THE THING
「……な、なんなのです……かっ!!?」
首に絡みついている触手がますます強く食い込み、わたしは倒れ伏して喉を掻きむしりました!
「……興味深い……星の世界に行ける船……もっと知りたい……」
男は側までくると、足元でもがき苦しむわたしを見下ろして、
「……よかろう……ひとつにしてやる」
再び色の無い瞳で言いました。
そして直後、男の顔面がパックリと割れたのです。
まるで中心から正しく四等分に皮を剥いた若榴のように、首領の顔が割れたのです。
それは、まさに血肉の滴る若榴そのもので――。
そのものとしか、言いようがなくて――。
わたしは――わたしは、この世界に来てから、探索者になってから、迷宮に潜るようになってから、様々な恐ろしいものを、信じられない存在を、残酷な光景を、目の当たりにしてきました。
骨や内臓の露出した、歩き回る腐乱死体を見ました。
複眼を持つ、毛むくじゃらの巨大な蜘蛛を見ました。
人を虫けらのように踏み潰す、高位悪魔も見ました。
別のパーティの戦士が、巨人に八つ裂きにされる瞬間を目撃しました。
“緑竜” の酸の竜息で溶かされた、探索者たちの亡骸を発見したこともあります。
どれも、今でも悪夢に見るほどの恐ろしい、惨たらしい光景でした。
ですが、ですが――これはそのどれよりも、あまりにも違いすぎていて――。
突然目の前に具現化した狂気によって、自分の正気が侵食されるようで――。
だって、だって、割れた顔の中から、血肉に塗れた白く蠢くヌメヌメとした何かが現われて、わたしに伸びてきたのですから。
それは太く短い触手のようであり、人の腕よりも太いナメクジのようであり――。
そのグロテスクな何かが、ウネウネと妖しく蠢きながら、わたしに、わたしの顔に迫ってきます。
わたしは、自分の下腹部が生温かく濡れたことすら気づきませんでした。
(……あ……ああ……っ……)
この時、呼吸ができない苦しさも、失禁してしまった自覚も、わたしにはありませんでした。
恐怖がすべてを麻痺させていたのです。
そして、瞬間的に、本能的に、男の言葉の意味を理解しました。
この男は、わたしを食べて―― “同化” しようとしている!
同化。
それはおそらく、身体どころかすべての記憶までもこの何かに奪われることです。
そして首領がそうであるように、宿主ですらなくなり、感情のない別のひとつの “何か” に成り果てるのです。
(……いや……いや……助けて……それは嫌です……それだけは……それだけは絶対に嫌です……)
この記憶は、この想いは、わたしの――わたしだけのものです。
誰にも見せたくない。
誰にも渡したくない。
誰にも、誰にも。
わたしがこの記憶を、想いを分かち合いたいのは、唯一人――唯一人だけなのです。
その人は、こんなおぞましい化物ではありません。
(……あなたなんかに……あなたなんかに――渡すものですか!)
それからわたしは、狂気を先取りしたように暴れ回りました。
“抗え”
“抗え”
“抗え”
頭の中で、それだけが叫んでいます。
わたしは喉に食い込んでいる触手の更に内側に、皮膚が裂けるのも構わず、無理やり指先をねじ込みました。
ねじ込み、少しでも隙間を作るために力を込めました。
“抗え”
“抗え”
“抗え”
諦めない! 諦めない! 諦めない!
蟷螂の斧でも、最後のイタチっ屁でも構わない!
とにかく、わたしからは諦めない! 自分から動くのはやめない!
体力の最後の一滴を絞り尽くすまで、暴れ回ってやる!
ヒュンッ! ヒュンッ!
首領の身体から生えた無数の触手のうち二本が、極大の不安感をあおる風切り音を上げてわたしの両手首に巻き付き、掻きむしる喉から引き離しました。
更に二本、今度はわたしの両足首に巻き付き、そのまま持ち上げ、宙空で磔にするように固定しました。
(――離してっ! 離してえぇぇっ!)
わたしは残された全ての活力を振り絞って、最後の抵抗を試みました。
力の限り両手足を暴れさせ、触手を振りほどこうともがきます。
ですが……。
息が出来ないので……それもすぐに限界に達してしまいました。
コメカミを襲う激しい痛みの中……意識が……遠のきます……。
(…………シュ……ロ……ド……さ…………)
それは、失神する直前の一瞬の浮遊感……。
――いえ、違います!
ドサッ!
突然、宙から落とされ、わたしは一気に覚醒しました!
手首を、足首を、そして喉を締め付けていた触手がすべて切断されて、汚らしい体液をまき散らしながら、宙を、床を、のた打っています!
弱点を守るためでしょうか!?
四つに割れていた首領の顔が元に戻ります!
その顔には、初めて驚愕の表情が浮かんでいました!
そして驚愕の表情を浮かべたまま、首領の首は部屋の隅へと転がっていき、鈍い音を立てて壁にぶつかり止まりました。
少しして、思考部位を失った身体が真後ろに、スローモーションのように倒れていきます。
「……はぁ、はぁ、はぁ!」
わたしは頭を振って、無理やり意識の焦点を合わせました。
首に巻き付いていた触手をむしり取り、投げ捨てます。
不気味な触手と自らの爪に蹂躙された首回りが、猛烈に痛みます。
でも、それよりもなによりも――。
「アッシュロードさん!」
わたしは首領の死体以外、誰もいない部屋に向かって叫びました。
「いるのでしょう! 姿を見せてください!」
こんな時に、こんなタイミングで、こんな風にわたしを助けてくれる人なんて他にはいません! いるわけがありません!
「――きゃっ!?」
不意に、ほっぺたに分厚い革の手袋に包まれた人差し指の感触がありました。
いい加減嗅ぎ慣れた、あの人の匂いもです。
でも、やはり姿は見えません。
そのまま透明な指先が、頬に何かの文字を書きます。
「……ガラス……ポーション……静寂……加護……」
ガラスのポーション……静寂の加護……。
「“ガラスの水薬” と “静寂の加護”!」
わたしは叫ぶなり、澱んだ部屋の空気に思い切り抱きつきました。
そこには悪の戒律の者しか身にまとえない、魔法の板金鎧の感触がありました。
「怖かった! 怖かったですぅ! 怖かったよぉ!」
抑え込んでいた恐怖が、溜め込んでいた恐怖が、一気に溢れ出してきて、わたしは見えない彼を抱き締めて思い切り泣きじゃくりました。
透明な腕がおずおずとわたしの背中にまわり、ポンポンとあやして、労ってくれます。
ポンポン……ポンポン……ポンポン……。
「う~~~~~~~~っっっ!!!」
本当に、本当に、この人は、何度わたしを好きにさせるのでしょう!
何度わたしに恋をさせるのでしょう!
これで惚れるなという方が無理ってものです!
やがて……。
「……おっ?」
不意に、やや頓狂な声がして、腕の中にアッシュロードさんが出現しました。
そして、もはやお馴染みなったセリフ。
「無事か?」」
わたしは、
「うっ! うっ!」
と、涙と鼻汁でグシャグシャの顔で、何度も頷きました。
「……厳父たる男神 “カドルトス” よ」
アッシュロードさんは皮が剥けヒリつくわたしの首筋を触れると、帰依する男神に嘆願して “小癒” の加護を施してくれました。
癒しの加護ではもっとも効果の低い魔法ですが、こういった自然治癒では何日、あるいは何週間もかかるような軽傷を治すには最適の加護です。
温かな波動が流れ込んできて、皮膚が再生されるこそばゆさに思わずモジモジ。
「おい、動くな」
エヘヘヘヘ。
「……おい」
「ぐじゅ?」
「……いい加減、離れろ」
「……ぐじゅ、いやだ。もうちょっと」
散々怖い思いをしたのです。
ここで離してなるのものですか。
「それにしても……なんなんだ、コイツは?」
観念したアッシュロードさんはわたしに抱きつかれたまま、床で一部欠けた大の字になっている首領に一瞥をくれました。
首を切り飛ばされたというのに、血がほとんど噴き出ていません。
人間の形をした、人間以外の何か……。
そうとしか言いようがありません……。
ビクッビクッビクッビクッビクッビクッビクッ!!!
と、それまでピクリともしなかった首無し死体が、いきなり激しく痙攣しはじめました!
わたしは、そしてアッシュロードさんも、ギョッとしてお互いを強く抱き締めます!
死体は切り飛ばされた首の傷口から、まるで袋を裏返すように捲れ返り、
骨を、脈打つ臓物を、真っ赤な血肉を剥き出しにして立ち上がりました。







