希望
それは確かに高く響く汽笛でした。
一瞬、魔物が襲来して見張りの誰かが呼子笛を吹き鳴らしたのかとも思いましたが、そこまで鋭く甲高くはありません。
もちろん夜霧の港に響く、野太い霧笛でもありません。
それは確かにSLなどが合図として鳴らす、汽笛の音でした。
名作アニメの影響で、この音が響くと蒸気機関車が発車して銀河に向かって駆け上っていく絵が浮かびます。
「め、迷宮に機関車……?」
9と3/4番線ホーム?
いや、いくらここが魔法の存在する世界とはいっても、それは余りにもベタというものです。
となると、一番可能性が高いのはやはり――。
「ボッシュさんです。行ってみましょう」
この拠点でこんな真似が出来るのは、あの “ドラえもん” さんだけです。
わたしは口に手を当ててビックリ仰天状態のアンをうながして、 ボッシュさんの工房に向かいました。
近づくにつれて、熱気が押し寄せてきます。
ボッシュさんの作業場には今や小型の “反射炉” まで建てられていて、その熱で冷たい地底湖の湖岸を温めていました。
炉の周りには、案の定すでに人集りが出来ています。
わたしは掻き分け掻き分け前に出ました。
「ボッシュさん、なんの騒ぎです?」
「ライスライトか。よいところにきた。ちょうど今、試作品が完成したところじゃ」
目の前に現れたわたしに、ボッシュさんが重々しくうなずきました。
筋骨隆々の老ドワーフさんのかたわらには、制作者と同じくらいの縦横比のドラム缶? のような物が置かれていて、湯気を上げています。
「な、なんですか、これ?」
物凄く熱くて、今にも爆発しそうです。
「見てわからぬか。汽缶じゃよ」
「汽缶って――つまり湯沸かし器ですか!?」
「暖房にも使えるがの。じゃが主な用途は、いかにもその通りじゃ」
大山の新雪を置いたような眉や髭が、頼もしげに揺れます。
「ヴァルレハの燃料は石炭並みじゃからの。薪代わり使うだけでは不経済というものよ」
その話なら聞いています。
同じ重さの薪に比べて、ヴァルレハさんの考案した乾燥海藻の燃料は、燃焼時の発熱量がとても高いのだそうです。
薪は言うに及ばず、木炭どころか良質の石炭に匹敵するエネルギーなのだとか。
単に表面が燃えているだけでなく、燃焼して分解される際に発生するガスがさらに強い火力を生んでいるようです。
化学の授業で習いましたが、これは化石化燃料と同じ燃え方です。
ですから、ボッシュさんのいう『石炭並み』という言葉は、説得力があります。
――あ、でも。
「でも材料はどうしたのです? これ鉄ですよね?」
わたしは蒸気を上げている汽缶を見て、ふと疑問に思いました。
反射炉の建材は石(耐熱煉瓦)なので、迷宮でも工夫次第で手に入れることが出来ます。
ボッシュさんによると、“真龍” の住処だけあってこの岩山の岩はとても融点が高いらしく、“恒楯” の加護を施すだけで十分に耐熱煉瓦の代わりになるのだとか。
ですから反射炉自体は、ボッシュさんの知識と技術を持ってすれば、比較的容易に建てることができたのです。
「鉄鉱石が採れたのですか?」
(――あ、でもこの炉でもできるのでしょうか?)
反射炉は質の低い鉄を溶かして、より品質の高い鉄を “精錬” するための設備です。
鉄鉱石を溶かして、そこから鉄をを取り出す “製錬” とは違う作業になります。
この反射炉で、両方の作業ができるのでしょうか?
「この地層から鉄石は採れぬ。材料はおまえたちが迷宮から持ち帰ったなまくらよ」
ボッシュさんが事も無げにいいました。
「へ? なまくら? ――それじゃ、これってもしかして-が付いた武器を溶かして?」
「+が付いた品はもちろん、魔法強化のされてない数打ちでもここでは貴重品じゃからの。鋳つぶすなら、それしかあるまいて」
わたしはうなずきました。
この拠点は、恒常的に魔物の脅威に曝されています。
護衛の近衛騎士とその従士を合わせて六〇〇人以上の戦力があるとはいえ、外界のように損耗した武器や防具を補充することはできません。
日々の手入れを怠らないとはいっても、食料の調達などで魔物を狩れば武器は傷みます。
さらに湿度一〇〇パーセントの環境は、人間だけでなく装備品にも最悪の環境です。
宝箱から得られる武具は今のわたしたちとって、例えそれが数打ち普及であっても大変貴重な品なのです。
「確かに再利用できるなら、粗悪品や呪われた品にも価値が出てきますね」
「じゃが、まだ数が足りん。こいつは試作品だからこの大きさじゃが、実際にはもっとずっとデカくなる。だからできるだけ持ち帰ってくれ」
「その……そんなに大きな汽缶でたくさんお湯を沸かせて、どうするのですか?」
『わかりました』と再びうなずくわたしの横で、アンが控えめな調子で訊ねました。
お湯を沸かせるだけなら竈で十分では? と思ったのでしょう。
「風呂に決まっておるわ。おまえさんだって、いつまでも水風呂では嫌じゃろう」
ボッシュさんの言葉に、アンは『あっ』と両手で口を押さえました。
周りにいる人たち――特に女性からも、大きなどよめきが上がります。
「お、お風呂に入れるのですか?」
わたしの口からも、驚喜の声が漏れました。
共同浴場ができたとはいっても、現在のものは用水路に支流を作り真水を引きこんだだけのものです。
水は冷たく、身体を清めたあとはすぐに近くに焚いている篝火で暖をとらなければ、一発で風邪を引いてしまいます。
冷たい水が嫌な人は浴場を利用せずに、温めたお湯で身体を拭うだけです。
人間の欲望とは果てしないもので、最初は沐浴だけでも大喜びだったのに、慣れてしまった今は、不満とはいかないまでも冷水に肌を浸すたびに熱いお風呂を夢想してしまいます。
「道は常に前に向かって拓くものだ。後ろに向かって拓くことはない」
とても深い言葉です。
長い人生を重ねてきたボッシュさんだからこそいえる言葉でしょう。
「風呂が沸いたら汽笛を鳴らす。毎日決まった時間にな。生活にも張りが出る」
わたしを含めた周りの人々から、尊敬の思いが溢れました。
この人がなぜ “偉大なるボッシュ” と呼ばれるのか、その理由がこの重みなのです。
決して、剣の腕が立ち何でも造れてしまうから――ではないのです。
「わたしたちも仕事をしましょう」
そうして工房に集まっていた人たちは、それぞれの作業に戻っていきました。
環境は厳しく、生活は辛い。
でも、自分たちの前にまだ切り拓ける余地があるのなら、それは希望なのです。







