中央
けたたましい音を立てて駈け去っていく軍用馬車を見送りながら、“王城” を守る最後の砦――内郭城門に立つハンナ・バレンタインは、胸の前で聖印を切り両手を合わせた。
彼女は “善” と “悪” どちらの属性でもない “中立” の性格だったが、信仰を持たないわけではない。
聖職者に就くために必要な神への強い指向性こそなかったが、この世界に生きる人間の慣習としての信仰は持ち合わせていた。
だからこそ、今のハンナの祈りは――願いは純粋だった。
(……どうかみんなをお守りください……わたしの大切な人たちをどうか無事にお戻しください……どうか……どうか……)
やがてハンナは顔を上げ、呟いた。
「……どうしてわたしは探索者ではないのでしょうか。どうしてわたしは今、あの馬車に乗っていないのでしょうか」
武門の名家と呼ばれる家に生まれ、幼き頃より同い年の娘とは比較にならない密度で武芸を仕込まれてきたというのに。
話に聞く探索者に興味を持ち憧れていたくせに、自身がそうなることは夢にも思わなかった。
あくまで物語。
自分とは関係のない別世界の話。
都大路を南の外郭城門に向かって疾駆していく馬車には、エバ・ライスライトを始めとする六人の探索者たちが乗っている。
窮地にある友人たちを救うべく、死地に向かっている。
自分はただその背中を見送るだけ……。
「――剣を振るうだけが戦いではないよ、ハンナ」
思い詰めた表情を浮かべる歳の離れた友人に、やはり見る見る遠ざかっていく馬車を見送りながらトリニティ・レインが言った。
冷静な彼女には珍しい、柔らかく優しい声音。
「人にはそれぞれの戦い方というものがある。英雄はそれひとりだけでは英雄たり得ない。勇者はそれひとりだけではせいぜいが魔物退治の専門家だ。おまえはおまえにしか出来ない戦い方で彼らを支えてきたではないか」
わかってはいる。
わかってはいるのだ。
ハンナとて、それはわかっているのだ。
だからこそ探索者ギルドの受付嬢として、これまで必死に彼らを支援してきたのだ。
でも……。
「探索者だったわたしに言わせてもらえば、後方におまえのような信頼でき、頼れる人間がいることはどれだけ心強いか。おまえは探索者という船を座礁から守る灯台のような存在だ――彼らにしてみれば感謝してもしたりないだろう」
「でも……いざという時に一緒に沈むことはできません」
それこそハンナが怖れていることだ。
自分はそう思わざるを得ないほど、彼らと……彼と結び付いてしまっている。
たとえ今は一方通行の想いだとしても、それがハンナの偽らざる心なのだ。
「……今回の件では、アッシュにはすまないことをしたと思っている」
ハンナの気持ちを知るトリニティは、少しだけ声の調子を落とした。
「……不意を衝かれたとは言え、わたしたちはあまりにも安寧に慣れすぎていた。迷宮がすぐ間近にあることを当たり前のように感じて麻痺していた。“東西南北中央不敗戦略” が聞いて呆れる」
「“東西南北中央不敗戦略” ……?」
聞き慣れない……ネーミングセンスの欠片もないその言葉に、ハンナは思わずトリニティの顔を見た。
「“紫衣の魔女” が考案し、わたしが命名と仕上げをした内線戦略だよ……名称については流してくれ。わたしにその才はない」
トリニティ曰く、四方の敵性勢力に対する抑えである
“東の盾”
“西の剣”
“南の鎧”
“北の兜”
の四大城塞に、中央の “迷宮” への抑止力を加えた “大アカシニア神聖統一帝国” の国防戦略らしい。
「“紫衣の魔女” が……考案?」
「ああ。武門の名家に生まれたおまえなら当然知っているだろうが、四方の城塞に配置されている兵力は極めて少ない。それなのに我が帝国は堅固な防衛態勢を二〇年にわたって構築・維持している。なぜだ?」
「それは…… “対滅” を使える魔術師が配属されているから……ですか?」
「そうだ。四つの城塞に迂闊に近づけば “対滅” の魔法で万余の軍勢だろうと簡単に吹き飛ばされる。それが抑止力となって、我が帝国は中心である帝都 “大アカシニア” に集中的に大兵力を配置することが可能になった。この大兵力を “覇王の道” を使って適宜機動運用することで、本来は時間の経過と共に不利になる内線戦略を盤石なものとしているのだ」
「四方から敵に攻められれば、普通なら兵力を分散して対処しなければなりませんものね……」
「ああ、だが我々は大陸最大最強の兵力を分散させることなく運用できている。各要塞に僅かずつ配属されている熟練者の魔術師のお陰でな」
「理解できてきました。“紫衣の魔女” は我々の最大の敵であり、味方でもあるのですね」
「正確には “上帝陛下” のだな――そのとおり、あの魔女が迷宮を生み出さなければ、わたしを含めた熟練者の魔法使いは生まれていなかった。本来 “対滅” の呪文は生涯を掛けて修行・研究した魔術師が、最晩年になってようやく会得できる奥義だ。それをあの迷宮でなら、運と才能さえあれば一〇代のうちに身に付けることができる。お陰で我が帝国は国境の要害に “戦略兵器” を配備できるというわけだ」
「……周りの国では持ち得ない、この国だけの優位性というわけですね」
「探索者を鍛え上げるためのまさに “試練場” だよ。類似の迷宮は “リーンガミル” の “龍の文鎮” と “呪いの大穴” ぐらいだが、“龍の文鎮” は “真龍” の力で魔物の力が抑え込まれていて、探索者の修行には今ひとつな環境だし、“呪いの大穴” は二〇年前の簒奪劇以来封印されたままだ。もっとも――」
もっとも、間者の報告によれば、近頃その “呪いの大穴” の封印が解かれ、探索者――彼の国では未だに冒険者と呼んでいる――に解放されたらしい。
“リーンガミル聖王国” も何やら焦臭くなってきているようだ。
「……もっとも?」
「いや――とにかく四方が万全だった分、要である中央の備えが疎かになっていた感は否めない。アッシュロードとドーラにはもっと細やかな支援をしてやるべきだった」
トリニティの言葉に、ハンナの表情にハッとした気配が走った。
「気づいたようだな。なぜ上帝陛下があのふたりを近衛の任務から外し、好きにさせているか。あのふたりこそ “中央” ―― “災禍の中心” の抑えなのだ」
「――」
すべてのピースがはまり、パズルが完成したようにハンナには思えた。
合理主義の権化である上帝トレバーンが、なぜアッシュロードやドーラのような有為の人材を在野に放逐したままにしているのか。
「アッシュもドーラも、有事の際の帝国への献身と引き換えに自由を与えられているのだ」
「……考えてみれば当然ですよね。宮仕えが務まらない、そんな理由だけであの陛下が有能な人材を召し放つわけがない」
「ふたりともよくやってくれているよ。グダグダなのはわたしの方だ。“これある” を理解して備えていたつもりが、一七年も変化がなかったことですっかり耄碌してしまった。そのせいでアッシュには役目ではない仕事まで負わせてしまった」
「役目ではない仕事?」
「アッシュは本来 “帷幄にあって勝利を千里の外に決する” 男だ。自ら前線に立って剣を振るうのは本分ではないのだよ。たまたま君主という職業に就いているから剣を手にしているすぎない。あいつの価値は首から上にあるのさ」
「……それは」
それは確かにその通りかもしれないが、なんというかもう少し言いようがあるのではないか。
アッシュロードにそんな表現を使えるトリニティに、ハンナは頬を膨らませかけた。
そんなハンナの表情に苦笑しつつ、トリニティが続ける。
「ドーラが前線を受け持ち、アッシュが後方で全体の指揮を執るのがわたしの構想だったのだが……あいつの指示は慣れていないと何かと理解し辛くてな。結局今回は細々としたところまで、アッシュ自身が処理しなければならなくなってしまったようだ」
「……」
ハンナは沈痛な面持ちで黙り込んだ。
報告によると迷宮内に築かれた前線基地からの連絡が途絶え、アッシュロードは状況を確認するために自ら迷宮に潜ったらしい。そしてそのまま安否不明に……。
本来なら全軍の指揮官が単身迷宮に潜るなど、あってはならないことだ。
結局グレイ・アッシュロードはいろいろと面倒になってしまい、一番手っ取り早い方法を選んでしまったのだろう。
「わたしがいれば、あいつの指示を適切に中継してもっと有機的に部隊を動かせたのだ。そうすれば指揮官自ら迷宮に潜る必要などなかった…………駄目男め」
ハンナはトリニティの最後の呟きを聞き逃さなかった。
彼女も出来ることなら最初から “街外れ” に赴いて、アッシュロードを補佐したかったのだろう。
それが許されぬほどに、トリニティ・レインは偉くなりすぎてしまったのだ。
「……あなたの代わりが務まる人はいませんよ」
それが慰めになるとも思えなかったが、ハンナはぎこちなく微笑んだ。
今やトリニティはこの国の筆頭国務大臣であり、上帝トレバーン不在の現在は最高司令官代理でもあるのだ。
王宮を離れて前線指揮官の補佐になど行ける道理がない。
「……代わりか」
ハンナの何気ない言葉に、トリニティは顔を上げた。
そして幼き頃より成長を見守り、密かにその才能を認めている娘をマジマジと見つめた。
「な、なにか?」
「確かにお前の言うとおりだ、ハンナ・バレンタイン。こんな “悪巧み” を思いつくのはわたしぐらいなものだろう」
「……え?」
◆◇◆
“街外れ” はまさしく戦場だった。
荒れ地にポッカリと口を開けた巨大な深淵からは、垂らされた縄梯子を伝って続々と兵士たちが這い上ってきていた。
どの兵士も血と汗に汚れ、ひとりとして無傷の者などいない。
縄梯子を登りきると皆一様にその場にへたり込み、肩で息をして顔を上げることができない。
地上部隊の兵士が駆け寄り、すぐさま五〇〇メートルほど離れた後方基地へと後送するが、誰もが味方の肩を借りなければ動けない有様だった。
惨憺たる撤退戦だった。
士官や下士官の殺気立った命令が飛び交う中、一際感情的な声が響いた。
「――駄目だ駄目だ! 絶対に駄目だ! 下には今、“腐乱竜” が湧いてるんだぞ! そんな所におまえひとりで行かせられるか!」
「だからこそ行かなければならないのです。下ではもう癒やしの加護を使える聖職者が残ってないのですよ。躊躇っている時ではないのです」
ダイモン・ビッグブレイブが、ひとり迷宮に乗り込もうとするエバ・ライスライトを翻意させようと必死の説得を試みているが、元クラスメートの僧侶は確固たる意思で譲らない。
「それじゃ、俺も行く!」
「無茶を言わないでください。あなたはパーティのリーダーではありませんか。リーダーはどんな場合でもパーティと共になければならないのですよ」
「おまえは――」
やわらかく拒絶されたダイモンは、それ以上言葉が出なかった。
違うのだ。
エバは……枝葉瑞穂は、もう自分たちのパーティの一員ではないのだ。
彼女のパーティは、仲間は、今も迷宮に残って傷ついた兵士たちの撤退を支えている。
「――行かせてあげなよ」
エバを加勢する声が意外な人物から上がった。
「死にに行きたいっていうなら行かせてあげなさいよ」
ダイモンは一瞬、リンダがこの状況を利用してエバに復讐を果たそうとしているのではないかと思った。
リンダがエバを逆恨みしていることは、パーティの誰もが知っていた。
「リンダ、おまえ!」
「あんたその娘の保護者にでもなったつもり? 自分のことは自分で決める。たとえそれが生き死に関わることでもね。それが大人でしょ。違う?」
ダイモンは押し黙った。
リンダの声は乾いていて、以前のような狂気じみた情念は籠もっていなかった。
「リンダ」
エバがリンダに――かつて親友だった少女に向き直る。
「なに。お礼ならいらないわよ」
「違います。あなたのことです」
「わたしの?」
「正直に言います。わたしはあなたが嫌いでした。いつもわたしを子供扱いして、まるで何も出来ない妹の面倒をみるみたいに接してきて、目立つのはあなたばかり。わたしはいつも引き立て役で、その度に傷ついていました」
エバは静かだが揺らがない視線をリンダに向けていた。
「わたしは何も出来ない子供ではありません。“鈍臭い不思議ちゃん” ではありません。たとえあなたの目からは幼稚で頼りなく見えても、枝葉瑞穂というひとりの人間です。ですから、わたしを見下すことも侮ることも許しません」
そしてエバはリンダに言った。
「だから、わたしはあなたが嫌いです、リンダ」
他の元クラスメートが固唾を呑む中、ふたりの少女が対峙していた。
いや、これはもう対決だ――ダイモンは思った。
幼さ故、未熟さ故、弱さ故、先送りに先送りを重ねてきた、ふたりの少女が前に進むために必要な、対決という名の儀式。
「結局、あたしたちはお互いが嫌いだったってわけね」
「そういうことになりますね」
「……」
「……」
「……そうね、そう考えるのが一番自然だわ」
先に肩から力を抜いたのは、リンダだった。
「……一番自然で、しっくりくる」
「……ええ」
それがふたりが交わした最後の言葉になった。
エバはそれ以上何も言わずに手近なクレーンの元に行き、操作を担当している兵士たちの指示に従って腰に厳重にベルトを取りつけた。
眩い鎖帷子を着込んだ華奢な身体が深淵に消えても、かつての級友たちは動けなかった。
そしてダイモンは悟った。
今ひとつの関係が終わったのだと。
あの最初の迷宮探索で砕け、それでもいつか元に戻るのではないかと淡い期待を抱いていた大切な、本当に大切な関係が、今度こそ本当に終わったのだと。
ダイモンはリンダを見た。
その目に涙はなく、寂しげではあったが不思議と穏やかな瞳だった。
『――精神潜行は命ではなく、心を救う旅』
リンダをエバの中に送り出す際のトリニティ・レインの言葉が頭に浮かんだ。
救われたのは、いったい誰の心だったのか。
あの女賢者はここまで予見していたのだろうか。
ダイモンにはわからなかった。
また、わからなくてもいいことだとも思った。
なぜなら自分は戦士であり、自分の役目は考えることではなく、剣と盾で大切な仲間を守ることなのだから。
「――担架だ! 担架を持ってこい! 重傷者だ!」
鼓膜を打った怒声にダイモンがハッと我に返ったときには、すでにリンダが一番離れた場所に設置されているクレーンに向かって駈けだしていた。
「嘘でしょ――冗談じゃないわよ!」
穏やかだった女盗賊の瞳が怒りに燃える。
ここでこの女に死なれたら、自分たちはいったい何のためにここに――現実に戻ってきたというのだ。
走るリンダの視線の先で、利き腕を肘から欠損した猫人のくノ一が、クレーンに吊られ揺れていた。







