制限時間
“最悪の状況に限って、最悪の事態は訪れる”
扉と床や壁の隙間から、生物を腐食・溶解させる猛毒の瘴気が吹き込んできたとき、パーシャを始めとする 玄室 “第一”に閉じ籠もった――閉じ込められた探索者たちに浮かんだのは、その言葉だった。
危険な迷宮に潜る探索者たちの間で、半ば冗句として、そして半ば真剣に語られる格言。
閂と加護で固く閉ざした扉の向こう側で、“毒巨人” が毒息を吹きつけているのだ。
約七〇人の残存兵――敗残兵にとって、これほど酷薄な攻撃はないだろう。
「――討って出るか!?」
第二小隊長がスカーレットに向かって叫んだ。
「駄目だ! 扉を開けた途端、毒息を浴びて溶かされるだけだ!」
玄室の外はすでに猛毒の腐食ガスで充満している。
扉を開けたが最後、待っているのは巨人に斬り掛かるよりも早く訪れる、無残極まる死だけだ。
「じゃあ、どうするってんだ!? このままここで死ねっていうのか!?」
「毛布だ! 毛布だよ!」
小隊長の自制が壊れかけたとき、パーシャが叫んだ。
玄室の床には、兵士や探索者が待機の際に使っていた毛布が散乱している。
パーシャはその一枚をひっつかむと、壁と床の隙間に押し込んだ。
吹き込んでくる瘴気に触れて、小さな手が見る見る爛れた。
「――ギギギギギッ!」
激痛を無視して隙間に毛布をねじ込むパーシャ。
最後までその過酷な作業をやりきったとき、彼女は悶絶していた。
「パーシャ!」
フェリリルが、吹き込んでくる瘴気に顔を突っ込みそうになるパーシャを抱きかかえて、安全な場所まで引きずった。
「ホビットの娘だけにやらせる気か! おまえらそれでも男か!」
ジグが怒号し、毛布をつかむ。
しかし、その毛布もしょせんは羊毛で織られた有機物にすぎず、“毒巨人” の吐き散らす腐食ガスをいつまでも防げるものではない……。
◆◇◆
アッシュロードは鎖で編まれた頑丈な縄梯子を、深淵の底へと下りていく。
“短明” の加護はかけていないので周囲は闇だ。
下を見ると遙か下方に、赤々と燃える炎の絨毯が見える。
巻き上げられた熱風が上昇気流となって、アッシュロードの頬を撫でていく。
一足下ろすごとに、吹き上がってくる空気の熱量が増す。
火力が高い分、長時間は燃焼しない種類の軍用のオイルだ。
火力が低く、その分長時間燃え続ける物と用途によって使い分けるのだが……。
それでも投げ落とした量から考えて、あと一〇分程度は燃え続けるだろう。
油が燃焼を終えて火勢が衰えるまで、ここで蓑虫よろしくぶら下がっているか……。
キンッ!
思案するアッシュロードの顔の横で、鋭い金属音が鳴った。
固い岩盤に飛び散る火花。
“飛閃刀”
忍者がいる。
それもフロアからはまだかなりの距離があるのに正確に狙ってくる。
少なくとも“中忍” 以上の手練れだろう。
やはり浸透されていたようだ。
(……蓑虫ってわけにはいかなくなったな)
アッシュロードは意を決して縄梯子をズンズンと下り始めた。
身に付けている “悪の鎧” と重ね掛けしている障壁の加護を頼んでの蛮勇である。
炎の逆巻く階層に近づくにつれ何本かが命中したが、三重に掛けた “神璧” がすべて弾き返した。
加護の効果が続いている間にケリを着ける。
アッシュロードは自分の頭の高さまで縄梯子を下りると、そこから未だ燃えさかる炎の海に一気に飛び降りた。
“悪の鎧” の一部位である鉄靴のスパイクが、迷宮の石畳をガッチリと噛み、まき散らされた油によって足を取られるのを防いだ。
次の刹那、視界を遮る炎のカーテンを突き破って、真紅の忍び装束をまとった人影が複数、猛火に焼かれるのも厭わずに襲い掛かってきた。
アッシュロードの予想どおり、“中忍” が三人。
地ならしをしておいてこれである。
燃焼を続ける軍用油の火力は “焔爆” の熱量を優に上回る。
その炎に身を焼かれながらも平然と斬り掛かってくる姿は、まさに “殺人機械"
だった。
アッシュロードは右手に “悪の曲剣”
左手に “魂殺し” を抜いて迎え撃った。
互いに呼気ひとつ漏らさずの死闘。
当然である。
周囲の空気には酸素がないのだから。
紅蓮の炎がすべて吸収してしまっている。
酸素の無い空気を一呼吸でも吸い込んだら、酸欠で脳が死ぬ。
“黒衣の君主” も “中忍” も、それが分かっているから無言・無音での斬り合いを演じている。
振り下ろされたアッシュロードの右の剛剣が、受けた忍刀ごと “中忍” のひとりを真っ二つに斬り倒す。
遣い手を得た+3相当の魔剣が、良質な玉鋼で鍛えられた片刃の直刀を飴のように断ち切ったのだ。
その隙を衝いて全身に炎をまとった別の “中忍” が、アッシュロードの首筋を狙う。
ガキッ、
“神璧” ともまた違う不可思議な力によって、致命の一撃が無効化される。
アッシュロードの体内に宿る “デーモン・コア” が、致命攻撃、石化、麻痺 などの即死攻撃を一切受け付けないのだ。
動きの止まった “中忍” が炎に焼き尽くされるよりも早く、アッシュロードの左手の短剣がその喉を刺し貫いた。
慈悲とも言える一撃だった。
残るひとりは、もはや問題にならなかった。
燃焼性の高い油で焼かれ続けた身体は鈍く、もろく、先手を打ったアッシュロードの一撃を受けることもかわすことも出来なかった。
三人の“中忍” すべてを片付けると、アッシュロードは炎の外に転がり出た。
「――ぶはっ! ぜぇっ! ぜぇっ! ぜぇっ!」
止めていた呼吸を再開すると、身体中の細胞が酸素を求めて喘いだ。
(二度とごめんだ、こんな仕事!)
炎に咽せながら、自分の本業は “迷宮保険屋” だぞ! と思っている男は胸中で罵った。
剥き出しだった顔中の皮膚が加護と耐火装備に守られてなお、軽度の熱傷を負って発赤している。
砂漠の太陽で焼かれた以上に、ヒリヒリとした鬱陶しい痛みがした。
嘔吐いた口元を拭って、アッシュロードは顔を上げる。
油樽による爆撃は一応の効果があったようだ。
炎の中では彼が斬り倒した三人の他にも、片手の指では足りない数の骸が燃えている。
東夷風の甲冑を身につけているようにも見えるので、“侍”かもしれなかった。
重量のある鎧を身につけていたため、忍者のように身軽には油を避けられなかったのかもしれない。
どちらにせよ、帝国軍が迷宮内に築いた前線基地は敵の浸透を許して機能を喪失している。
迷宮軍は “壁” の攻略に成功したか、あるいは何らかの手段を用いて無力化したのだ。
アッシュロードは大きく息を吸い込むと、それを最後に呼吸の乱れを治めた。
人間の爪や毛髪が燃える火葬場の臭いを無視して、精神を統一する。
短く祝詞を唱え、この世界で男神と呼ばれるところの宇宙的規模の高次元集合意識に接続。
“探霊” の加護が嘆願され、ドーラ・ドラを始めとする顔馴染みの探索者たちの存在が探知される。
やにわに、そのうちのひとつがフッと消失した。
つい今し方この “駆け出し区域” のどこかで、探索者のひとりが死亡したのだ。
問題はドーラたちがどこにいるかだ。
まとまっているのか。
あるいは分断されて孤立しているのか。
漂っている霊魂の多い迷宮では、北西・北東・南西・南東の大ざっぱな区域でしか位置を探れないのが “探霊” の欠点だ。
全員が南西区域、すなわち “駆け出し区域”にいることはだけは確かなようだが……。
回廊は北と東に伸びている。
北には “壁” と “第一” ~ “第二”の二つの玄室が。
東には、かつてエバ・ライスライトが初めての探索で全滅した玄室 “第三” がある。
背後では油に引火した炎がまだ激しく燃え狂っていて、地上で待機している後続を下ろすのは今しばらくできそうもない。
そうこうしているちに、またひとり反応が消えた。
もはや事態は一秒を争うほどに逼迫していた。
――北か、東か。
いずれにしても、アッシュロードは単独で向かわざるを得ない……。







