毛糸玉
進むべきは西か、それとも東か。
まったくの未踏破区画である西に踏み出すのか。
それとも東に戻るのか。
西に向かえば、感覚的には縄梯子から遠ざかることになります。
しかし東に引き返したところで、ゴブリンの集団と出くわすかもしれません。
どちらにせよ縄梯子の位置が分からないのですから、丹念に地図を作ってもう一度見つけ出すしかありません。
今度こそ、間違いはゆるされません。
レットさんの表情には逡巡が見て取れます。
自分の判断力に疑問を抱いてしまっている様子です。
この事態を招いてしまった責任を必要以上に感じているのでしょう。
これまで培ってきたリーダーとしての自信が揺らいでしまったのです。
例えその場その場の判断が正しかったとしても、より大きな目に見えない潮流を見誤ってしまった……。
これはレットさんのリーダーとしての資質や、探索者としてのレベルが劣っていたせい……ではありません。
迷宮に漂っている “運気の変化” を嗅ぎ取る嗅覚。
塵よりも微細な危険が徐々に積もっていく重みを感じ取れるようになるには、気の遠くなるような年月、迷宮の空気に肌をさらす必要があるのです。
レットさんには……わたしたちには、まだその年月が、経験が足りなかったのです。
揺らいだ自信は迷いを生み、迷いはますます判断を曇らせる。
話し合いはしますが、最終的な決断はリーダーであるレットさんが下すのが、わたしたち “フレンドシップ7” です。
今ここでその形を崩せば、レットさんのリーダーとしての自信を本当に砕いてしまうかもしれません。
そうなれば、これから始まる脱出行は “死の彷徨” になってしまうでしょう。
ここは死と――灰と隣り合わせの地下迷宮。
何か起こる度に、その都度話し合っている余裕なんてありません。
ここで生き残るには、リーダーが状況に応じて的確に決断していくしかないのです。
みんなもそれが分かっているから、何も言わずレットさんの判断を待っているのです。
辛くても、苦しくても、レットさんにはここで決断してもらい、迷いを断ち切って立ち直ってもらわなければならないのです。
そして、レットさんが顔を上げました。
「――西に行く」
表情は硬く厳しく、ですが迷いはありません。
「東に戻れば “オーク” の大軍に出くわすかもしれない。今の俺たちの状況では突破は無理だ」
他の五人がうなずき、立ち上がります。
下ろしていた背嚢を背負い、武器を吊るし、盾を持ちます。
信頼する自分たちのリーダーが下した決断です。
否やのあるはずがありません。
「――レット、あなたの判断、正しかったみたいよ」
いざ出発となったその時、なぜか東の扉を見つめていたフェルさんが、振り返るなり鋭く言いました。
「ゴブリンよ。物凄い数だわ。おそらく二〇――いえ、三〇匹はいる。距離は約五区画」
他種族を遙かに超えるエルフの聴力が、頑丈な扉や厚い内壁を透して、近づいてくいる無数の跫音を捉えたのです。
「ほんと、騒々しい奴ら。“偉大なるボッシュ” のマトックの方が、まだ静かだわ」
それはまた……さぞかし騒々しいことでしょう。
「かえって好都合だ。フェルは殿で出来るだけ奴らの動きを探ってくれ――行くぞ」
レットさんが出発を宣言し、ジグさんを先頭にいつもの隊列順で北西の扉を潜りました。
そこも、たった今いた玄室と同じ構造の玄室でした。
一瞬、転移地点で出発点に戻されてしまったような錯覚を起します。
二階もそうでしたが、この迷宮は本当に探索する人間を眩惑してきます。
しかも、こういった狭苦しい構造は魔物がねぐらにしやすく――。
「――敵だ!」
斥候を兼ねるジグさんからの警告!
言ってる側からの、いきなりの遭遇戦です!
「やるぞ!」
「「「「「了解!」」」」」
それからわたしたちは、追ってくるゴブリンたちの跫音に追い立てられながら、まるで毛糸の玉のように複雑に組み合わさる “魔物のねぐら” を、ひとつずつ突破していきました。
通過した玄室は一二。うち魔物が巣くっていたのが六。
ちょうど半分です。
呪文も加護も節約しながらの戦闘は、一歩間違えば壊滅的な被害をパーティにもたらす、神経を削られる戦いです。
「――ち、畜生!」
一二室目のねぐらの掃討を終えたあと、地図を確認したパーシャが口汚く罵りました。
そこは “くの字形” の三区画構造の玄室で、南と東に扉があり、わたしたちは南から侵入してきたのです。
「ど、どうしたの?」
「ここは始点にした玄室の南東だよ! あたいたちは西に行ったつもりが、反時計回りに東に戻ってきちゃったんだ!」
「そ、それじゃ」
「東の扉を開けたら、ゴブリンの縄張りに戻っちゃう!」
地団駄を踏むパーシャを、他の全員が呆然と見つめます。
ここに辿り着くまで玄室は無数に連なっていましたが、常に入口と出口はひとつだけの一本道でした。
わたしたちは、ただ駆け抜けてきただけだったのです……どこにも出て行けない、毛糸玉のように中心に向かって丸く固まっている一本道を……。
「……つまり、西に行っても東に行っても、結局は同じだったっていうわけか」
ポツリと漏らしたジグさんの声が、とても遠くに聞こえます。
(迷宮が……明確な悪意をもって殺しにきている……)
わたしは……思わざるを得ませんでした。
空元気が萎んで……希望が絶望に侵食されていきます。
「――いや、同じじゃない」
レットさんが毅然と言い放ちました。
「少なくとも俺たちはゴブリンども引き摺り回して、複雑な玄室群に誘い込んだ。最初から東に行ったよりも、奴らは手薄になっているはずだ――フェル」
「な、なに?」
「東にゴブリンどもの気配はするか?」
レットさんの言葉に、フェルさんが目を閉じて聴力に神経を集中します。
「――いえ、レット。しないわ。あなたの言うとおり、奴らはまだわたしたちが突破してきた玄室群にいる」
「よし、小鬼の居ぬ間なんとやらだ。今のうちに東に抜けるぞ」
わたしたちの力強いリーダーが戻ってきました。
レットさんの言葉が、全員に勇気を甦らせます。
「フェルの言うとおりだ――扉の奥に気配はねえ。行けるぜ」
東の扉に耳を当てていたジグさんが、安全を確認しました。
全員が頷き合い、わたしたちは東の扉を開けました。
扉を開けると、そこは二×二区画のこの階層には珍しい正方形の玄室でした。
(……あれ? 既視感が)
二×二の玄室……それまでの迷宮とは違う構造……。
そんな思いが頭をよぎった次の瞬間、
「――誰だ!?」
ジグさんが叫び、全員が武器を手に身構えました。
なんの気配も感じなかったにも関わらず、いつの間にか目の前に、頭にターバンを巻いた親切そうな砂漠の民が立っていました。







