悪戦苦闘
「ふぇ~! ふぇ~! びぃえ~!」
思いまぶたを開いて、気だるい体を起こし、ベッドの横にあるゆりかごを覗く。
アーヤが口を全開にして泣き声を上げている。
アーヤを抱き抱えて、優しく体を揺らす。
「大丈夫だよ~。ここにいるからね~」
あくびを噛み殺して、アーヤに語りかける。
「大丈夫、大丈夫~。怖くないよ~」
「ふぇっ、ふぇっ。うぅ~……」
眠りの世界に入ったのか、小さな寝息を立て始めた。
アーヤを静かにゆりかごに寝かせる。
堪えていたあくびをして、窓に目を向けた。
「今、何時頃だろう……」
窓を開けると、空には月が輝いていた。
柔らかな月明かりが森を照らしている。そう、今は夜中なのだ。
「もう、今日は大丈夫かな」
寝ているアーヤを見て、布団の中に入った。
意識が徐々に遠退いていく。ゆっくり寝れそうだ。
「びぇ~ん!」
「あぁっ。また泣いちゃった」
・ ・ ・
「ふぁ~~~~」
口が割けるのではないかと思うほどの、あくびをした。
大樹の外にある井戸から水を汲んで、顔を豪快に洗う。
これで少しは眠気が晴れた。
朝の日課の野菜への水やりと、鶏とヤギの世話を始める。
ヴィヴレットの家に置いてもらって、早三ヶ月が過ぎていた。
いつか追い出されるかと思っていたが、ヴィヴレットは本当に優しく、家にいても良いと言ってくれた。
そんな身なのでヴィヴレットが今までで行っていたことで、僕にできることは率先して行っている。
家畜の世話を済ませて卵とミルクを回収し、大樹の中へと戻る。
玄関のドアを開けたところで、ヴィヴレットと鉢合わせた。
「おはようございます、ヴィヴレットさん」
「うむ、おはよう。今日もなかなか酷い顔をしておるぞ。昨日もすごかったのか?」
「はい……。昨日の夜泣きも酷かったです」
言って、ため息をついた。
ここ最近、アーヤは夜泣きをするようになった。あやすと早い内に寝てくれるが、頻度が多い。
お陰で最近は寝不足が続いている。
「泣くのは子供の仕事じゃからな。頑張らねばな」
「そうですね。卵とミルク、キッチンに置いておきますね」
「うむ。では、朝食を作るとするかのぉ」
食事はヴィヴレットが作ってくれている。というより、僕が作れない。
ヴィヴレットの料理はどれも美味しい。本人は謙遜するが、お世辞ではなく本当に美味しいのだ。
「ふぇ~、ふぇ~」
アーヤの泣き声が2階から聞こえた。お腹が減ったのだろう。
僕達の食事の前に、ミルクをあげないと。
そう思い、足を進めようとした。
「ん?」
足が前に出なかった。何でだろう?
アーヤが泣いている。早く迎えに行って食事にしよう。そうしよう。
なのに、足が棒にでもなったかのように動かなかった。
何だ、これ?
何がどうなったんだ?
「おい、アーヤが泣いておるぞ。早く行ってやれ」
キッチンからヴィヴレットの声が聞こえた。
その声で硬直していた体が、動くようになった。
どうして動かなかったんだろう。
深く考えても仕方がない。早くアーヤの下に行こう。
二階の部屋に入ると、アーヤが大声で泣いていた。
放置していた時間が長かったせいだろうか。抱っこして機嫌を少しでも良くしよう。
ゆりかごの傍に立ち、中で泣いているアーヤを見つめた。
泣いている。何で泣いているのだろう?
ここまで泣く必要があるのか?
お腹が減ったのなら、ちょっと泣けば僕は気づく。それ以上に泣いて、僕に何をしろって言うんだ?
夜だって、何で泣くのか分からない。泣き止ませても、また泣く。
その度に僕は起きて、泣き止むまで相手をさせられている。
何で泣くんだ。僕にどうしろって言うんだ。
「僕にどうしろって!」
高ぶった感情を口から吐き出してしまった。
僕の声に驚いたのか、アーヤはより激しく泣いた。
僕に何の不満があるんだ。やれることはやっているのに。
「僕に……どうしろって、言うんだよ……」
吐いた弱音は、アーヤの鳴き声でかき消された。
・ ・ ・
アーヤにミルクを飲ませて、ヴィヴレットの用意してくれた朝食に手をつける。
パンにスープにスクランブルエッグ。
簡単に思える料理だが、それを美味しく作れるのはヴィヴレットの料理の腕が高いということだ。
だけど、今日はいつもと違った。
いや、違うのは僕の方だ。
「ユージン、どうかしたのか? 生気が薄いぞ?」
食事の手を止めたヴィヴレットが僕を見つめている。
「いえ、大丈夫です。今日も食事美味しいです」
「そうか? まぁ、大丈夫なら良いが」
嘘だ。大丈夫じゃない。朝から僕はおかしい。
アーヤに対しての接し方が今までと違う。感じた事のない苛立ちが湧いて来ている。
言っても仕方がないことを吐き出してしまった。
ヴィヴレットが言った通り、赤ん坊は泣くのが仕事だ。
それくらいは分かっている。分かっているつもりだ。だけど、そう思えない。
泣くのが仕事なら、僕にはその対価はないのか?
何の得があって、僕が泣き止ませないといけない?
考えれば考える程、不条理だ。何で、僕がアーヤを育てないといけないんだ。
「ユージン? おい、ユージン?」
「あ、はい。すみません、ボーっとしてました」
「本当に大丈夫か? ウーベルト村のノルドがお前に会いたいと言っておったぞ。明日、一緒に行かぬか?」
「えっと……」
ノルドとは子供の熱を冷まして以降、家族全員と仲良くさせてもらっており、会った日は泊めてもらい楽しい時間を過ごしている。
その光景が頭を過った時、邪な考えが浮かんだ。
「じゃあ、行きます」
「そうか。では、明日は朝から出発しよう。ちゃんと夜の内に準備しておくのだぞ」
「そんなに子供扱いしないでくださいよ。大丈夫です」
「わしからしたら、まだまだ子供じゃ。さて、食事が済んだのなら、片付けるとするか」
ヴィヴレットが食器を持ってキッチンに向かう背中を見て、少しだけ罪悪感が湧いた。
ノルドの家に行った時、アーヤはノルドの妻と息子が相手をしてくれている。僕の代わりに相手をしてくれるのだ。
少しでも良い。今の状況から逃げたい。そう思って、僕はウーベルト村に行くと言った。
僕は卑怯者なのだろうか?
自問しても、答えは出なかった。
・ ・ ・
窓を開けて、夜空を眺める。
今日は雲が遮って、月も星も見えない。重く気怠い空は僕の心情と似ている。
今、アーヤは静かに寝ているが、いつも通りなら夜中に何度か起きるだろう。
その度に僕は目を覚まして、疲れが溜まった体で面倒をみる。
そう思うと、寝るのも億劫になってきた。でも、寝ない訳にはいかない。疲れによる睡魔は嫌でも襲ってくるのだ。
早速、眠気が押し寄せてきた。
あくびをして、布団の中に潜り込む。意識が溶けていきそうな眠気に身も心も委ねていると、耳に泣き声が届いた。
アーヤが泣いている。
もう起きてしまったのか。早く寝かしつけないと。
横たわった体を起こそうと力を入れた。
だが、体は起きなかった。
まただ。体が僕の言う事を聞かなかった。
どうして体が動かないのか。
理由は簡単だ。
もう子育てに疲れた。ただ、それだけだ。
僕はまだ子供だ。子供なんだ。そんな子供が、更に小さな子供を育てるなんて無理がある。
何で僕が赤ん坊の面倒を見ないといけないんだ。
何度も同じ言葉が頭の中で反芻する。
僕だってまだ子供なんだ、と。
そうして僕は、アーヤの涙が枯れて寝るまで、目を瞑り現実から逃げ続けた。