、ノーラ。いくら俺っちの指に水かきがないからって、蛙に針仕事はねーぜ。しかも俺様は生命を吹き込まれた物の中でも、特にパフォーマンスに特化した彫像だ。わかるか? パフォーマーなんだよ、パフォーマー。アーティストなんだよ」
「要は大道芸人クマ……」
「その呼び方はやめろ!」
「パフォーマーだかクレーマーだか知らニャーけど、そのゲーロがなんで迷宮の二階で鍵の番人なんてしてたんニャ?」
「そ、そりゃオメエ、芸術で食ってくってのは容易じゃねえんだ。売れて稼げるようになるまでは、いろいろと苦労があるんだよ」
「それじゃ、これもその苦労のひとつニャ。いいから縫うニャ。最上層は鬼寒い上に魔物が鬼強ニャ。防寒着はすぐにボロボロになって、いくらあっても足りニャーのよ」
「寒さは魔物に勝る驚異クマー」
「オメーはいいよな、寒けりゃ冬眠しちまえばいいんだからよ」
「? 蛙も冬眠するクマ?」
「えっ!? そうなのかっ!?」
「間違いないクマ。蛙は変温動物クマ。寒くなりすぎると死んでしまうクマ」
「……(……し、知らなかった)」
「もういいから口じゃなく手を――」
猫が毛を逆立てて母猫譲りの嵐を吹いたとき、一陣の風が猫の髭を揺らした。
直後、視界の隅――大人たちが “帰還の広場” 呼ぶ場所で眩い閃光が走る。
「ニャーっ!?」「クマーっ!?」「ゲローッ!?」
ビックリたまげてひっくり返った三匹の横を、大人たちが駆けてゆく。
「おい、どうした!?」
真っ先に走り寄ったアッシュドーロが、ぐったりと頽れたエバ・ライスライトを抱え起こして顔をのぞき込んだ。
ふらふらと立ち上がった猫は、その様子を見てギョッとした。
エバだけでなく帰還した六人全員が、霜に塗れてまっ白だったからだ。
エバはうっすらと目蓋を上げると、弱々しく微笑んだ。
「最上層は……白い地獄……」







