交錯2
週末の土曜日、待ち合わせの駅前に到着するとマキはもう来ていた。派手なドレスではなく、ジーンズ姿のラフな格好だ。栗色の長い髪は、後ろで一つにまとめている。
僕の姿を見つけると、彼女は大きく手を振って笑顔を浮かべた。夜の彼女とはあまりに違う印象に、僕は戸惑いを隠せなかった。本当に、あの夜に会ったマキと同一人物なのだろうか。
馬鹿なことをしているのは、自分が一番分かっていた。しかし、無視出来なかったのだ。結論を言うと、僕はマキの誘いに応じたのだった。
「ごめん、待たせたね」
「ううん、大丈夫。それより来てくれてありがとう」
太陽の下で見る彼女は、やはり真由紀とは違う顔をしていた。わざわざ卒業アルバムを実家から送って貰い確認したのだが、年齢やメイクでは説明のつかないほど顔の作りが違うように見える。
思い過ごしだったと、そう思い込もうとしている自分に気が付いた。我ながら非現実的というか、妄想に近い考えだ。しかし僕はその妄想を、妄想で片付けられないでいた。
「ちょっと歩こうよ」
マキはまたも僕の腕に絡みつくと、公園の方へ歩き出した。今日は香りの強いコロンは付けていないようだ。春先の日差しに照らされて、少し暑いくらいの陽気。彼女はまるで少女のように、屈託のない笑みを僕に見せていた。
「あの、今日は」
「また、野暮なこと?」
むっと唇を尖らせたマキに、僕は口を噤んだ。理由なんて、もう関係ない。僕はマキの誘いに応じてここに来たのだ。
「今日はね、“一生分”楽しみたいな」
「一生分って」
大げさな表現に、思わず苦笑した。マキは力いっぱい僕の腕を抱き締めると、噛み締めるように言う。
「うん、一生分だよ」
涙をこらえるような微笑みに、僕は何も言うことが出来なかった。
その日は、振り返ってみれば何の変哲もない一日だったのかもしれない。
駅で待ち合わせて、公園を散策して、お昼を食べて、水族館へ行って。まるで中学生のようなデートコースだったが、僕はどこかでずっとこんな日を待ち望んでいたような気がする。
それは、あまりに二人でいることを自然に感じていたからかもしれない。昨日今日会ったばかりだというのに、二人でいることが当たり前のようにすら思っていた。そう、僕は気付かないふりをしていたのだ。マキのうなじに、真由紀と同じ黒子がある事を。
水族館を後にした僕らは、その近くにある海の見える広場で、ベンチに横並びで座っていた。足には心地よい疲労感が、泡のようにまとわりついている。
「これ、お土産」
「えっ、ほんと? ありがとう!」
僕は一つの包みを、マキに差し出した。先ほど水族館で購入したものだ。彼女がそうなら、きっと覚えている筈だ。
嬉しそうに包みを開けるマキの表情が、途端に曇る。中から出てきたのは、桜色のタオルハンカチだ。
マキは伏し目がちになり、まるで悪戯を見付けられた子供のようにも見えた。もう、僕にはそれを無視することは出来なかった。
「……覚えているものだね」
僕の声に、マキはびくりと肩を震わせた。
「いつか家族同士で水族館に行った時だったっけ」
「やめて……」
僕は真由紀に桜色のハンカチを、真由紀は僕に空色のハンカチを、互いに贈ったのだ。
「そんな馬鹿な話があるかと、そう思っていたけれど」
「やめて!」
マキは耳を塞いだ。彼女が落ち着くまで、僕はずっと黙っていた。何故、という思いもある。どうして、という思いもある。だが、同時に僕は思い知っていた。
きっと、ずっと僕は真由紀のことが好きだったのだ。自分自身の片想いを殺せなかった結果が、これだった。
「……いつから?」
か細い声で、すがるようにマキは訊ねた。
「初めて会った時には、何か予感があった。でも確信したのは今だ」
「鈍いようで、隆央はいっつもそうだね」
マキの泣き顔と、真由紀の泣き顔が重なる。
「真由紀、そう呼んでもいいのかな」
僕の問いに“彼女”は首を振った。
「今のわたしは、マキだから」
「じゃあ、せめて聞かせて欲しい」
僕が言葉を口にするたび、まるでマキに刃を突き立てているようだった。
「何があったの? 高校で? それとも大学? 地元を出て行ってから、一体何が」
どれくらいの沈黙があっただろう。伏し目がちになったマキは、何か言いかけては言い淀み、その姿はまるで迷子のようだった。
「たとえば、さ」
マキはひどく不器用に笑うと、こう言った。
「わたしが何度も時間をやり直しているって言ったら、信じてくれる?」
「時間……を?」
最初は理解が追い付かなかった。だが、マキは何かを決心したかのように続ける。
「もう何度も、隆央が死んでしまうのを見てきたのよ」
中学生の時も、高校生の時も、大学生の時も、社会人になってからもあった。
彼女は何度も、僕の死を見続けてきたというのだ。
「その度に、時間をやり直してって……一体どうやって」
「自殺したの」
マキはただ一言、そう告げた。
「そうして次に目覚めると、隆央が死ぬ前の……時期はバラバラだったけれど、どこかの時間に戻っていた」
「じゃあ、今のマキは」
大学四回生の冬から中学校の入学式に戻って、やり直しているという。
映画や小説ではあるまいし、にわかには信じられない話だった。だが、それが嘘だとは言えない程に彼女の目は真剣だ。
「どうして僕は死んだのかな」
「死因は一つじゃなかった。ただ、どうして死ぬのかは決まっていた」
告白。マキはぽつりと呟いた。
「わたしが隆央に告白すると、その次の日に。もしくは、隆央がわたし以外の子と付き合ってもそうだった」
彼女の瞳から、みるみるうちに涙が溢れ出る。僕はそれを見ると、衝動的にマキを抱き締めていた。
「待って、やめて」
「君の泣き顔は見たくない」
言い訳のようにささやかな抵抗をしているが、マキはそれでも僕に身を委ねていた。
「本当に、駄目なの。だって――」
「僕は君のことが――」
ずっと好きだった。そう言いかけた瞬間、唇を塞がれた。
どこかを切った訳でもない。
なのに、その口づけは何故だか、血の味がした。
「隆央が告白してくれると、わたしが死ぬみたいなの」
つまり僕らは二人は、互いに想い合っていたにも関わらず、必ずどちらかが死んでしまうのだ。
マキは孤独を描くように口角を上げて、僕の腕を離した。
「隆央に告白された時、本当に嬉しかった。その時が一番幸せかもって、そう思えるくらい」
どうして真由紀がマキとなったのか。その理由を、僕はようやく理解した。
だが、それはあまりに悲しくて、やるせなくて、そんな悲劇があっていい筈がない。
そう、僕は彼女に守られていたのだ。
「それで、マキは消したのか。百瀬真由紀という存在を」
住む場所を変え、顔を変え、名前を変え、彼女は別人になった。
僕の幼なじみだった、百瀬真由紀という存在は、少なくともこの時間には存在しないことになっている。
つまるところ、彼女は自らの存在こそが僕――柊木隆央の死をまねく呪いだと、そう結論付けたのだった。
「だからって……だからって、そんなこと!! 僕を守るために、自分を消すだなんて」
僕は、馬鹿だ。
それがどれほどマキを傷付けるかくらい、分かっていた筈なのに。
「そんなこと、僕はして欲しくなかった!!」
僕は、マキと、真由紀を否定したのだ。
「やめてよ!」
今度はマキが声を荒げた。はっきりと分かるくらい、肩を震わせている。
「隆央に否定されたら……わたしのしたことって、一体何だったの?」
僕は、何も言えなくなった。とても彼女の目を見ていられなくて、思わず顔を伏せる。
遠くで船の汽笛が響く。夕日はもう、水平線の向こうへ沈みかけていた。
「お金が必要だったから、夜の店で?」
「中卒で、顔も名前も変えるためには、そこくらいしか働く場所が無かったの」
夕日が沈んでいくと共に、首をゆっくりと絞められていくような気分だった。
早く夜になって欲しい。昼と夜の境は、真由紀とマキが溶け合っているようで、耐え難かったのだ。
「どうして……なんて、言えないな」
僕は何も知らず、マキと出会うまで真由紀の名前も口にしていなかったのだから。
マキは黙って、僕が何か言うのを待っているようだ。
「これから、どうしようか」
そこには、これからどうすればいいのだろう? という、問い掛けも含まれている。
「きっと、もう会わない方がいい」
僕は再び、マキの顔を見た。
日が暮れて、電灯に照らされたその顔に真由紀の面影はもう無い。
「……わかった」
これで良かったのだろう。僕が何も知らなければ、あるいは違った関係を築けたのかもしれない。
だが、僕は追い詰めてしまった。そして知ってしまった。
真由紀は今日、本当の意味で消えてしまった――いや、僕が殺したのだ。
僕らは、さよならも言わずに別れた。