二 『ゾンビになった直人』
二 『ゾンビになった直人』
バレンタインデーから一夜が明けた二月十五日。
それは、昼休みのことだった。
「いい加減にしろよ!」
そんな大声が教室に響いたかと思うと、次の瞬間、並ぶ机や椅子とともにひとりの少年が床へと倒れこんだ。
「どうした?」
その場に居合わせた者たち数人が一斉に駆け寄ってくる。
そこには、床に尻もちをついている直人とそれを見下ろす友樹の姿があった。
「どうしたもこうしたもねぇよ。こいつ、いきなり俺に噛みついてきやがって。ほら、見てくれよ」
袖をまくり、友樹が自分の右腕を周囲に向ける。彼の腕には、くっきりと歯形がついていた。
どうやら、突然噛みついてきた直人に怒った友樹が、彼を突き飛ばしたということらしい。
「おい、血が出てるぞ」
腕の歯形から流れるひと筋の赤い線を目に留め、同級生のひとりがそう伝えてくる。
「うわ、本当だ。……ったく、ふざけるのもたいがいにしろよな。どうしてくれるんだよ、これ」
そう言うと友樹は、座ったままの直人の肩口に歯形のついた腕を押しつけた。
「まぁまぁ、そんなに怒るなって。確かに、直人は少し変わってるけど、だからって、普段からそんなことする奴じゃないだろ? きっと何か理由があったんだよ」
「理由って何だよ? たとえ、どんな理由があったって、いきなり噛みついてくるとかありえないだろ? ゾンビかよ」
もっともな返しを友樹がする。
「まぁ、何にせよ、とりあえず今は保健室に行ったほうがいいと思うぞ。ほら、俺がつきそってやるから」
そうなだめられ、彼は仕方なく同級生と一緒に教室を出て行った。
……と、ちょうどそこに、入れ替わりで廊下から愛美が教室に入ってきた。
彼女は、床に座る直人の姿を目に留めるや否や、
「直人君!」
血相を変えてそう叫び、彼の許へと走り寄った。
直人は、うつむいた姿勢のままじっとしていた。
「どうしたの? 何があったの?」
そう問いかけ、愛美が直人の顔を覗きこむ。
「ひっ」
彼女は思わず息をのんだ。
直人の顔が、紫色に変わっていたのである。
「ねぇ、直人君、起きて」
目を閉じ、ぴくりとも動かない直人の体を愛美が幾度となく揺する。
すると、ゆっくりと血色が戻り、彼の顔に赤みが差し始めた。
「……ん? あれ? 僕、どうしたの?」
ようやく目を覚ました直人がのんびりとした声を出す。
愛美は、ほっと安堵の息をついた。
「よかった。まったく動かないから心配したのよ。凄く顔色も悪くて」
「顔色?」
「うん。紫色で、まるでゾンビみたいな……」
そのとたん、直人は、彼女に覆いかぶさらんばかりの勢いで身を乗り出した。
そして、その耳もとに、ささやくようにしてたずねる。
「ねぇ、愛美。愛美は、僕の顔が紫色になっているところ、見たの?」
「う、……うん」
戸惑いながらも、愛美は小さくうなずいた。
すると、直人は、
「そうか。僕の他にも気づく人がいたんだ」
とつぶやき、いきなり愛美の手を握って立ち上がった。
「え? え?」
愛美が、握られた手と直人の顔とを交互に見る。
そこに、直人は短くひと言だけ告げた。
「ついてきて」
そして、彼は、愛美の手を引いて教室を飛び出したのだった。
教室を出て廊下へ。直人が愛美を連れて入ったのは、同じ階にある社会科資料室だった。
昔の道具などが埃を被って置かれているだけで、めったに人がこない社会科資料室。二人だけの空間に、愛美が、そわそわ、どきどきし始める。
一方、そんな彼女を真剣な眼差しで見つめると、直人は言った。
「ねぇ、聞いて、愛美。どうやら、僕、本当にゾンビになってしまったみたいだ」
「はい?」
愛美は大きく首をかしげた。
「僕、昨日、気がついたんだ。自分の顔が紫色になっていることに」
「え、昨日? それって……」
愛美の脳裏に、昨日の出来事がよぎった。
「何か、思い当たることがあるの?」
そう直人が問う。
「うん。実は……」
愛美は、別れ際に見た直人の顔色のことを伝えた。
「そうか。じゃあ、あの時から、僕はおかしくなっていたってことか」
直人は、悩む様子で顔をふせた。
そんな彼に、愛美がそっとたずねる。
「ねぇ、直人君。顔が紫色に変わった時には、直人君も人を襲いたくなるの? 本物のゾンビみたいに」
「いや、それはないよ。……というより、僕、その時の記憶がないから、よく分からないんだ」
「どういうこと?」
「最初は、顔が紫色に変わるだけだったんだ。一秒とか二秒とか、それくらい。でも、少しずつそれが長くなっていって、同時にその時間の記憶もなくなり始めた。今日は、朝から四時間目までに三回、十秒ずつほど記憶がなくて、さっきは、覚えていない時間が三分ぐらい」
「さ、三分も? じゃあ、直人君の顔はその間ずっと紫色だったってこと? だったら……」
「うん、周りの人たちが気づかないわけがないんだ。でも、気づいているのは、僕以外だと愛美だけだと思う」
「そう言われると、そうかも」
小さくうなずき、愛美は、先ほど教室に入った時のことを思い返した。
確かに、あの時、教室は騒がしくはあった。だが、もし、紫色の顔をした同級生が床に座っているのを見たならば、実際は、あんなものではないだろう。それこそ、パニックになってもおかしくはないはずなのである。
「それで、僕、さっき目が覚めたら教室の床に座ってたんだけど、どうしてあんなことになっていたのか、愛美は知ってる?」
そう直人が問う。
愛美は首を横にふって答えた。
「ううん、知らない。私が教室に入った時には、もう直人君、あの状態だったから」
「そうか」
今にも消え入りそうな声でそう言うと、直人は再びうつむいた。
大好きな人が落ち込んでいるその姿を、どう声をかけてよいのか分からずに愛美が見つめる。
すると、彼女は、直人が着ているトレーナーの肩口に、薄く赤い染みがあるのに気がついた。
「ねぇ、直人君、それって……」
愛美が赤い染みを指さす。
「ん?」
直人はトレーナーの肩口を引っ張ると、そこに目を落とした。
それから、
「血だ」
そうつぶやく。
「血って、直人君、どこか怪我してるの?」
「いや、僕は大丈夫。でも、僕に怪我がないのに、服に血がついているってことは」
「誰か、他の人の……」
そう言いかけて、愛美は慌てて口を閉じた。
だが、直人もその可能性に思い至ったらしい。
「そうかも知れない。僕、気づかない間に、もう誰かを傷つけてしまったのかも」
「そんなこと……」
「ない」愛美は、はっきりとそう言いたかった。だが、直人のトレーナーについている赤い染みが、彼女からその言葉を奪い去った。
その時、室内に放送チャイムが響き、
『六年一組の早瀬直人君、至急、職員室まできてください。繰り返します……』
と、直人を呼び出すアナウンスが流れた。
「どうやら、予想どおり、最悪になったみたいだ」
直人が室内のスピーカーを見上げる。
「ねぇ、私も一緒に行く」
そう愛美が言うが、彼はそれを拒んだ。
その代わり、
「愛美、ひとつ頼みがあるんだけど……」
と、彼女に何かを伝える。
「分かった。約束する」
愛美は、そう返事をした。
「じゃあ、行ってくる」
直人が愛美に背を向ける。
その後ろ姿を見て、愛美は、昨日の別れ際のことを思い出した。
彼女には、直人に謝らなければならないことがあったのである。
「あの、昨日のチョコレートのことなんだけど……」
すると、直人は、くるりとふり返って答えた。
「知ってる。あれって、愛美の手作りじゃなかったんだろ?」
「やっぱり、気づいてたんだ」
「うん。愛美の味がしなかったから」
「手作りだなんて、嘘をついてごめんなさい。昨日のチョコレート、本当はデパートで買ってきたものなの。どうしても直人君にほめて欲しくて、それで」
愛美が深く頭を下げる。
直人は言った。
「僕、好きだよ」
「……え?」
目を大きく見開き、愛美が顔を上げる。
その瞳を見つめ、直人は繰り返した。
「好きだよ」
「ほ、本当に?」
「うん。愛美が作ったチョコレート、僕は好きだ」
愛美は、がくりと肩を落とした。
「あぁ、チョコレートのことね。……それで、私のことはどうなの? 直人君が好きなチョコレートを作る、この私のことは? どうなの?」
愛美が一気に直人へと詰め寄る。
「あ、あの、何だか怒ってない?」
直人はあたふたとそうたずねた。
「怒ってない! でも、何だかいらいらしてる!」
「それを怒ってるって言うんじゃ……」
「いいの。それより、答えて。私のこと、好き? 好きだよね? 好きに決まってるよね?」
愛美は鼻の頭がくっつきそうなほどに直人へと近づいた。
「ちょ、ちょっと、離れてよ。僕、早く職員室に行かないといけないんだから」
「いつもそうやって逃げる。逃げないで答えてよ!」
愛美の声が大きくなる。
対する直人も声を荒げた。
「逃げてるわけじゃないよ! でも、今は早く職員室に行かないと。僕、知らないうちに誰かを傷つけたかも知れないんだ。だから……」
「……うん、そうだね。分かったよ」
愛美は、ゆっくりと直人から離れた。
「……」
直人が黙って社会科資料室の引き戸に手をかける。
その背中越しに、愛美は言った。
「ねぇ、直人君。たとえゾンビになったとしても、直人君は直人君。私の大好きな直人君なんだからね」
「ありがとう」
ふり返ることなくそう答えると、直人は静かに廊下へと出て行った。
職員室へと向かった直人は、そこで初めて、自分が友樹の腕に噛みついたのだということを聞かされた。
彼の必死な謝罪が伝わり、何とか友樹の怒りは治まった。
しかし、このまま学校にいては、また誰かを襲ってしまうかも知れない。そう考えた直人は、その後、体調不良を訴えて早退した。
五時間目。自分の席に座り、空席になった直人の机をじっと見つめる愛美。
本当は、仮病を使ってでも彼と一緒にいたかった。
だが、それはできない。直人から、「もし、僕が誰かを傷つけていたら、その人の顔が紫色にならないか見張っていて欲しい」と、社会科資料室で頼まれていたからだ。
「ゾンビに噛まれた者は、ゾンビになる」そう言われていることから、直人は、自分以外では唯一紫色の顔に気づいた愛美に、その役割を任せたというわけだ。
結果として、友樹の顔に変化は現れなかった。たとえゾンビである直人に噛まれたとしても、ゾンビにはならないことが判明したのである。
しかし、だからといって全てが解決したわけではない。直人は今も苦しんでいる。
あれこれと考え、「初めて直人君が紫色の顔になったのは、私が渡したチョコレートを食べた直後だった」そう気がついた愛美は、学校が終わるとすぐに、ある場所へと向かった。
それが、直人のゾンビを治す、ただひとつの方法であることを信じて……。




