魔導理論
――しまった!
そう思ってから、どれくらいの時が経ったのだろうか。
一瞬であったように思えるし、数百年の歳月が過ぎてしまったようにも思える。
トリニティ・レインはそこまで思考して、ようやく自分が自我を取り戻していることに気づいた。
しかし、自我があるだけだ。
周囲には時間も空間もない。
それどころか身体までもがない。
自我だけが虚無に漂っていたのである。
上も下も身体もないというのは、なんとも心細く落ち着かない。
彼女は年齢に不釣り合いな自分の容姿を嫌っていたが、いざなくなってみるとそれはそれで愛着があった。
(……わたしの身体)
その瞬間、トリニティは肉体を伴って存在していた。
(……なるほど、そういうことか)
どうやらこの領域では、心に思い描く=存在することになるらしい。
(しかし、相変わらず子供のような身体だな)
胸の膨らみはまるでなく、下腹部に申し訳程度の薄い恥毛が生えていなければ、本当に子供の裸体である。
誰も見ていないことはわかっているが、やはり全裸では羞恥心が湧く。
トリニティは、いつも身につけている法衣を思い浮かべた。
(これでいい)
一瞬で着衣を終えると、トリニティは満足げにうなずいた。
便利な世界だ。
どうせなら――と、さらに欲張ってみる。
天が現れ、地が現れ、水平線が生まれた。
(よしよし)
さながら創造主の気分だ。
だが、スケールで直線を引いて描いたような天と地では、どうにも味気ない。
色もまっ白で殺風景極まる。
トリニティは思い切って、“王城” の自分の執務室を思い描いてみた。
恐るべき童顔の帝国宰相は、一〇年使っている財務大臣公室に立っていた。
「ふむ、やはり落ち着くな」
思わず独り言ち、自分の声に懐かしさを感じた。
トリニティは自分の背丈に合わせてあつらえた執務椅子に飛び乗ると、腕組みをした。
どうせ誰も見てないのだからと、両足を執務机に投げ出してみる。一度やってみたかったのだ。
なかなかに無頼で気分がいい。
自分が迷宮無頼漢だったことを思い出す。
「……さて」
はたから見るとまるで子供が拗ねているような格好で、トリニティは状況を整理した。
(……どうやらわたしは、とんだドジを踏んだようだな)
アッシュロードやライスライトが持ち帰ったふたつの水晶玉を調べているうちに、愚かにも誤って秘めたる力を解放してしまったらしい。
その結果、自分は死んでしまったようだ。
まったく無様という他はない。
(……しかし妙だな。以前 “緑竜” の竜息で死んだときには、蘇生されるまで意識がなかったはずなのに)
彼女は過去に一度、“死” を体験している。
まだ駆け出しに毛が生えたレベルの頃、“紫衣の魔女の迷宮” の地下四階で “緑竜” の先制攻撃を受け絶命したのだ。
運良く寺院の冷たい寝台で目を覚ますことができたが、その時までの記憶はない。
(……もしや、わたしは “死” ではなく “灰” になったのか?)
消失ではないはずであろう。
消失とは無に帰すことであり、自我が残っているわけがない。
それがこの世界の理だ。
(……だとしても、これまで “灰” から甦った人間にも記憶はなかった。これはいったいどういうことだろう?)
執務机の上に投げ出した小さな両足を見つめて、トリニティは推理する。
(……もしや “死” を介さずにいきなり “灰化” したからか?)
なるほど、そうであるかもしれない。
通常 “灰” は、死んだ人間が蘇生に失敗することで陥る状態である。
強大な蘇生の魔力に肉体が耐えきれず、同容量の灰に変質してしまった状態だ。
だが、自分は “死” を介さずに直接 “灰” となってしまったのではないか?
太陽を直視すると網膜に残映が焼き付くように、秘めたる力の強い魔力で、肉体の死を自覚する前に意識がどこかに焼き付いてしまったのではないか?
トリニティが知る限り、人を灰にしてしまう力を秘めた魔道具は三つ。
そのどれもが聖王都リーンガミルの中心に穿たれた巨大地下迷宮 “呪いの大穴” で発見されたものだが、誤って秘めたる力を解放した人間は全員が消失してしまっていて、蘇生できた者はいなかった。
もし蘇生できていれば、灰と化していた時の記憶を語ったかもしれない。
(どちらにせよ、あのふたつの水晶玉も危険な魔道具の目録に載せなければならないな)
そのためにも、生き返らなければならない。
今ごろ “湖岸拠点” では、自分を蘇生させるためにアッシュロードたちが奔走していることだろう。
このまま待っていれば、ノエルが “魂還” の加護を施してくれるはずだ。
運が良ければ元の場所に戻れるだろう。
だが――。
(それでは芸がないというものだろう。どうにかして、この状態――状況を有効に活用できないだろうか)
トリニティの中で、彼女を名財務大臣としている大きな資質のひとつ、貧乏性がムクムクと頭をもたげてきた。
トリニティは無駄が嫌いであり、合理的で効率的であることを好む。
この点、怠惰であるが故にできるだけ効率的に物事を運びたがるアッシュロードとは馬が合うと言えた。
彼女が二〇年来の盟友と違うところは、無類の働き者という点である。
働き者は、時間を無駄にすることを何よりも嫌う。
(ここで蘇生されるのを待つ手はない。今の自分が意識体として存在するなら時空の概念は無視できるはずだ)
トリニティは自分に言い聞かせることで、現状の分析とこれから採るべき方策を定めていく。
(“転移” の魔法は、肉体を素粒子に分解して重力子として次元回廊に送り込むことで、越次元し別の場所に移動する。生命体であれば肉体と精神は不可分なので、当然意識も同時に転移する)
自然界には四つの力があると言われている。
土・水・火・風……ではない。
・強い力
・弱い力
・電磁気力
そして、
・重力。
――である。
かつて電力と磁力は別の力だと考えられていたが、賢者たちの研究が進み、今では同一の力だと証明されている。
最新の研究では、電磁気力と弱い力も統一できるとされていた。
賢者たちの究極の目標は、四つの力すべてをひとつの力に統一することである。
この世界に存在する力は、すべて同じ力。
それをひとつの魔導方程式として導き出し、証明することこそ、賢者の目標であり夢なのである。
四つの力のうちでも、重力は異質な力だとされていた。
字面から受ける印象と違って、他の力に比べて極めて小さな力なのである。
賢者たちの間では、重力とは “星が物体を引っ張る力” だとされている。
さらに正確にいうと、星の質量によって歪んだ空間の中心に向かって、物体が落ち続けている現象だ。
ピンと張ったシーツに水晶玉を落とすとシーツが沈み込むように、星の質量によって空間が歪んでいるのである。
人も、獣も、木も、岩も、水も――この星に存在するすべての物体は、その歪み向かって落ち続けているのだ。
したがって星の質量が大きいほど、重力は強いとされていた。
空間の中心に発生する歪みが大きくなるからである。
しかし、巨大な星が発生させている重力も、人の足の裏と地面との間に発生している電磁気力の反発に敵わない。
だから人は地中に沈み込んでいかない。
重力とは、それほどまでに微弱な力なのだ。
だが、本当にそうなのであろうか?
賢者たちは疑問を持ち続けていた。
そしてある偉大な賢者が、仮説を立てた。
重力は実は途方もなく大きな力でありながら、その大半が別の次元に拡散してしまっているのではないか――と。
重力は、光と同じように “波” でありながら “粒子” でもある性質を持っている。
重力の大半は素粒子である “重粒子”となって、目には見えない極小の次元回廊の中に零れていってしまっているのではないか――と。
この世界には稀に、“転移者” という異世界からの人間が現れる。
彼らの話を聞くと皆一様に、『光となって色鮮やかな隧道を抜けてきた』と言う。
その光こそが重力なのではないか。
そして長年にわたる賢者たちの不断の努力の末に、仮説はついに立証された。
証明された仮説は理論となり、その理論を元に編み出されたのが “転移” の魔法なのである。
(理論では、“転移” の魔法は時空――時間と空間を越えることが出来るとされている。過去へも未来へも行くことができると。だがこれまで空間は越えても時間を越えた者はいない。なにかしらの強制力が働いて肉体が再構成しないのだ。おそらくは因果律が干渉しているのだろうが……)
「――意識体のみでの “転移” ならどうなのだ?」
トリニティは腕組みを解き、執務机の上に投げ出していた足を下ろした。
そして、淀みなく魔術師系最高位階の呪文を唱え始めた。







