拠点模様②
地底湖の水打ち際から、若い娘たちの歓声が響いている。
そこは水汲み場として使われている見通しの良い岸辺だったが、常に周囲を警邏している近衛騎士たちには声は聞こえど姿は見えない。
“暗黒” の呪文が、彼らの視界を遮っているからだ。
もちろん剣に名誉の誓いを立てた騎士たちである。
ご婦人の沐浴を覗き見るような破廉恥な真似は、決してしないと断言できる。
だが……気にならないと言ったら、これもまた嘘になる。
ならぬものはならぬもの、されど気になるものは気になるもの。
騎士たちには若い者も多く、妻帯していない者も多い。
いや妻帯していたとしても、愛妻は遠く帝都 “大アカシニア” の空の下だ。
娘たちの多くは訪問団の中核である使節たちの侍女(私費で雇われたメイド)で、近づいて来た騎士たちに気づくと丁寧にお辞儀をして暗幕に内側に消えたが、その表情は蠱惑的だった。
女官(帝国に直接仕えている者)の身分にある者はもっと露骨に、自信に溢れた態度で手を振り、まるで町娘のように騎士たちの気を引いた。
若い娘たちの興味の中心にあるのは、いつだって素敵な殿方だ。
まして男女比9:1の迷宮では、圧倒的に彼女たちの売り手市場なのである。
厳しい生活環境が続く中、若い娘たちが素敵な出会いを夢想したとしても、それもまた “希望” というものだろう。
裸になれば、自然と開放的になる。
娘たちは沐浴をしながら、お目当ての殿方の話に花を咲かせた。
その多くは磨き上げられた鎧をまとった若い騎士たちであったが、中にはその騎士らに仕える従士の名前を挙げる娘もいた。
さらには――。
「――ねぇ、パーシャ。あなたのパーティの盗賊。彼ってちょっと素敵じゃない?」
「ふあっ?」
穏やかに打ち寄せる淡水に座り込んで、頭をわしゃわしゃと洗っていたパーシャから、思わず変な声が出た。
「ジグのこと? ジグリッド・スタンフィード?」
「そうそう、その彼。彼、なかなか素敵よね。少し話したことがあるけど話上手だし」
平民出の侍女が、開けっぴろげな口調で言った。
細身のくせに、やたらと胸だけが豊満な娘である。
「うへぇ……やめときなよ。あいつ女ったらしだよ。前にいたパーティなんか、女の探索者があいつを取り合って、迷宮に潜る前に解散したぐらいなんだから」
「あら、いいじゃない。そういう武勇伝がある方が自慢になるわ」
「わたしはリーダーの戦士の方が好みかな。彼って恋人いるの?」
「あ~……レットはやめといた方がいい、絶対。手なんか出したら “真っ二つ” にされるよ」
パーシャは、彼女のパーティのリーダーが付き合っている緋色の髪の女戦士が、その髪の色同様に激しい気性の持ち主であることを知っている。
そしてそれ以上に、嫉妬深い性格なのではないかとも思っている。
なぜなら、レットが何かの折にエバ・ライスライトを気遣う仕草を見せたとき、たまたま側にいた女戦士の表情が赫怒に歪んでいたからだ。
その様子に、パーシャは背筋を凍りつかせた。
あれは見てはいけない表情だったと、今でも思っている。
「もう誰かと付き合ってるの? ――まさか聖女さま!?」
「え~っ、違うでしょう。だって聖女さまは “灰の暗黒卿”の借金奴隷なのよ?」
「それ、ほんと酷いわよね――聖女様、土下座までさせられたんでしょ?」
「違う違う、聖女さまは自ら進んで暗黒卿の奴隷になったのよ。御身を犠牲にして、闇に堕ちた暗黒卿の魂を救おうとなさってるの」
「ああ、なんてお優しいのかしら。本当に聖女だわ」
「……」
パーシャとしては、微妙に訂正しにくい雰囲気である。
確かに聖女は自ら進んで暗黒卿の奴隷になったわけで、侍女や女官たちの理解は大筋において正しい。
(ま、まぁ、聖女なんてものは美化されるものだし、暗黒卿ともなれば逆に貶められるものだよね……うん、問題ない。問題ない)
結局パーシャは説明の困難さに億劫になってしまい、訂正することなく聞き流した。
アッシュロードの悪評は、こうして広まっていくのである。
普段の行いの差だ。仕方ない。自業自得。身から出た錆だ。
ではあるのだが……。
知らぬ仲ではないので、パーシャは少しだけ気の毒になった。
あくまで……少しだけ。
とにかく娘たちははしゃぎ、騒々しいほどに恋を語っている。
エバは言っていた。
“女性が元気な社会は活力に充ちている” ――と。
ならば、この拠点はまだまだ大丈夫のはずだ。
再び頭をわしゃわしゃ洗いながら、パーシャは思った。
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パーシャがわしゃわしゃと頭を洗っていた水辺から三区画ほど離れた場所で、カドモフが黙然と腕組みをしていた。
視線は五メートルほど先の地面――結露した迷宮の硬い岩盤に注がれている。
水打ち際からは若い娘たちの歓声が響いてくるが、カドモフの意識には届かない。
彼は氏族どころか種族の英雄である “偉大なるボッシュ” から、ある仕事を任されていた。
それは今日の午後にでも運用が始まる上水路の下流に、大規模な “洗濯場” を造ることだった。
いちいち水辺まで行くことなく、拠点の中で衣類を洗える場所。
常に近衛騎士の分隊が巡回警備しているとはいっても、魔物溢れる迷宮の一角を占める地底湖である。危険がないとは言い切れない。
炊事・洗濯・入浴・排泄――すべてを拠点内で完結できるようにするのが、トリニティの立案した都市計画に沿って設計を担当する、ボッシュの目指すところだった。
上水路が完成次第、ボッシュ自身はより本格的な浴場の建設に取りかかる。
水路の下流に支流を掘り、淡水を浴場へと引きこむ。
現在の浴場は、地面に重臣用の箱馬車の箱を置いただけの “間に合わせ”に過ぎず、狭いうえに早晩湿気で駄目になるは目に見えていた。
ボッシュは、最低でも二〇人が同時に入浴できる規模を考えているようだった。
もちろん周囲を、切り出した石で壁を造って囲う。
完成すれば、娘たちも危険な岸辺でわざわざ沐浴する必要がなくなる。
カドモフの頭には、すでに綿密な設計図が引かれていた。
基本的には、ボッシュと大浴場と同じである。
支流を掘り、上水路から水を引きこむ。
汚水は別の水路で地底湖に流す。
視線の先の岩盤には、頭の中の設計図に則ったカドモフにしか見えない線が走っている。
あとはその線にそって、掘り進めるだけである。
カドモフは足元に置いてあった “つるはし” を手に取った。
磨き上げられた鋼鉄製の頭に、長大な乾燥樫の柄。
ボッシュの愛用する全ミスリル製の品には及ぶべくもないが、鋼鉄のバチツルは鋭く、乾燥に二〇~三〇年の年月をかけた樫の柄は一〇〇年は持つ高い耐久性を誇る。
この質実剛健さに、若きドワーフは友情に似た愛着を感じていた。
「――ぬんっ!」
カドモフが魂魄を込めてマトックを振り下ろすと、硬い岩盤は軟土のように突き崩れた。







