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迷宮保険  作者: 井上啓二
第四章 岩山の龍
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撤退戦

 “大悪魔(アークデーモン)” は眉を顰めた。

 戦況は圧倒的に彼の側に有利であり、彼を “使徒” と崇める僧侶たちは神敵を殺す興奮と快感に酔いしれている。

 “十字軍(クルセイダーズ)” を名乗る転移者どもは、もうまもなく殲滅されるだろう。


 名前を持つ七二の大悪魔(デビル)の一柱である彼が眉を顰めたのは、よく知る昔なじみの気配が急速に近づいてきたためだ。

 たった今逃げ去った、二匹の虫ケラのような天使とは桁違いに強大な気配。

 彼に匹敵する力を持つかつての同胞(はらから)が、天界から降り立とうとしているのだ。


 “大悪魔” は戸惑った。


 条約を破るつもりだろうか?

 虫ケラのような末弟・末妹が()()()()()ぐらいで、“終末の日” を待たずして戦端を開くつもりか?

 あり得ない……とは言い切れない。

 近づいてくる同胞の性質はよく知っている。

 あの者なら()()()()()()


 少し、挑発が過ぎたか。


 “大悪魔” は気が変わった。

 いまここで戦端を開くのはマズい。

 独断になってしまうし、何よりも今はまだ自分たちの王が目覚めてはいない。

 不利な状況で戦いを挑むのは愚者の選択である。

 理知的な判断を下した “大悪魔” は、ひとまず魔界に還ることにした。

 配下の僧侶たちは打ち捨てていくことになるが、本望であろう。

 聖戦を待つことなく、散々に神敵を打ち殺せたのだから。


 炎のよ(Firey)うな姿(Figure)が一際大きく揺らぎ、地上から消え去る。

 聖と魔、ふたつの光によって照らされていた “暗黒広間” が、本来の姿に戻った。


◆◇◆


 最後の擲弾をつかんだ瞬間、ドーラを突然の盲目が襲った。

 だが物心着く前から、人としての心が消え去るまでに積んだ修練が、猫人族(フェルミス)のくノ一をして恐慌状態に陥ることを防いだ。

 彼女は咄嗟に、背後に続くアッシュロードの手首を握った。

 鼻が利く自分と違い、いくら気配を読むことに長けた熟練者(マスタークラス)の前衛職とはいえ、この火事場でアンザイレンなしは無理だ。


 周囲の邪僧たちから激しい狼狽の声が上がる中、ドーラはアッシュロードの手を引き暗闇を走る。

 転移地点(テレポイント)の座標は、頭に叩き込んである。

 (ピット)の位置もだ。


 真の闇(ダークゾーン)では、集光性の高い猫の瞳も役に立たない。

 代わりに髭、耳、鼻と、それ以外の感覚を総動員してドーラは脱出を計る。

 グズグズしてはいられない。

 間を置かず、この空間に巣くっていた魔物たちが姿を現すだろう。

 闇を払っていた天使と悪魔が去り、常態に戻った広間は奴らの庭だ。

 ねぐらを追い出されて気が立っているところに、噎せ返るほどに充満する血臭が魔物たちの食欲をいやが上にも高め、邪僧たちの勝利の戦場は一転して自身の屠殺場と化す。

 そんな祭りに巻き込まれるわけにはいかない。

 すでに精根尽き果ててしまったのか、アッシュロードはなされるがままに手を引かれている。


(そうそう、そうやって大人しく着いてきな。すぐに優しい聖女さまのところに連れ帰ってやるから)


 そうして胸中の呟きに一抹の嫉妬が混じっていることに気づき、ドーラは狼狽えた。

 目眩に似た転移(テレポート)の不快感が、その動揺を上書きする。



「……無事かい?」


 ワームホールを抜け素粒子からの再構成が終わると、ドーラはアッシュロードを振り返った。

 振り返ったがその姿は見えず、握っている手首もまだ放さない。

 辺りは依然として闇に包まれていたが、自分たち以外の気配はない。

 戦場の狂乱も、邪僧たちの怒号も、濃い血の臭いも、ない。

 ここは広間とは別の暗黒回廊(ダークゾーン)なのだ。


「…………ああ」


 闇の中、全身を悪魔崇拝者たちの返り血で汚しているであろう男が、声を出すのもしんどいといった風に返事をした。


「ここで休ませてやりたいけど、生き残った坊主が何かの拍子に飛んでくるかもしれない。離れた方がいい」


(北か、それとも西か)


 ドーラは思案した。

 北に向かって最上層への縄梯子を昇れば、強制転移よって最短距離で拠点に還ることができる。

 だが途中に存在する連続した玄室群には多数の魔物が巣くっているだろう。

 今のアッシュロードに、これ以上の戦闘を強いるのは酷というものだ。

 ドーラは闇に包まれて見えない、西の扉を開けた。


(……酷だろうがなんだろうが、最短ルートであれば躊躇する理由にはならないんだけどね……あたしもつくづく甘くなったもんだよ)


 扉を開け一歩踏み出すと、ようやく闇が晴れた。

 ドーラはようやく握っていた手首を放し、振り返った。

 案の定、酷い有様のアッシュロードがいた。


「こっちの方がちょっと帰り道は長くなるけど、魔物と出会う可能性が低いからね」


「……」


 アッシュロードは黙然と答えず、やがて呟いた。


「……いったい何がどうなってやがる」


 疲労困憊で立っているのも難儀な状態なのに、頭骨の中身が回転をやめない。

 むしろ、制動装置の壊れた滑車のような勢いで回り続けている。


(……なぜ、あの “大悪魔” は姿を消した? 奴ら――奴は勝っていた。天使側を完全に出し抜き、勝利は目前だったはずだ。それなのになぜ手下を見捨てて姿を消した?)


 据わりが悪い……悪すぎる。

 なぜだ?

 何を見落としている?


 Why? What? Why? What? Why? What? Why? What? Why? What? Why? What? Why? What?


「アッシュ」


「……」


「おい、アッシュ!」


「……」


 パンッ!


「しっかりしな! 頭から煙が出ちまうよ! ここはまだ迷宮だよ! ぶっ壊れるなら拠点に戻ってからにしな!」


 ドーラの平手打ちと鋭い叱咤に、ようやくアッシュロードの脳髄の回転が弱まった。


「あ、ああ……すまねえ」


(……すまないね、もう少しだけ頑張っとくれ)


 胸の内で謝るドーラと我に帰ったアッシュロードは、長く冷たい回廊を東に向かって歩き出した。

 すでに一度歩いている経路である。

 惑うことはない。

 前回はこの先で、無邪気な “熾天使(セラフ)” と別れたのだ。

 回廊は終端で不定形の広間に姿を変えた。

 その一角に、悪魔側の根城である “邪神の神殿” の大門に続く扉がある……。


「あたしたちも魔法を封じられるてるからね。気になるだろうけど、今は無視するよ」


「……わかってる」


 ()()()()()()アッシュロードの声に生気がない。

 いよいよ折れて――焼き切れてしまったのではないかと、ドーラは気が気でなかった。

 だから、古強者のくノ一は帰路を急ぐ。


 不意に、眩い光が前方に出現した。

 剣を握る手をかざして光を遮るドーラ。

 偶然にも、そこはガブリエルが昇天した座標だった。

 ドーラは一瞬、アッシュロードの変調を見て取ったあの熾天使が、再び降りてきたのかと思った。

 だが違った。


 光の中から現れたのは憎悪を剥き出しにした、四翼(四人)の “天使(エンジェルス)” だった。



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― 新着の感想 ―
[一言] ちょっと天使! ちゃんと戦ってよ!
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