怖れ
遙か西方の熱砂の国―― “イラニスタン”
その砂漠から汲み上げられた黒い水を精製した、可燃性の高い油の入った大樽を手に、船乗り姿の男たち……いえ、もうハッキリと海賊と断言してしまっても構わないでしょう……が、にじり寄ってきます。
地理的に見ておそらくは、“リーンガミル聖王国” 近海を荒らし回っている私掠船団の一味だと思われます。
リーンガミル海軍の取り締まりに対抗するため、通常なら単独で掠奪行為を行っている海賊が船団を組んで組織化された戦力は、一国の海軍に匹敵するまでになっている……道中の馬車内でトリニティさんが話してくれました。
わたしたちが武器を捨てないからでしょうか?
それとも “静寂” の効果が切れて、再び魔法を使われるのを怖れているのでしょうか?
海賊たちの目には、今まさに焼き殺されんとしているわたしたちと同じか、あるいはそれ以上の “恐怖” が見て取れました。
相手は魔法を封じられた上に何重にも包囲され、生殺与奪の権利をすでに握っているも同然なのに、何をそんなに怯えているのでしょうか?
こんな地下空間にいるのです。
獣欲を充たす対象には飢えているはずです。
それなのにわたしやフェルさんを見る瞳には、そんなおぞましい欲望は欠片も映っていません。
あるのは、ひたすらな恐怖だけ。
でも、だからこそ……まったなしです。
理由はわかりません。
ですがこの人たちは、ただただ一秒でも早く、わたしたちを焼き殺してしまいたいのです。
冷静に、冷静に――。
ともすればパニックになりかけている自分に、繰返し言い聞かせます。
呪文も加護も封じられ、使えそうな道具もありません。
あるのは “悪巧み” を捻り出す、思考だけです。
冷静でいる限り “悪巧み” のリソースは無限。
尽きることのない、最強の武器。
そう、あの人が教えてくれました。
だからわたしは、必死に打開策を考えました。
この場を、この窮地を切り抜け、突破する方法を。悪巧みを。
必死に、必死に考えたのです。
ですが、わたしはあの人では、彼ではありません。
考えれば考えるほど焦ってしまい、焦れば焦るほど、考えることができません。
油の入った大樽と、火の着いた松明を持った薄汚れた男たちが、目に狂気を宿して近づいてきます……。
◆◇◆
アッシュロードは初めて足を踏み入れた迷宮を、ほとんど駆けるように早足で進んでいた。
自身の所有物である債券奴隷を出向させている、パーティを追っているのだ。
あの債券奴隷には、まだ返済が終わってない借金が二〇万 D.G.Pも残っている。
なにかあった場合には、パーティから取り立てなければならない。
だから自分はあの “善”のパーティを追い掛け、もしもの時には助けなければならないのだ。
そうしなければ、自分の利益に反する。
だからアッシュロードは、危険を顧みず迷宮を行く。
なんの問題もない。
むしろ “悪” の戒律に従う者として、当然の行動だ。
“ナンセンス”
――彼を知る者からしたら肩を竦めて鼻で笑うしかない、そんな自己正当化をしながら、今年三七才になった職業 “保険屋” の男は、立ち塞がる魔物たちを斬り伏せ、蹴散らし、未知の迷宮を単身突き進んでいく。
“大ナメクジ” を両断し、“塵人” を解呪し、“動き回る海藻” を八つ裂きにする。
先ほど相棒のくノ一と待ち合わせていた玄室で遭遇した “海賊” のような連中とは、再遭遇していない。
顔を合わせるなり、いきなり斬り掛かってきたので五人とも斬り伏せたが、あれは紛れもなくただの人間だった。
まだ迷宮の狂気にも呑まれておらず、“みずぼらしい男” にもなっていなかった。
だからこそ危険だった。
もしあの娘たちが妙な仏心を出したりすれば、足元をすくわれる恐れがある。
この世で一番危険な存在。
それは紛れもなくただの人間だということが、“善” の連中にはわかっていないのだ。
どういうわけか掘建て小屋が立ち並ぶ一画を進むアッシュロードの五感が、異変を捉えた。
まず臭い。
ついで音。
どこからともなく漂ってきた焦臭さと、微かに聞こえる……ゴゥゴゥという空気の唸る音。
迷宮慣れしている保険屋の嗅覚と聴覚がすぐにその方向を察知し、“悪の鎧” の一部位である漆黒の鉄靴に覆われた爪先が西を向いた。
さらに進み西の内壁に現われた扉を開けると、焦臭さと唸り音が更に強まった。
そこは一×一区画の玄室で、これまでの区画と違って掘建て小屋の類いはなかった。
北は頑丈な煉瓦造りの内壁で、南と突き当たりの西の壁にやはり今入ってきたのと同じ造りの扉があった。
一歩進む度に、臭いと音が強まる。
今や嗅覚と聴覚に続き、視覚もその異変を察知していた。
西の扉の隙間から、悪臭を伴った黒い煙が侵入してきていた。
もう間違いはなかった。
この扉の向こうで何かが――いや、この臭いなら見なくてもわかる。
この扉の向こうで、“イラニスタンの油” が燃えているのだ。
それも何かの生きた肉と一緒に!
生き物の焼ける最悪な臭いに顔を歪ませたアッシュロードは扉に近づき、蹴り開けた。
心臓を鷲掴みにされたような怖れが、彼を支配していた。







