思いよ、届け
馬車の荷台に揺られながら、手にした紙を広げて見つめる。
『わしは魔法大学校の教授になることを決めた。もう、家に戻ることはない。後任の魔女が後ほど行くだろう。できれば、お主にはそやつの補佐をしてやってほしい。ヴィヴレット・ティンバー』
たった、これだけ。
僕に対しての手紙なのに、たったこれだけしか書かれていないのだ。
アーヤのことも書かれていない。僕に対する思いも書かれていない。
こんな文だけでは納得できない。
離れるなと言った人が、僕から離れて行った。そんなの認めたくない。
何か理由があるはずだ。そうでなければ、こんなことを書かない。書くはずがない。
「パ~パ~?」
アーヤが僕の顔を見て、きょとんとしている。
「ごめん、何でもないよ。ばぁばに早く会えると良いね」
「う? ば~ば? ば~ば!」
「うん、そうだよ。会いたいね。会いたいよ……、ヴィヴレットさん」
思わず顔をしかめる。
苦しい。心が苦しいと、胸も苦しい。息をするのも苦しく感じる。
頭の中では悪い想像しかできない。僕を拒絶するヴィヴレットの顔が。
そんな顔を見たことはない。なのに、手紙に書かれた文字から、そんな顔が想起されてしまった。
「おい、ユージン。大丈夫か? ひどい顔をしているぞ?」
御者台に乗って、馬を操っているノルドが言った。
「大丈夫です。ノルドさん、すみません。馬車を出してもらって」
「いつも世話になっているから、これぐらいさせてくれ。魔女様は帰ってこないのかなぁ」
ノルドの言葉に、何も返せない。返すことができないのだ。
帰ってこない。口にしたくない。口にしてしまえば、その分だけヴィヴレットが遠くに行ってしまいそうだから。
口をきつく結んで、顔をうつむけた。
会話は自然に終わり、残ったのは馬車が軋む音だけだった。
・ ・ ・
王都グレイストン。
何重にも並ぶ、城壁に囲まれた大都市だ。
城壁の周りにも家が軒を連ねており、商店が立ち並んでいる。
ノルドとはここで別れ、僕は門をくぐって魔法大学校を目指す。
王都の中は人で溢れており、人混みに呑まれてしまいそうに何度もなった。
人に何度も魔法大学校の場所を聞いて、慣れない王都の中を彷徨った。
目当ての魔法大学校に到着した時、息を呑んだ。
三階建ての石造りの建物だ。壁にはいくつもレリーフが刻まれており、素人の僕でもその建築美に圧倒される。
綺麗に手入れをされている庭には、学校の制服なのか赤いローブを羽織った生徒が談笑していた。
深呼吸をして、魔法大学校の門をくぐろうとした。
「ちょっと、君。ここの生徒じゃないよね?」
折り目正しい青いシャツを着た男性が僕に駆け寄ってきた。
「入構証は? 持っていないなら、いれられないよ?」
「えっ? そんな。人に会いに来ただけです。お願いです。入れてください」
「ダメダメ。規則だからね」
「お願いします! 僕はヴィヴレットさんに会いたいんです! 会わないとダメなんです!」
何度も男性に懇願する。
その度に首を横に振られて、却下された。
ここで入れなかったら、僕は何をしに来たのか分からない。
何が何でも、中に入らないと。
「ヴィヴレットさんに! ヴィヴレットさんに聞いてください! お願いですから!」
「ダメなものはダメなんだよ。ちゃんと手順を踏んで。ん?」
男性が僕から目を離した。その視線につられて、振り向いた。
そこには長い白髪の老婆がいた。顔にはいくつもしわが入っており、腰が曲がっている。
杖を手にして、こちらにゆっくりと向かってきた。
「ふ、副校長。お疲れ様です!」
「はいはい、お疲れ様ですよぉ。あなた、ヴィヴレット教授のお知り合い?」
上品な声をしていた。
思わず恐縮してしまい、頭を何度も下げる。
「そうなの。じゃあ、一緒に中に入りましょうか。それなら、良いわよねぇ?」
副校長と呼ばれた老婆が、男性に言った。
男性は曖昧な顔をし、少し間をおいて頷いた。
「よかったわねぇ。あ、先に行っていて。私、足が遅いから。ヴィヴレット教授なら、二番棟にいるわ」
「あ、その、すみません。ありがとうございます」
「お気になさらず。あなたは会わないとダメなんですもの」
「え?」
「こちらのお話です。どうぞ、行かれて」
副校長の言葉に頷いて、魔法大学校の中に入る。
道行く生徒に声を掛けて回る。
行き着いた二番棟は、教授の部屋が並んでいた。
表札にヴィヴレット・ティンバーの名があった。
ここだ。この先にヴィヴレットがいる。唾を飲んで、ノックをした。
「誰じゃ?」
ヴィヴレットの声だ。胸の高鳴りが更に高く鳴った。
「ユ、ユージン……です」
震える声で言った。
「入れ」
言葉に従って、ドアを開け中に入る。
部屋は思った以上に大きかった。壁際に幾つも本棚が並んでおり、教授の部屋として相応しい作りをしている。
応接用のテーブルが手前に置かれており、その奥には重厚感のある机があった。
その机にヴィヴレットはいた。
ヴィヴレットだ。ヴィヴレットがいる。たった二週間会っていないだけなのに、ひどく懐かしい。
ただ、その表情は僕が見た事のないものだった。
「何をしに来た?」
固い声だった。
こんな声、聞いたことがない。
「そ、その……。僕、ヴィヴレットさんに会いに」
「会いに来て? わしに森に戻れと言いに来たのか?」
「は、はい。戻ってきて欲しいです」
「文にも書いた通り、わしは教授になったのじゃ。もう戻ることはない」
「どうして? 何でですか? 何があったんですか? ヴィヴレットさん、教えてください!」
高ぶった感情が口から溢れた。
「森の生活にも飽きてきたところじゃったのじゃ。ここは程よい刺激があるからのぉ」
「そ、それだけですか? 本当にそれだけなんですか?」
「うむ。楽しく日々を過ごす。これ以上、良い事はないじゃろう」
「そ、そんな……。僕とアーヤと過ごした日々は楽しくなかったっていうんですか!? あの日々が嘘だって」
「そうは言うておらん。じゃが、こちらの方が楽しいと思うただけじゃ」
「嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だ! あんなに笑ったじゃないか! 離れるなって言ってくれたじゃないか! それなのに僕達を、僕を置いて!」
言って、涙が頬を伝った。
しゃくりあげそうになるのを必死に堪える。
「僕はあなたと過ごしたい! あの日々をもっと輝かせたい! 僕は、僕は」
感情のままに言え。もう、我慢する必要はない。
一人前の男がどうした。ここでヴィヴレットと離れてしまえば、全てが終わりになるのだから。
「僕はあなたのことが!」
「ユージン、すまぬ」
「えっ……?」
「お主の気持ち、嬉しく思う」
ダメだ。言わせてはいけない。言わせれば、僕とヴィヴレットの間に溝が。
「ヴィヴ」
「じゃが、わしはお主の気持ちに応えることはできぬ」
止めろ。このままじゃ、本当に。
「ヴィヴレットさん!」
「ユージン、わしとお主、アーヤは家族のようなものじゃ。じゃが、夫婦にはなれぬ。そうは思えぬのじゃ。……愛しておるぞ、家族としてな」
見た事のない笑みだった。知らない声色に、知らない表情。
そのどれもが、悲しく冷たいものだった。
僕とヴィヴレットの間には、越えることのできない溝ができた。
拒絶されたのだ、僕は。
止まらない涙が僕の心を更に濡らした。その冷たさが、より一層心を苦しめた。
楽しかった記憶が辛い記憶へと変わって行く。忘れたくない過去が、忘れたくなる過去に変わって行く。
苦しみによって僕の思いが塗り替えられ、輝きを放っていた夢はくすんで彩りを失った。
僕の恋は終わったのだ。




