内なる宇宙④
「ええニャよ、エバ。エバが帰りたくにゃーなら、エバがここにいたいにゃら、ニャーもここにいていいニャよ」
子猫の子供が……猫人というらしい種族の子供が……柔らかく温かい手を触れて、わたしを見上げています。
人間で言えば、せいぜい小学校に入学するかしないかぐらいの背丈です。
不安でしょうに。
怖いでしょうに。
こんな危ない所にきてしまって、邪悪な魔物を見て、その上お母さんともう会えないといわれて。
泣き出したいほど、恐ろしいでしょうに。
それなのにこの子は、精一杯の笑顔でわたしを慰めてくれているのです。
「……肉球……柔らかいね……いい気持ち……」
グスッ、と鼻をすすると、わたしは微笑みました。ギコチナイ……ギコチナイ笑顔でした。
「猫人は大きくなると人間と同じ手になるんにゃよ。でも小さい頃はまだ猫と同じにゃんよ。ニャーはまだ子供だから、猫の手にゃんよ」
それは子供らしい恥じらいなのでしょうか。
柔らかく艶やかな体毛に覆われた顔がモジモジとはにかみます。
「あなたの名前は?」
「ノーラ・ノラにゃ。こっちのエバはノーラのこと忘れてしまったんニャね」
ノーラ……ちゃんの声に、寂しそうな気配が漂いました。
「……ごめんなさい」
「ええんにゃよ。また仲良くなればいいだけにゃ。二回も友だちににゃれるにゃんて、考えようによってはお得にゃ」
「考えようによって……はなんて、あなたは随分おませちゃんなのね」
「ちっ、ちっ、ちっ、ニャーは女の子にゃから、より厳密には “おしゃま” にゃ。言葉は正しく使にゃーといけにゃいんにゃよ」
「ふふっ、そうね……本当にそうね」
「……ひとまず “迷宮街” に戻ろう。こんな所に子供を置いておくのは可哀想だ」
道行くんが疲れた声で言いました。
その道行くんを、ノーラちゃんが大きな瞳をパチパチさせて見つめました。
「アッシュ……?」
「……あ?」
「やっぱりアッシュにゃ! アッシュドーロにゃ!」
「アッシュ……なんだって?」
「髪の毛の色が黒にゃし、匂いが全然しにゃいんでわからなかったにゃ!」
「……匂い?」
ノーラちゃんの言葉に、道行くんがクンクンと自分のローブを嗅ぎます。
「……おまえは風邪でも引いてるんじゃねーか? 自分で言うのもなんだが、これまでの戦闘でだいぶ臭うぞ、俺」
そしてなんとも表現のしづらい顔で、ノーラちゃんを見る道行くん。
直接返り血を浴びなくても、血の臭いは衣服に……身体に染みつくのです。
「NPCには匂いがないのよ。新宿から浦安に来るまでの間も、あんた達が “迷宮街” って呼んでる町でも、この子の鼻は反応しなかった。この世界で匂いがあるのは、あの魔族を除いたら、あんたとあたしとそしてこの子だけ」
いつの間にか冷静さを取り戻していたリンダ……今や唯一人のリンダとなった……が、充血した目を道行くんに向けます。
「NPC……ノン・プレイヤー・キャラクター? ――違う! 道行くんはそんなんじゃない!」
わたしはカッとなってリンダに詰め寄りました!
例えリンダでも、道行くんを侮辱するのは許さない!
「道行くんは人間です! わたしやあなたと同じ、現実に存在する灰原道行くんという人間です! 今の言葉、取り消して!」
「瑞穂、あんたに真実を教えてあげるわ。これを希望にするか、それとも絶望にするかはすべてあんた次第よ」
リンダは激高したわたしに動じることなく冷めた……いえ、どこか憐憫の籠もった瞳で言いました。
「道行くんは現実の世界にも存在する。あんたのすぐ近くにね。年格好はかなり違うけど間違いなくそこにいる彼よ。名前はグレイ・アッシュロード」
「……グレイ……アッシュロード……」
「いま聞いたことのある名前だとは思わなかった? 当然よ。あんたの命を……心を救ってくれた人なんだからね」
……心を救ってくれた人……。
「だからあんたは、この子猫を母親の元に返してあげた先で道行くんと再会することもできるわけ。一石二鳥。一挙両得。何の問題もなし――ただし」
「ただし? ただし、なんです!?」
「現実の世界の彼が、あんたを愛しているとは限らない。目覚めた先にいるのは灰原道行でなく、グレイ・アッシュロードなんだから」
「……そんな……」
「問題にもならない」
「……道行くん……」
「現実だろうと夢の中だろうと、俺が瑞穂と出会って惚れてないわけがない」
◆◇◆
「……あのふたり、可哀想にゃ……」
ノーラ・ノラが視線の先、反対側の壁際で寄り添う瑞穂と道行を見て呟いた。
「……こんな所で立ち往生してるあたし達の方がよっぽど可愛そうよ」
すっかり偽悪的な物言いが染みついてしまったリンダが、やはり視線の先にふたりの姿を映して答える。
「……それでもやっぱり可哀想にゃ……好きな人と離れるのは悲しいにゃ……辛いにゃ……怖いにゃ……寂しいにゃ……ニャーもマンマと離れてるから、あのふたりの気持ちはよくわかるにゃ……」
「……」
『……少し、ふたりだけで話をさせてほしい』
道行はリンダとノーラにそう告げると、憔悴する瑞穂の肩を抱いてリンダたちから離れていった。
あのふたりは今、絶望の淵にいる。
希望と絶望ですって?
リンダは自虐的に胸の内側で呟いた。
我ながら酷い言い草だ。
希望などあるわけがない。
あるのは絶望だけ。
絶望はどこまで行っても絶望でしかない。
希望になど変えられるわけがない。
なぜなら自分がそうだった。
でも、もしかしたら……あの娘は違うかも。
枝葉瑞穂は……あのふたりは違うかも。
絶望の中から、希望を拾い上げてしまうかも。
かつて灰の中から命を……心を拾い上げたように。
もしそうであるなら……そうなるなら……それは自分にとってどんな意味を持つのだろうか。
敗北感。
劣等感。
決定的な失望。
絶対的な絶望。
もしかしたら…………救済。
どちらにせよ、とリンダは思う。
どちらにせよ自分は “グレイ・アッシュロード” には出会えなかったのだ。
粉々に砕かれ灰になった心を拾い上げて、繋ぎ合わせてくれる保険屋には出会えなかったのだ。
ならばこれから先も、この絶望と共に歩むしか……生きるしかないではないか。
狂ったように哄笑し、狂ったように滂沱したリンダの心は、奇妙に穏やかだった。
◆◇◆
「……こんなの……酷いよ……」
道行くんに肩を抱かれながら、その胸に顔を埋めてグズります。
これまでの探索と戦いで黒に近くなってしまったベージュのローブに、涙の染みが滲みます。
「……そうだな……酷いな……」
肩に回していた道行くんの手が伸びて、わたしの髪を優しく撫でてくれました。
「……みんなで暮らそうよ…… “迷宮街” で……暮らそうよ……わたしがノーラちゃんの新しいお母さんになってあげるよ……」
「……そうだな……それがいいな……おまえならきっといいお母さんになる……」
「……うん……なるよ……必ずなるよ……だって……だって……」
それ以上は……言えません。
それだけは言えないのです。
わかっています……。
わかっています……。
これは儀式……。
子供がどうにもならない事実に直面したとき、駄々を捏ねて、泣き喚いて、疲れ切ってからでないと受け入れられないように……。
わたしたちもそうなのです……。
わたしと道行くんも、いま精一杯駄々を捏ねているのです……。
ですが……その儀式も終わりに近づいて来ました。
わたしたちは泣き疲れ……くたびれ果て……事実を事実として受け入れる準備が整ってしまいました。
そして、それを認める……そういう役目はわたしではなく、いつもこの人が先にやってくれます。
「……でも……」
わたしの髪を優しく撫でながら、道行くんが玄室の反対側の壁際に座っているノーラちゃんを見つめました。
「……やっぱり、あの子を本当のお母さんのところに帰してやらないとな。それが今は何よりも大切で重要なことだ」
「……わかってるよ……わかってるよ……だけど消えちゃうんだよ……道行くん……消えちゃうんだよ……」
最後の抵抗……最後のわがまま……最後の駄々……。
あなたの優しさが憎らしい……本当に憎らしい……。
なんでもっと悪い人ではなかったの……。
自分ことだけ考える利己的な人ではなかったの……。
「……俺は消えないよ。おまえが覚えていてくれる限り、おまえの中で生き続ける」
「……格好付けてる……似合わない……似合わないよ……そんなの全然……」
「……俺の彼女は相変わらず厳しいな。こんな時ぐらい格好つけさせてくれ」
「……愛してる」
もう、この言葉しかない。
もう、この言葉しかないの。
他のどんな言葉も、今のわたしの気持ちを――心を伝えることはできないの。
「……愛してる……愛してる……愛してる……愛してる……愛してる……道行くんを愛してる」
「……俺も、瑞穂を愛してる」
道行くんがわたしの頭を抱き寄せます。
うっすらと無精髭の生えた尖り気味の顎が前髪に当たります。
「……だから、現実の世界の俺がもしおまえに素直になれないようなら、ガツンと一発カマしてくれ。俺は……草食系だから」
「……うん……うん……わかった……ガツンと一発カマしてあげる……絶対に……絶対にカマしてあげる……素直にしてあげる……約束する……約束するよ……」
「……おまえに会えてよかった、瑞穂」
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「答えは出たみたいね」
戻ってきた道行くんとわたしに、リンダが訊ねました。
「“アカシニア” という世界のことを詳しく教えてください。わたしが出来る限り思い出せてイメージ出来るように」
わたしはリンダの瞳を見つめて、キッパリと言い切ります。
「現実の世界に戻ります」







