バランスブレイカー
「その先は別の場所につながっているわ」
いくつ目かの “狂気のアヴドゥル” の残り香の近くで、不意にガブリエルが立ち止まった。
先を行くドーラとアッシュロードも足を止める。
「確かか?」
「間違いなくてよ。ゆっくり近づいてみて」
熾天使に言われるまま、慎重に歩を進めるふたりの古強者。
進むにつれて広大な地下空間に、一×一区画の暗黒回廊がポッカリと現れた。
この大広間の暗黒回廊は、すべてガブリエルによって無効化されている。
今見えているのは転移先の暗黒回廊なのだろう。
壁や扉の位置を記憶してマッピングする、いわゆる “地文航法” を狂わすために、転移地点ではこうして転移先の光景が見えるのである。
「なるほどね……こりゃ確かに転移地点だわ」
ドーラが嘆息したのは、暗黒回廊のど真ん中に他の暗黒回廊への転移地点を設置した迷宮支配者の悪辣さに対してか、それともそんな悪辣な迷宮を事もなげに無力化してしまう “熾天使” の力を思ってか。
「おめえ……凄えな」
アッシュロードも、気の置けない人間にしか漏らさない “べらんめえ調” が思わず漏れてしまう。
「おめえひとりで、この迷宮は片がつきそうだ」
「~ほんとだよ。このまま家に持って帰りたいぐらいだ」
パムッ、
「まあ、それは “堕天” の誘惑? でもしばらく地上で暮らしてみるのも楽しそうね。考えてみるわ」
((……本気にすんな))
「それでどうするの? この先に進むの? 進まないの?」
「もちろん進むさね――アッシュ?」
「――ああ、いいぜ」
アッシュロードは腰の雑嚢から地図を取り出すと、転移地点の座標を手早く描き込み、再びしまい込んだ。
これでこの大広間のマッピングは完成だ。
「南から入ってくれ。北を向いていた方がいろいろと把握しやすい」
転移地点は、侵入したままの方角・方向で再出現させる。
地図係は、常に北を基準に地図を描く。
北は絶対固定であり、地図上で動き回るのは常に探索者の方でなければならない。
地図をぐるぐるさせるのは、迷宮音痴のすることだ。
「了解――ほいじゃ、行くよ」
ドーラが得物を得手に、暗黒回廊の中に踏み込む。
アッシュロード、ガブリエルと続き、ガブリエルが転移を終えると彼女の背光によって闇が払われた。
案の定そこは一×一区画の玄室で、北と東に扉があった。
ガブリエルがいなければ暗闇のままで、広間の続きと思っただろう。
「ガブ」
「なぁに?」
「“座標” の呪文は使えるか? 使えるなら頼む」
「よいでしょう」
魔法封じの間に足を踏み入れてしまった以上、この階層から出ない限り、アッシュロードは自身の加護は無論のこと、魔道具の魔法も使えない。
ここはガブに働いてもらうよりほかはない。
ドーラがジト目で見ていた。
「ガブねぇ」
「なんだよ」
「いやいや、聖女様やエルフやギルドのお嬢がなんて言うかと思ってね」
「……嫌味はよせ」
「“E5、N7” にいるわ」
アッシュロードはすぐに地図を開いた。
「――ここだ」
厚手の黒革のグローブに包まれた指先で、トンッと地図の一角を叩く。
そこは “暗黒の大広間” から、わずかに一区画だけ北の座標だった。
「北の扉は未踏破区画に続いてる。東の扉は例の “十字形” の玄室の手前に戻れる」
魔法を封じられているアッシュロードとドーラである。
普通なら東の扉の一択だろう。
だが、今はガブリエルがいる。
最高位階の呪文も加護も、この天使な脳天気にとっては児戯に等しい。
一番手加減して “対滅” をぶっ放すレベルである。
次回の探索以降も、この物好きな守護天使の助けを得られる保証はなく、もう一度あの “暗黒の大広間” を抜けてくる気鬱を思えば、ここで北に向かい探索を済ませてしまうのも今回に限っていえばあり……かもしれない。
アッシュロードとドーラは顔を見合わせた。
この辺りの呼吸は、聖女やエルフやギルドのお嬢が見たら、嫉妬で真っ赤になる熟年夫婦ぶりだ。
「……誘惑を感じるな」
「……ビンビンにね」
迷宮探索者が信じるのは、己の力量――唯一それのみである。
迷宮でそれ以外の力に頼ったとき、待っているのは破滅の二文字だ。
北に向かったはいいが、ガブリエルがいきなり “お帰り召されない” とは限らないのである。
のであるが……。
「北に行くのかしら? それとも東?」
「「……北だ」」
嘆息を通り越して慨嘆する、ふたりの古強者。
次回に探索を持ち越したとしても、どちらにせよ魔法は封じられてしまうのだ。
トリニティかヴァルレハをパーティに入れて “転移” の呪文で魔法封じの間を飛び越えるという手もあるが……。
トリニティは指導者として拠点を離れるわけにはいかず、ヴァルレハは他のパーティの一員(それも “善” の)だ。水汲み程度ならいざ知らず、危険極まる未踏の迷宮探索に、おいそれと借りるわけにはいかない。下手をしたらどうにか治まっている拠点の人間関係に、深刻な不協和音をもたらしてしまう。
面倒には他人を巻き込まないのが、世慣れた大人というものだ……。
パムッ、
「よいわ、行きましょう!」
ふたりの擦れた大人とひとりの無邪気な天使は、北の扉を開けて未知の区画に乗り出した。
扉を出ると、北に向かって真っ直ぐに回廊が続いている。
ドーラ、アッシュロード、ガブリエルの順で進んでいくと、五区画先の終端西に扉がひとつあった。
「「ガブ?」」
「大丈夫。扉の向こうには何もいないわ」
西の扉の奥は、一×一の最小の玄室が無数に並んでいる区域だった。
そこからは扉を開けるたびにかなりの頻度で遭遇戦が発生したが、人間相手なら絶対に逃亡しない “伝説の怪鳥 ” や “禿鷲” が、ガブリエルの姿を見るなり算を乱して逃げ出した。
“真龍” の眷属である “東方龍” すら恭しく頭を垂れて消え去る姿は、もはや圧巻というほかはない。
「ここはちょっと違うね」
一×一の玄室が続いていた中、その玄室だけが一×二の玄室だった。
三人が入ってきた西の扉と向かい合って、反対側の東にも扉がある。
「――」
「どうしたんだい、ガブ?」
「……あの扉から強い “風の加護” を感じる」
東の扉を見つめて、ガブリエルが呟く。
「“風の加護” ?」
「そういうことか――ありゃ、俺たちが吹き飛ばされた “突風の扉” だ」
地図を確認したアッシュロードが言った。
「ここはあの “十字形の玄室” のちょうど西側だ」
「なぁるほどねぇ、なにかしらのキーアイテムがあれば、あの煩わしい “暗黒広間” を迂回できるってわけかい」
ドーラは艶やかな和毛に覆われた顎に手を当て、ふむりと納得してみせた。
「暗黒回廊に魔法封じの間で守ってるだけでなく、キーアイテムが必要な迂回路まであるとなれば、この先にあるのは大概検討がつくさね」
果たして猫人のくノ一の予想は正しかった。
無数に連なる玄室群の最奥には、最上層へと続く縄梯子が垂れていたのである。







