人外(NPC)
大慌てで、パーシャが地図を丸めて懐にしまい込みます。
魔術師が着るローブの内側には大小の衣嚢がいくつもあって、呪文の触媒などをしまえるのです。
“アレクサンデル・タグマン” さんの事件の際、アッシュロードさんが腰の雑嚢ごと地図を燃やされてしまったので、以来パーシャは何よりも大切な地図をここにしまっているのでした。
(……たしかに見事な地図です)
わたしは戦棍と盾を構え、フェルさんが魔物の接近を察知した回廊の先を凝視しました。
無数の蛇がのたくり絡み合っているようなこの複雑な階層を、“座標” の呪文をほとんど使わずにマッピングしたのです。
パーシャの地図係としての技量は、水準を大きく上回るでしょう。
(……でもだからこそ、わたしたちはこんな奥にまで入り込んでしまったと言えます)
順調に地図が描けているから、先へ先へと進んでしまう。
この先に帰路があるのでは――という期待があるから、先を急いでしまう。
もしパーシャが、自分の描いた地図に少しでも不安を抱いたのたら、途中で引き返すという選択が採れていたかもしれません。
でも地図は完璧でした。
途中で遭遇した魔物たちも、最少の消耗ですべて撃退しました。
地図の作成も戦闘も順調だったが故の、心理的な穽計に嵌ってしまったのです。
レッドさんを皮切りに、ジグさんが縄梯子登っていきます。
次はわたしの番です。
腰のベルトに戦棍を吊るして盾を背負うと、わたしは縄梯子を登り始めました。
そしてパーシャ、フェルさんと続き、重装備のカドモフさんが殿を守ります。
(……流れを変えないと)
見上げると、天井にポッカリと空いた暗い穴が、さらなる上層へとわたしたちを誘っています。
◆◇◆
四箱目(五枚目の壁の内側)に現われた “耄碌気味の老修道士” と別れたアッシュロードとドーラは、その後も広大な空間に箱を被せ続けた。
相変わらず、元からあった内壁に沿って北か東に一区画進む度に、背後に新たな壁が出現する。
その都度、箱を被せる面積が大きくなるため、出現する壁の長さも長大になっていく。
現われた壁沿いに淡々と探索していく作業は、まるで迷宮という画布に繰り返される単調な塗り絵である。
魔物すらこんな場所をうろつく趣味はないらしく、遭遇戦も発生しない。
ハクスラの場として、近郊の “リーンガミル市” の冒険者たちから不評なのもむべなるかなの退屈さで、一〇箱目と一三箱目にあった一階縄梯子付近へ戻される転移地点さえも、よい気分転換だった。
変化は、転移地点があった一三箱目に現われた。
前方にこれまで視界に入らなかった、“迷宮然” とした別の内壁が見えてきたのである。
ひとまず北に向かってみると、いかにもな警告が書かれた立て札が三区画続けて立てられていた。
アッシュロードとドーラは、肩を竦めて引き返した。
これ以上先に進むのは、この階層を全て調べ終え、何の手掛かりも見つからなかったときだ。
この手の立て札は、探索者の好奇心を利用した単純な罠であることが多く、無視してしまってもかまわなかった。
引っ掛かるのは、よほどの間抜けか駆け出し、あるいは迷宮の全てに足跡を残さなければ気が済まない、重度のマッピング中毒者だけだ。
「――さて、どうやらここからが本番らしいね」
ようやく “迷宮然 “とした区画に足を踏み入れたドーラが、ペロリと舌なめずりをしてみせた。
それからの探索は順調だった。
これまでの単調な塗り絵のような探索に比べて、変化に富んだ内壁の構造は却って集中しやすかった。
南北と東西に次元連結しており、本来ならマッピングし難いはずだが、永久品である “示位の指輪” を所持するふたりには関係のない話だ。
玄室の数も少なく、ねぐらにしている魔物との戦闘も滅多に起こらなかった。
稀に起こったとしても簡単に蹴散らし、鑑定してみなければなんともいえない武具を数点入手して終わった。
アッシュロードとドーラは、五時間ほどで階層のほぼ全てを踏破し、地図の空白を埋めていった。
そしてふたりは……行き詰まった。
上層への縄梯子は見つけることができた。
しかしその縄梯子に近づこうとすると、下層への縄梯子の前に強制的に転移させられてしまう。
どうやら、まだ資格がないらしい。
階層をほぼ隅から隅まで探索した結果、気になったのは四つ。
①耄碌した老いた修道士。
②三枚の立て札で警告された奥。
③二度ほど遭遇した、浅黒い顔をした砂漠の民。
④冥い水の底から現われ、手招きしていた不気味な幽霊。
――である。
①については前述のとおりである。
②についても同じく前述したとおりで、おそらくは罠であり、足を踏み入れるのは最後の最後、万策尽きてからだ。
③については、探索中にいきなり “永光” の明かりの中に現われ、親切にも、
『迷宮金貨二五〇〇枚で湖岸拠点に送り届けてやろう』
と、いきなり商談を持ちかけてきた怪人物である。
頭にターバンを巻いた浅黒い肌をした砂漠の民と思われる男で、迷宮にはときおりこのような怪人が現われる。
魔物が闊歩する迷宮を、普通の人間がうろついていられるはずがない。
まして商売などと、何をいわんや――である。
このような存在は、“|迷宮支配者” の意を受けた “人外” であることが多い。
“迷宮支配者” が探索者の行動に介入し、自らの望む方向へと導くためだ。
それらは善意や慈悲、あるいは悪意をともなう結果となってもたらされる。
有名なところでは、“紫衣の魔女の迷宮” の地下一階。
暗黒回廊に潜む謎の隠者がいる。
熟練者の魔術師でも操れる者のいない “対転移呪文”を使って、住処に迷い込んできた探索者たちを城塞都市に強制送還させる、迷宮随一の有名人である。
その技量から、“紫衣の魔女” 本人ではないかとも囁かれる魔術師であり、住処が昇降機の近くにあることから、魔女の慈悲を感じさせる存在だ。
実際、下層の凶悪な魔物との戦いを潜り抜け命からがら戻ってたパーティが、この隠者によって窮地を救われたという話は枚挙に暇がない。
しかし、どこの誰とも知れぬ人間に “対転移呪文”をかけてもらうなど、狂気の沙汰だ。
飛ばされた先が “石の中” なら即消失である。
アッシュロードとドーラは、丁重に辞退してその場を後にした。
この手の存在の例に漏れず、男は機嫌を損ねるでもなく親切な笑顔で見送ってくれた。
そして④の幽霊である。
遭遇したのは、この階層では珍しい扉で密閉された玄室で、その片隅に澱んでいた汚れた水溜まりから、不意に現われたのである。
襤褸をまとった病み衰えた女の幽霊で、ギョッとしたアッシュロードたちに襲い掛かるでもなくただ手招きし、ふたりが警戒しながら近づくと何かを催促するように掌を差し出したのだった。
「~耄碌した爺さんにしろ、あの幽霊にしろ、お使いを頼むのなら、ちゃんとお目当ての品を教えてほしいもんだね」
猫人のくノ一が、ぼやきたくなるのもわかる。
アッシュロードもまったく同じ気持ちだった。
「あの爺さんと幽霊が、この階層突破の鍵なんだろうが……」
そこまではいい。
そこまではいいのだが……。
如何せん、そこから先の情報がなさ過ぎる。
漠然などという生半可なものではない。
雲をつかむ方が、まだ実現性があるようにすら思える。
なぜなら、雲は目に見える存在なのだから。
「取りあえず現場百回だ。もう一度爺さんがいた場所に行ってみよう。あの爺さんが “真龍” の意を受けた “人外” なら、またいるはずだ」
ドーラも敢て反対はしない。
彼女にも他によい案は浮かばないのだ。
ふたりが地図に記された座標に戻ってみると、果たして老修道士はそこにいた。







