氷室
アッシュロードは扉から一区画離れた、東西に延びる回廊の壁際で毒霧が晴れるのを待った。
即効性のガスはやがて霧散した。
黒衣の君主は微かに鎧を鳴らしながら扉に近づき、合図を送るために叩きかけて――ギョッとした。
扉の全面にビッシリと霜が降りていたのである。
いや、これはもう凍結しているといった方が正しい表現だろう。
理由は明らかだ。
“氷嵐” や “凍波” などの冷凍系の呪文で扉を凍らせ、隙間を塞いだのだろう。
似たような真似を、先日の籠城戦の折に “緋色の矢” の魔術師ヴァルレハが行っている。
今回も彼女が生き残り、“悪巧み” をしたのかもしれない。
あるいは、あの がきんちょも一緒に。
迷宮に降りてすぐに嘆願した “探霊” には、他の顔見知りと一緒にふたりとも反応があったが……。
ガンガンガンッ!
「――おい、生きてるか!? グレイ・アッシュロードだ! 生きてるなら返事をしろ! 閂を外せ!」
アッシュロードは魔物を呼び寄せる危険も顧みずに、激しく扉を叩き大声で呼び掛けた。
巨人族が四体がかりでこじ開けられなかった扉である。
たとえ強化している障壁系の加護が切れたとしても、鋼鉄製の閂が嵌められたそれを人族の彼が開けられる道理がない。
「おい! 聞こえるか!? 生きているなら閂を――」
そこまで叫んで、アッシュロードははたと気づいた。
開けないのではない。
開けられないのだ。
扉は内側から冷凍系の呪文でカチカチに凍りついているのである。
当然、閂も同様だろう。
短時間で氷を溶かして閂を引き抜けるようにするには、今度は火炎系の呪文で炙ってやるぐらいしか方法はない。
しかし、密閉された扉の内側からそんなことをしてみるがいい。
猛炎は逆流して周囲を燃やし尽くし、瞬く間に玄室内の酸素を吸い尽くしてしまうに違いない。
この扉の奥には最低でも一個小隊、五〇人からの人間が閉じ籠もって――閉じ込められているのだ。
魔術師がいるなら、よほど酸欠でボケてない限りそんな “とんま” はしないだろう。
かといって、扉の外側にいるアッシュロードが嘆願できる炎の加護は、第五位階の “焔柱” がわずかに五回限り。
この五回で扉を覆っている氷を溶かしきれるか。
仮に溶かし切れたとしても、同位階にはアッシュロードが願える最大の癒やしの加護である “大癒” がある。
扉の奥に負傷者がいれば、その治療が出来なく――。
――くそっ! 酸欠なのは俺の方だ!
アッシュロードは、先ほどからさっぱり回らない頭を凍った壁に打ち付けたくなった。
今回に限って自分が腰に差している、それはなんだ?
60cmに満たない、短めの木製の杖。
先端には紅い水晶の欠片がはめ込まれている。
背中越しに腰のベルトに手挟んでいた “炎の杖” を抜き取ると、アッシュロードは扉に向けて再度叫んだ。
「これから炎の呪文で氷を溶かす! 閂が動くようになったら引き抜いて扉を開けろ!」
その名のとおり “炎の杖” には、魔術師系第三位階の攻撃呪文である “焔爆” が封じられている。
これを使えば、氷結した扉を元に戻すことができるはずだ。
「――いくぞ!」
扉の奥に生存しているだろう者たちに合図すると、アッシュロードは最初の “焔爆” を扉に向けて放った。
着弾指定で発生した火の玉が扉の表面で炸裂し、真っ赤な炎を周囲にまき散らす。
ジュッ!
濛々と立ち込める水蒸気。
(……頼むから簡単に壊れないでくれよ!)
永久品でない魔道具には、品種ごとに耐久力に差がある。
“炎の杖” の耐久力は今回の戦で猛威を振るっている “滅消の指輪”の半分程度しかなく、さらにこの杖がハズレだった場合すぐに封じられた魔力を使い果たして壊れてしまう。
アッシュロードは大量の水蒸気でビショ濡れになりながら、魔法の杖に封じられた力を解放し続けた。
ビシッ、
六度目の火の玉を発生させたとき、嫌な音がして杖の先端の水晶に亀裂が走った。
ついに杖に封じられていた魔力を使い切ったのだ。
アッシュロードは “ガラクタ” を投げ捨てると、視界を遮る湯気の中を扉に近づいた。
付着していた氷はすべて気化して濃い水蒸気となっていた。
「――どうだ! 氷は溶けたか!? 閂が動くなら外せ! 扉を開けるんだ!」
……。
…………。
………………。
怒鳴り、そして待つ。
一秒毎に焦燥感がいや増す。
遅かったか。
手遅れだったか。
すべては徒労に終わったのか。
……ギィィィ……。
アッシュロードの胸中で不安が極限まで膨れあがったとき、軋んだ弱々しい音を立てて扉が開いた。
蒼白い顔をした “幽鬼” の群れがそこにいた。
「……アッシュ……ロードか……」
幽鬼の血の気のない紫色の唇が動いた。
燃えるような緋色の前髪の下で、スカーレットの虚ろな瞳がアッシュロードを見つめていた。
「無事か?」
訊ねたアッシュロードの口から、真っ白な呼気が漏れた。
理由は明白だ。
玄室の中は恐ろしく寒く、まるで氷室だった。
扉の隙間を塞ぐために繰返し唱えた冷凍系の呪文のせいで、たださえ低温で冷えやすい石造りの玄室は氷点下を遥かに越えて冷え込んだのだ。
「……負傷して体力が落ちていた者が……二〇人ばかり死んだ……」
「そうか」
「……グレイ……」
フラフラと近寄ってきた金髪の少女が、アッシュロードにすがりついた。
「フェル」
「……来てくれたのね……」
エルフの娘の肌は文字どおり氷のようで、低体温症に陥ってるのがわかった。
「なぜ癒やしの加護をかけない! 凍っちまうぞっ?」
詰問するように訊ねたアッシュロードに、
「……だって……わたしは 回復役だから……」
フェリリルは弱々しく微笑んだ。
「まってろ」
アッシュロードは半ば意識を失いかけているエルフの少女の額に手を当てると、
“大癒” の加護を施した。
分厚い黒革を嵌めた手が輝きだし、柔らかな光がフェリリルを包み込む。
エルフの少女は心地良さげに、身体の中に流れ込んでくる想い人からの温かな波動に身を委ねていた。
「……聖職者の……回復魔法は……すべて使い切った……その娘と……ノエルがいなければ……さらに半分が死んでいただろう……」
「他に重傷者は?」
アッシュロードは外套を外してフェリリルの身体を覆いながら確認する。
「「……パーシャが……」」
スカーレットとフェリリルが同時に答えたが、その声は囁くようだった。
アッシュロードはふたりの視線の先を見た。
ふたりの人間の男とひとりのドワーフが固く身を寄せ合って座っている。
全員が鎧を脱いでいた。
「……おっさんか……」
アッシュロードが近づくと、茶色の髪の男が顔を上げた。
「ホビットは無事か?」
「……早く助けてやってくれ……」
噛み合わない答えを返すと、ジグリッド・スタンフィードはのろのろと身体をどかした。
三人の男の真ん中から、何枚もの毛布にくるまった赤毛の小人が現われる。
「…… がきんちょ」
アッシュロードは真っ白な顔色のパーシャの傍らに膝を突き声を掛けた。
「…… おっちゃん」
うっすらと目を開けて、ホビットの少女が邪鬼のない笑みを浮かべた。
「……やっぱり……毛布はこうやって使うべきだよ……ね……」
「しゃべるな。いま楽にしてやる」
「……へへっ……トドメを……刺してくれるの……?」
「そっちがお望みならな」
「……いやなこった……」
ホビットは身体が小さい分、暑さに強く寒さに弱い種族だ。
熱の生産量は身体の体積で決まり、放熱量は表面積で決まる。
仲間たちが温めてくれていなければ、生きたまま凍りついていただろう。
アッシュロードは二度目の “大癒” を願い、ホビットに施した。
祈祷が効果を現すにつれて、パーシャの顔色が徐々に赤みを帯びてくる。
すんでのところで、間に合ったようだ。
アッシュロードは額に浮かんだ嫌な汗を拭って顔を上げた。
玄室のそこかしこで精気を無くした兵士たちが、やはり毛布にくるまり肩を寄せ合っている。
彼はこれから、この幽鬼のような敗残兵たちを引き連れて地上まで戻らなければならないのだ。
ここから迷宮の始点まではわずか一六区画。
しかし、その間には最下層の魔物が徘徊している。
一六区画――一六〇メートル。
アッシュロードにはそのたった一六〇メートルが、とてつもなく長い距離に思えた。







