ハンナ・バレンタイン★
はじめに “空虚” あり
空虚 “力” を育む苗床となる
育まれし力 次第に強まりて爆ぜり
爆ぜた力 “時” と “場所” を生む
生まれ出でた時と場所 ついに “女神” と “男神” を誕生さす
誕生せし女神と男神 つがいて “世界” をつくる
故にこの世界のはじまりは “空虚”にあり
故にこの世界は “アカシニア” と呼ばる
――今は禁忌となりし、異教の哲学書より。
◆◇◆
馬小屋に差し込む日の光はすでに高く、わたしは眩しさにようやく目を覚ましました。
しばらく寝藁の上でまんじりともせずにお日様の暖かさに甘えていましたが、やがて踏ん切りをつけて身体を起こします。
「う~~~~~んっ!」
と目尻に涙を浮かべながら大きな伸びを一発。
本当によく眠りました。
泥のように眠るとはまさにこのこと。
藁のチクチクも気にならないほど、ぐっすり眠れたのはこれが初めてです。
昨日はいろいろなことがありすぎて、悪い夢にうなされるのではないかと思っていましたが……。
疲れ切った心と身体には、悪夢の入り込む余地はなかったようです。
わたしは腫れぼったい目蓋のまま立ち上がると、ストレッチをして強ばった身体を解しました。
すでにお昼近い時間だからでしょうか。
周りにはわたし以外の探索者の姿はありません。
本来この馬小屋の主であるお馬さんの姿もです。
もっともこれはいつものことで、馬糞が乾いて粉塵化したものを吸い込んだ人が肺を患うのが問題となり、この “大君主トレバーンの城塞都市” では軍隊と特別に許可された人以外の馬の乗り入れが禁止されているのです。
荷馬車が使えないのでは物流が滞って人々の不満が高まるのでは?
とも思いますが、逆に荷車を引く人足仕事の需要が増えて雇用問題解決の一助になったとか。
ですからこの城塞都市では、“筋力” にさえ自信があればいつでも荷車引きの仕事に就けるのだそうです。
『これが本当の “糞塵公害”とその模範的な解決方法だな』
と社会科が好きな大門くんが、妙に感心した顔で言っていたのを覚えています。
大門くんとは……昨日寺院で別れたあと一度だけ話をしました。
わたし同様に無一文になってしまった彼らに、アッシュロードさんから借りたお金を渡す必要があったからです。
大門くんたちは馬小屋で途方に暮れていました。
この城塞都市には、もうそこしか行く場所がなかったのです。
わたしは “獅子の泉亭” の女給さんに頼んで、大門くんを酒場に呼び出してもらいました。
そして彼に正式にパーティを抜ける意思を伝えました。
リンダとの関係がああなってしまった以上どちらかが抜けるしかなく、抜けるとすればそれはわたしだ、と。
大門くんは沈痛な表情で話を聞いていましたが、
『……やっぱ、それしかねえよな。あんな状態のリンダを一人にはできねえしな……』
苦しげに納得してくれました。
わたしはそれから、アッシュロードさんから貸し付けてもらった迷宮金貨を大門くんに手渡しました。
新しい装備の購入資金と当座の生活費として借りたものです。
一〇〇〇枚を六人で均等に分配した結果、一人頭一六六枚になりました。
(余った四枚は大門くんが強引にわたしに握らせてくれました)
大門くんはそのお金で、蘇生直後で減ってしまったみんなの生命力 を回復させるために、全員で簡易寝台に泊まることにしたようです。
別れ際に大門くんは、
『おまえがしてくれた借金。絶対に俺たちが返すから。絶対に絶対に返すから』
と約束してくれました。
(……でも、これはわたしがわたしの意思で背負ったものだから)
だからわたしが自分の力で返さなければならないのです。
そのためには、パーティを組んでくれる新しい仲間を見つけないと。
探索者ギルドに行って回復役を求めてるパーティを探すか、それとも一からメンバーを集めるか。
どちらにしても猶予は一ヶ月しかありません。
急がなければならないのです。
でも、その前に――。
「まずは顔を洗って、朝ごはん!」
です!
◆◇◆
「――あ、お帰りなさい」
遅い朝ごはんを食べて探索者ギルドに行くと、わたしの登録をしてくれた受付嬢さんがパッと明るい笑顔を浮かべてくれました。
お帰りなさい。
とてもいい挨拶だと思います。
一度死んで甦ったわたしに、重すぎず軽すぎず。
深刻な顔で同情されるのも、事務的に淡々とスルーされるのも、どちらも微妙に空々しさを感じてしまいますから。
探索者ギルドの受付さんは皆さん若い女性で、明るく利発で(当然、読み書きが出来て)、すごく奇麗な人ばかりです。
もちろんそれは、一部で公然と “迷宮無頼漢” などと蔑まれている荒くれ者の探索者の相手をするからです。
少しでも彼らとの緩衝材になることをギルドから求められているのでしょう。
その分お給金もよく、城塞都市に暮らす町娘たちの憧れの職業なのだとか。
元の世界なら差し詰めハローワークの正規職員さん?(ちょっと違うかな?)
登録して以来、わたしを担当してくれているこの受付嬢さんは、名前を “ハンナ・バレンタイン” さんとおっしゃいます。
美人揃いの受付さんの中でも一番若くて奇麗な人で、年齢は二〇歳ぐらいでしょうか。
わたしに “迷宮保険” を勧めてくれた人でもあり、言うなればわたしの一番の命の恩人とも言える人です。
「お陰様でなんとか生き返ることができました」
わたしは面映ゆい思いで頭を下げました。
散々注意・警告されていたにも関わらず、最初の探索で全滅してしまったのは、やはり気恥ずかしいです。
「定石が確立されているとはいえ、それが全てではありませんから」
ハンナさんは慰めるような眼差しを向けてくれました。
「今でも初めて迷宮に入る探索者の生還率は、七割をどうにか超えている程度ですし」
「わたしがこうしてまたここに立っていられるのは、バレンタインさんが迷宮保険を――アッシュロードさんを紹介してくれたからです。本当にありがとうございました」
再び、今度はさっきよりも深く頭を下げます。
「わたしのことはハンナでいいですよ」
穏やかに照れ笑いを浮かべるハンナさん。
それから表情を少しだけ真面目にして、真摯な声で、
「勧めたのはわたしですが、それを選択したのはエバさんです。あなたは自分で自分の命をつかみ取ったんですよ」
大人の女性の立ち振る舞いに、わたしは『……はい』と小さくうなずくだけです。
「それにしても……パーティの他の方は残念でした」
「え?」
「その……仲の良いお友だちだったのでしょう?」
ハンナさんが気遣わしげな表情を浮かべています。
あ、これは……お互いの認識に齟齬がある気配がします。
「あ、いえいえ、ご心配なく。無事に全員生き返りましたから」
慌てて顔の前で手を振って、昨日の出来事をできる限り詳しく説明します。
「えっ!? それじゃアッシュロードさんと一緒に迷宮二層まで!?」
「は、はい」
「アッシュロードさんってば、まったく何を考えてるのかしら! こんな小さな女の子をあんな所まで連れていくなんて!」
いつの間にか、小さな女の子に格下げです……。
「あ、でもそれはわたしが無理に……」
「地下二階は最低でもレベル5のフルパーティで臨むのが定石なはずなのに!」
「だ、だからそれは……」
「だいたいあの人自身が無茶なんです。無茶苦茶なんです。麻痺 だの 石化 だの致命攻撃だのがある迷宮に平気な顔して独りで潜っちゃうんですから。どんなに生命力が高くたって運が悪ければ苔むした墓なのに――そんなことだから “アンドリーナの息子” だなんて陰口を叩かれるんです」
…… “アンドリーナの息子” ? “大魔女アンドリーナ” の?
「あの、それってどういう……」
気になる単語がでてきたので訊ねてみましたが、ヒートアップしてしまったハンナさんにわたしの声は届かず……。
「それに装備だって、いくらでも良い魔剣が買える収入があるはずなのに、みんな飲んじゃうからいつも中古の鈍ばかり使ってるし」
……ああ、やっぱりのんべなんですね、あの人。
「鎧だってそうです。仮にも君主なんですから、“君主の聖衣” とは言わないまでも、“悪シリーズ” ……は滅多に入荷しないから、せめて “極上品” くらい買ってほしいです。“剣は捨てても盾は捨てるな” って聖騎士の有名な格言があるのを知らないのかしら」
……その盾だって、わたしに貸しちゃいましたし。
「それに、それに――ああ、もう、あの人は! とにかく滅茶苦茶なんです!」
憤懣やるかたなし! ……な形相のハンナさん。
もはや、わたしには掛ける言葉がありません。
と、その時。
タイミングよくというか悪くというか、当のアッシュロードさんがギルドに入ってきました。
「……あ」
「――あ!」
「…………あ?」
わたし、ハンナさん、そしてアッシュロードさんから漏れる、三者三様の『あ』。
「アッシュロードさん、ちょっとこっちに来てください!」
ハンナさんが勢いよく椅子から立ち上がると、アッシュロードさんを睨みます。
「お説教です!」