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迷宮保険  作者: 井上啓二
プロローグ 線画迷宮
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みすぼらしい男★

 それは最初、耳をすましても聞き取れぬほどの “囁き” でしかなかった。

 冷たく、硬く、広大で空虚な空間に吸い込まれては消える微かな音。

 やがてそれは明瞭な “祈り” へと変わった。

 時に激しく、時に優しく、周辺の大気(エーテル)を震わせる波のうねりのような変調。

 “祈り" はさらに、より強く神の加護を求める “詠唱(祝詞)” へ。

 卑小な人が偉大なる神にただただ求めすがるだけの哀れな嘆願。

 しかし、それ故にその願いは聞き届けられる。

 人がかしずき続けるからこそ、“神” は “神” でいられるのだから。


 そして、嘆願者は “念じ” た!


 “狂気の大君主トレバーン” が 迷宮の深奥に潜む “紫衣の魔女(大魔女アンドリーナ)” の討伐を命じてから二〇年……日々繰り返されてきた光景である。


◆◇◆


 最初に感じたのは、背中の冷たさでした。

 硬く、滑らかで、そして氷のような肌触り。

 自分がすでに目を開けていたことに気づくまで、かなりの時間が必要でした。

 だってそこには闇しかなかったから。


 角灯(ランタン)の明かりを呑み込む回廊の闇。

 何かが潜み、息を殺してこちらをうかがっている玄室の闇。

 迷宮の闇。


 でもそれは高い、とても高い天井の闇でした。

 遠くに聴こえる荘厳なパイプオルガンの音色。

 訪れた者を粛然とさせる厳粛な空気。

 燭台に灯る蜜蝋の臭い。

 磨き上げられた氷のような石の寝台。

 

 わたしはゆるゆると身体を起こしました。

 びっくりするほど筋肉が強ばっていて、骨と筋が音を立てます。

 衣擦れの音がして掛けられていた白いシーツが零れ落ちました。


 露わになる両胸。

 そんなに大きくはないけれど小さくもない、年相応の乳房。

 リンダは奇麗な形だと褒めてくれるけど、自分の方が大きいからこその余裕だと思う。

 ポキポキとした動作で左胸に触ると……。

 

 傷は……ありませんでした。

 確かに短剣が刺さったはずなのに……。


 ここは……どこ?

 どうしてわたしはここにいるの……?

 わたしは、あの迷宮で死んだんじゃなかったの……?


 焦点の定まらない瞳で辺りを見渡すと、寝台の側の長椅子に人が座っていることにようやく気づきました。


 わたしはハッとしてシーツを引き寄せると身体を堅く縮こまらせました。

 胸を隠したかった……と言うより、少しでも身を守りたかったのです。


「だ、誰……?」


 誰何すいかする声は掠れていて、お婆さんのようでした。


 長椅子の人影がゆっくりと立ち上がりました。

 かたわらの燭台に灯っている蜜蝋は1本だけ。

 その仄暗い明かりの中に、その人は現れました。


 背が高く、痩身の男性。

 年齢は四〇才ぐらい……?

 乱れロングといえば聞こえがいい手入れの行き届いていないボサボサの長髪。

 ピンピンと伸びた何日も剃っていないだろう無精髭。

 濃色の短衣の上にやはり濃色の外套(マント)を羽織っていて、薄明の中にまだらに浮かぶそれは、よほど汚れているのでしょう。

 左の腰には短めの剣を帯びています。


 でも何より目を引くのは、まるで “生” を感じさせないその瞳で……。

 一見した印象は “みすぼらしい男” 以外のなにものでもなく……。

 もしかしてこの人は、わたしたちを襲ったあの男たちの仲間……?


「い、いや! 来ないで!」


 わたしは石の寝台の上で無様にひっくり返り、シーツが捲れてお尻が丸見えになるのも構わずに手近な燭台――鋭く尖った――に手を伸ばします。


 聖職者は戒律によって剣や槍のような刃のついた武器は使ってはいけない建前になっていますが、そんなことには頓着していられません。


「保険屋」


 燭台を握ったわたしの背中に、男の人が初めて言葉を漏らしました。


「……え?」


「俺はあんたの保険屋だ」


 恐る恐る振り返ると、覇気の欠片もないくたびれた “三白眼” がわたしを見下ろしていました。


「あんたギルドで探索者登録したときに “うち” と契約しただろう」


 保険屋……?

 契約……?


 そういえば……。


◆◇◆


挿絵(By みてみん)


『迷宮保険……ですか?』


『はい。資金に余裕があるならぜひ加入しておくことをお勧めします』


『……それで、それはどんな保険なのでしょう?』


『すごいですよ。なんといっても万が一迷宮の中でパーティが全滅してしまったときに死体を回収して蘇生してくれるのですから』


『それは……確かにすごいですね』


『そうですよね! すごいですよね! オススメはこの “灰の道保険” です! 腕の立つ元迷宮探索者が保険の引受人をしていて、掛け金もリーズナブルですし、わたしの一押しです! ぜひぜひ加入することをお勧めします!』


◆◇◆


 “ぜひ” と “お勧め” ……を連呼する受付嬢さんに圧倒されて、よく分からないまま契約してしまった記憶が……。

 他のみんなに聞いたら、そんなの詐欺まがいのいかがわしい勧誘に決まってるって笑われて……。


 ――! 他のみんな!?


「他のみんなは!? わたしの友だちはどうなりましたか!?」


 わたしは唐突にみんなのことを、パーティを組んでいた友だちのことを思い出しました。

 今の今まで忘れていたなんて信じられない!


「他のみんな?」


「パーティを組んでいたわたしの仲間です!」


 怪訝な顔をする保険屋さんに、噛みつくように訊ねます。


「さあな」


「さあな――って、助けてくれなかったのですか!?」


 怒りと混乱で掴みかかったわたしを、保険屋さんは不思議な生き物をみるように見つめました。


「俺が契約したのはあんただけだ」


「で、でも! みんな、わたしと同じ場所にいたはずです! それなのになんで――!」


 契約していたのはわたしだけかもしれないけど!

 でも、普通だったら助けるでしょう!

 それが人というものでしょう!


 ボリボリ……と頭を掻く保険屋さん。

 フケが舞い散ります。


「ただで死体を回収してくれる “保険屋” なんて、たとえ “(グッド)” の連中でもいないぞ。まして俺の属性は “(イビル)” だ。あんた、どんだけ人に無茶ぶりしてるかわかってるのか?」


「で、でも!」


「他人のことよりも自分のことを心配しろ。ちゃんと返して貰えるんだろうな、蘇生費用」


 子供の相手はここまでだ――と言わんばかりに、保険屋さんがピシャリと言い放ちました。


「レベル1の人間の蘇生費用が迷宮金貨 250枚。回収費用も同じ。しめて500 D.G.P.ダンジョン・ゴールド・ポイント 契約どおり一ヶ月以内に払ってくれよ。払えない場合は借金奴隷だぞ」


「……あ」


「うちはこれでも “良心的な保険屋” で通ってる。ひと月500 D.G.P. は駆け出しの探索者でもなんとか稼げる額だ。回復役(ヒーラー)のあんたなら新しい仲間を見つけるのもそう難しくはないだろう。装備は……まぁ、その仲間から借金して買うんだな」


 嘆息混じりに言うと、


「一ヶ月後に集金にくる。今度は死なない程度に頑張りな」


 保険屋さんはわたしに背を向けました。

 それから歩き出しかけてまた立ち止まり、


「もっとも、死んだらまた回収して生き返らせるだけだけどな。そうなるとまた借金が膨らむ。これが金を返し終わるか、 消失(ロスト)するまで続くわけだ――ようこそ(Welcome to) “狂君主(Proving)トレバ(Grounds )ーンの試練(of the Mad)場”へ( Overlord)


 ……ゾクッ、


 お金を返し終わるまで死ぬことすらできない。

 そして返せなければ、借金奴隷になるしかない。

 解放されるには期日までに借金を返すか、消失するしかない。


 そんなの酷すぎる。

 そんなの理不尽すぎる。

 わたしは何も悪いことなんてしてないのに。

 どうして、どうしてこんなことに。


「まって……まってください」


 顔をうつむかせて、視線を保険屋さんの背中から逸らしたまま彼を呼び止めます。


「お願いします……わたしを……わたしたちを助けてください」


 保険屋さんが振り返り、わたしは再び顔を上げました。


「お願いします! わたしたちを助けてください! 他のみんなを――友だちを助けてください!」


「俺の言ったことが聞こえてなかったのか、エバ・ライスライト。身ぐるみ剥がされた文無しのあんたには――」


「わたしを売ります! わたしの本当の名前は『枝葉(えば) 瑞穂(みずほ)』! “聖女” の恩寵を持つ、あなたたちの言うところの “転移者” です!」


 わたしは胸に掌を叩きつけて、保険屋さんを睨みました。



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― 新着の感想 ―
[一言] 3話まで読みました。 もしかしてワードナー君が作った迷宮が舞台ですか? 初心者全滅あるあるですね。雰囲気は出ていていい感じです。 私は戦*2僧*2魔*2で組んでました。 そっちのほうが死にに…
[良い点] エバ・ライスライト→枝葉《えば》 瑞光《ライト》 稲穂《ライス》 成る程と唸ってしまった。流石だなぁ… あとやはり筆力がとてつもないです [気になる点] あれ、WizってLAWーCHAOS…
2023/07/03 10:27 退会済み
管理
[一言]  凄く読みやすくて面白い!  初めての魔物に対峙し、どれだけ準備し覚悟していてもいざその時となると心も身体も思うように動かない。『恐怖』という文字に支配されて動けなくなる。一人称で語られる文…
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