絶体絶命
軍学、用兵学、兵学、兵法――呼び方は様々だが、アッシュロードはそういった類いの学問を学んだことはない。
また、いわゆる兵書の類いも読んだことはない。
だからある意味彼は軍才――軍事的才能があるのだろう。
直感という名の嗅覚で、微妙な差し引きのタイミングを嗅ぎとる。
しかし、論理的に体系立てて理論的に説明することはできない……というか、苦手である。
それらはかつてのパーティでの仲間、トリニティ・レインの役目だった。
だから現在彼の指揮下に入ってる騎士や兵士たちは、皆一様に不安げな面持ちだった。
アッシュロードと三個中隊約六〇〇人の兵士は、迷宮の入口というには拡がりすぎてしまった巨大な縦坑の淵にいた。
迷宮地下一階の南西 区域、通称 “駆け出し区域” に築かれた前線基地からの定時報告が途絶えて約一時間。
指揮官は常に最悪の事態を想定して行動する。
そうでなくても、グレイ・アッシュロードは外見に似合わず苦労性で悲観的な性格の根暗な男だ。
希望的観測など性格的にも、また前線からの距離的にも抱けない。
要するに、ヤバい匂いがプンプンする。
「閣下、やはりお辞めください。あまりにも危険すぎます」
つい今し方、アッシュロードから地上に残る部隊の指揮を任された先任の中隊長――第一中隊長が厳しい表情で翻意をうながした。
「閣下は我々の指揮官であらせられます。その閣下自ら迷宮に潜るなど、軍の指揮統制に重大な支障をもたらします。どうか御自重を」
「俺が潜らないで誰が潜るんだ?」
アッシュロードは深淵の淵に立ちながら答えた。
「下では強面の魔物が待ち構えてる可能性がある。もしそうならただの兵隊を送っても送り損になるだけだ」
送り込むなら迷宮での戦いに慣れた探索者でなければ意味がない。
そして現在地上にいる探索者の中で最も腕の立つ人間が自分である以上、アッシュロード自ら潜るのがもっとも効率的な人選だろう。
「それよりも用意はできたか?」
これ以上問答を続ける時間も気もないアッシュロードは、話を先に進めた。
「……は、完了しております」
不承不承、第一中隊長がうなずく。
「よし、やれ」
アッシュロードは短く命じ、作業をする兵士たちに場所を譲った。
彼とて何の策も講じずに決死行におもむくつもりはない。
グレイ・アッシュロードは自己犠牲や英雄主義といった崇高な精神など鼻の先で笑いとばす男であり、まして自殺願望など自身の髪に浮かんでいるフケほどにも抱いていない。
彼の頭にあるには、さっさとこの面倒な仕事を終わらせて慣れ親しんだ怠惰な日常に戻ることだけである。
そのためには勝たなければならず、勝つためには一番効率のよい方法を選択し続けていくほかない。
アッシュロードの指示を受けた第一中隊長が合図を出すと、ゴロゴロと転がされてきた洋樽が縦坑の淵から次々と落とされた。
下には魔物が手ぐすねを引いていて、縄梯子も無事ではないだろう。
実際、幾本も垂らされていた縄梯子のひとつを手繰り寄せてみたところ、中程でなくなっていた。
(……戦いの要諦なんぞ、どんな戦場でもさして差はない)
要は堅陣を敷いて待ち構えている敵への突撃を成功させればいいのだ。
通常の戦場なら雨あられと長弓を射かけて、敵の陣形を崩す。
露骨にいえば頭を上げさせないようにする。
その隙に肉薄し切り崩す。
切り崩しさえすれば、あとは後詰めを送り込んで傷口を拡げてやればいい。
普段は “平面” で行われているそれを、今回は “縦” でやるだけの話だ。
さすがに底の見えない深い穴底に向かって弓は射かけられないが、なにこちらは高所の優位を得ているのだ。
重力がある以上、物を落とせば底までの深さが射程距離である。
「松明を落とせ!」
先任の中隊長が次の指示を出し、赤々と燃える松明が複数投げ落とされた。
はたして洋樽の中身は油であった。
今ごろ縦穴の底、地下一階の始点――座標 “N0、E0” は猛炎に包まれているだろう。付近にいる魔物はよほど炎に耐性のある種族でない限り近寄れないはずだ。
あとは “火竜” や “炎の巨人” がいないことを祈るばかりだ。
「よし、梯子を下ろしてくれ」
黒衣の指揮官の命令に、兵士が三人掛かりで鎖で作られた頑丈で炎にも強い縄梯子を縦坑の淵から投げ下ろした。
「…… “炎の杖” に “耐火の指輪”。そのふたつだけで耐えられますかどうか」
「“ボルザッグ” に遣いを出せば、“氷雪の鎖帷子” だのも手に入るかもしれんがな」
“炎の杖”
“耐火の指輪”
“氷雪の鎖帷子”
どれも所持者に炎への耐性を付与する、魔法の装備・装飾品である。
「――だが今は時間がない。ある物で間に合わせるしかない。下が片づいたら縄梯子を引いて合図する。そしたら下りてこい」
アッシュロードは聖職者たちから出来る限りの守りの加護を受けると、鎖で編まれた縄梯子を下り始めた。
それからすぐに踏み板に下ろす足を止めて、
「一時間。下に降りた部隊から一時間経ってもなんの連絡もなければ、“駆け出し区域” は落ちたと城のトリニティ・レインに報告しろ」
そして今度こそ本当に、深淵の底に向かって脇目も振らずに下りていった。
実際、時間は貴重だった。
なぜならまさにこの時、パーシャを始めとする生き残った残存兵たちが絶体絶命の窮地に立たされていたからである。
◆◇◆
「――召しませ、ホビット神速の指輪、ここにあり!」
パーシャが彼女の代名詞とも言うべきホビット流の口上と共に、右手を親指を突き出す!
突き出す!
突き出す!
突き出す!
「……え?」
「パーシャ、指輪が!」
すぐ後ろにいたフェリリルが悲鳴を上げた。
パーシャが慌てて視線を向けると、彼女の “いとしいしと” はそれまでの金色ではなく鉛色に変わっていた。
「……え?」
呆然とするパーシャの頭上に、“毒巨人” の汚らしくも巨大な扁平足が迫っていた。
「――っ!!」
ホビットのすぐ後ろにいたエルフの僧侶が、咄嗟にその小さな身体を突き飛ばす。
「うわわわぁぁ!!?」
ズズンッ!!!!
突っ転ばされたパーシャの身体が浮き上がるほどの衝撃と振動。
「危ないじゃない!」
怒鳴った相手が “毒巨人” だったのか、それともフェリリルだったのか、当のパーシャにもわからなかった。
そんなことを考えている余裕などもちろんない。
ホビットの敏捷っさを最大限に発揮して立ち上がると、巨人の足元を縫うように走る。
だがホビットではなく、負傷し意識を失っているドーラを担いでいるドワーフは――。
「「カドモフ!」」
パーシャとフェリリルが同時に悲鳴を上げた。
カドモフは残る三体の “毒巨人” に壁際に追い詰められ、前後左右どちらへ逃れることも出来なくなっていた。
「……っ」
意識のない猫人の忍者を肩に担いだまま、若きドワーフの戦士は眦だけで防がんとばかりに巨人たちを睨み付けた。
三体の巨人が自分らよりも遙かに矮小なドワーフに、一斉に足や拳を振り上げたその刹那!
突然、四体全ての動きが乱れた。
“毒巨人” の顔面を墨のように真っ黒な霧が覆い包んでいる。
まるで暗黒回廊 の一部を切り取って、頭から被せたようだ。
「――そうよ!」
パーシャは快哉を叫んだ。
魔術師系第四位階の呪文、“暗黒”!
第二位階の “宵闇” の上位呪文で、魔法で造り出した暗闇によって対象の視覚を奪う支援系呪文だ。
そしてその何よりの特徴は、呪文無効化能力――耐呪の影響を受けないこと。
当然、呪文無効化率95%の “毒巨人” にも効果がある。
まだエバが加入する以前、パーシャたちは同様に呪文無効化能力を持つ “トモダチ” を、“宵闇” の呪文を使って効率的に強襲&強奪していたのだ。
「今だ、急げ!」
玄室 “第一” の扉の前でレットを担いだジグ。スカーレット。
そして呪文をかけたヴァルレハがパーシャたちに向かって叫んでいた。
カドモフが怒号を上げて暴れ狂う巨人たちの足元をすり抜け、パーシャたちと “第一” に駆け込む。
「――閉めろ!」
スカーレットが伐るように叫び、玄室の扉が閉ざされる。
やはり工兵隊によって頑丈な閂が取りつけられており、ガシャン! 乱暴な音を立てて下ろされた。
さらにはグレイ・アッシュロードが “ライスライト式” と呼んでいる、扉に障壁の加護を付与して強度を増す方法も採られ、ノエルやフェリリルといった聖職者が残されたありったけの加護を嘆願した。
ズズンッ! ズズンッ!
早くも “暗闇” の効果が切れた巨人たちが、代わる代わる扉に体当たりをしている。
加護の効果が続いている間は持ちこたえられるだろう。
だが切れたら……?
スカーレットが、ジグが、そしてパーシャ自身が、彼女の右手に嵌められた指輪を呆然と見つめていた。
金色に輝いていた魔法の指輪は、今や鉛色の “ガラクタ” と化していた。
扉へ加えられる衝撃が止む。
巨人たちが諦めた?
玄室に閉じ込められた七〇人の敗残兵たちの胸に、希望的観測がよぎる。
そんなことがあろうはずもないのに。
次の瞬間、扉の隙間から生物を腐らせ溶解させる猛毒の瘴気が入り込んできた。
“最悪の状況に限って、最悪の事態は訪れる”
“毒巨人” たちが扉に向かって 毒息を噴きつけているのだ。







