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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

エンブレア王国史

エンブレア王国史上、最も有名な婚約破棄の裏側でおこなわれた、もう一つの婚約破棄に関する論考

 その日、トイ商会の御曹司に、当主より縁組が申し付けられた。


「男爵家の娘と……ですか?」


 貧乏、とはつけなかったが、裕福な商家とは言え、平民の家に貴族の娘が嫁ぐとなれば、金目当てでしかあるまい。もしくは、こちら側が、金で買うのだ。

 若きトイ家の御曹司は自然と眉が寄った。

 その顔を見た父親は、「まだまだ青いな」とばかりに笑う。


「そうだニック。

お前は男爵家の令嬢を娶るとこになった。

おめでとう」


 すでに先方との話は済み、決定事項ということだ。

 ニックは親に結婚相手を決められるであろう覚悟はしていたが、せめて顔くらいは、あらかじめ見せて欲しいと思った。

 もっとも、顔を見て、「気に入らないか嫌です」と言っても、聞き入れられるはずもないだろう。

 

 会っても会わなくても同じこととは言え、若きニック・トイは母親に愚痴らずにはいられなかった。


「金の為に嫁いで来る娘を愛せるでしょうか」


 それに対する母の言葉はニックの気持ちよりも、嫁いで来る娘に寄り添ったものだった。


「夫となるあなたがそんな風に言うものではなくてよ。

男爵家とか、お金とか、そういうのとは切り離して、娘さんのことを見てあげなさい。

きっとよいお嬢さんでしょう。

この人こそ、運命の相手と思って接すれば、自ずと夫婦になるものです。

あなたが愛して、守ってあげなさい。

そうすれば、あなたも、あなたの妻となる女性も、きっと幸せになれます」


 そう言うニック・トイの母、トイ夫人が幸せな結婚生活を送っているとは、息子には見えなかった。

 夫であり、父親であるトイ氏は横暴で自分勝手な性格だった。親が決めた同じ商家同士の結婚だったが、トイ氏は夫人を「並の容姿の、平凡でつまらない女」と見下すように扱った。

 そんな夫に甲斐甲斐しく尽くす夫人のことを、息子は歯がゆく思ったものだ。

 母親は「並の容姿で、平凡でつまらない女」かもしれないが、ニックには「心根の優しい、美しい母親」だった。

 なので、ニックはその母親の言葉を心に留めた。


 その娘、ロザリンド・ラブリーに初めて会ったニック・トイは、あらかじめ母の助言を受けていたことに感謝した。

 何しろ、その少女ときたら、目も合わせず、口もほとんどきかなかったからだ。用意されたお茶を勧めることすらしない。

 馬鹿にしている。

 ニックは不機嫌になった。

 男爵家の令嬢は商家の息子などと口もききたくないのだ。金で無理矢理、妻を買うような下劣な人間だと思っているに違いない。


 しかし、母の言葉を思い出した彼は、冷静になってもう一度、ロザリンドという少女を見た。

 両膝に握られて置かれている手が震えている。

 もっとよく見れば、時々、こちらを窺うような視線を向けているが、そこには戸惑いと恥じらいがあった。


 ロザリンド・ラブリーは家の経済的理由もあって、まだ社交界に披露されていない十七歳の少女だということを思い出す。

 彼女には二十三歳のニック・トイはひどく大人に見えるだろう。親戚以外に、男性との接触経験がほとんどない男爵令嬢が、突然、男と二人になって……正確に言えば、付き添いの夫人と使用人はいたが……、何をどうしていいのか分からないだけだ。

 金に困った男爵令嬢という偏見の目で見て、あやうく彼女を誤解する所だった。

 となれば、彼らの結婚生活は、一生、不幸なものとなっただろう。


 ニックは優しく声を掛けた。

 初めはおずおずとした答えが返ってきたが、ニック・トイなる男性が、それほど怖い人間ではなく、むしろ親切で優しい人だと知って、少女の受け答えは次第と饒舌になった。

 正直、ロザリンドはニックには幼すぎ、話す内容も貧相で、知的な会話をするには物足りなかったが、それを補って有り余る素直な愛らしさがあった。

 それは愛情ではなく、庇護欲だったかもしれないが、二人の関係を育むのに不利になるものではなかった。

 ニックはこの愛くるしい少女を守るのだという使命感を抱き、ロザリンドは頼りがいのありそうな守り手を得て、安堵した。

 二人の出会いは、そんなものだったが、このまま何事もなくいけば、幸せな夫婦になっただろう。

 

 婚約者として通い始めたニックを、男爵家は大いに歓迎した。

 借家で、使用人の姿も少なく、ともすれば中流階級以下の暮らしをしている男爵家だったが、夫婦仲は良く、娘のロザリンドも愛情深く育てられているのが分かった。

 トイ家では得られない家庭の温もりであり、ニックのロザリンドを慈しむ気持ちは増すばかりだ。

 彼をもてなすのに、普通はあり得ないことだったが、ラブリー男爵夫人は自ら台所に立ち、菓子を作った。

 ニックは、食べる度にいつも思う。

 その焼きっぱなしの菓子の素朴さと、甘い甘い味は、まるでロザリンドのようだ、と。

  

 ニックの褒め言葉を聞きながら、夫の男爵は、夫人を台所に立たせる自身の不甲斐なさを嘆くのだった。

 彼は先祖から引き継いだ爵位を持て余していた。


「男爵位を返上することも考えたのだが……娘のことを思うとね」


 名ばかりでも爵位は爵位だ。持参金もない娘にとっての、唯一の武器になる。ただし、それは裏を返せば、その爵位目当ての男と結婚させなければならないことを指す。


「娘の相手があなたのように心優しい人で、本当に良かった。

これが娘の運命ならば、娘は幸せ者です」


 先に訪れた父親のトイ氏は横柄で、人の頬を札束で叩くような態度だった。ラブリー男爵は縁談を断りかけた。いくらなんでも、もっとマシな家があるはずだ。

 しかし、周囲はそれを嗜めた。

 親切心から、ロザリンドの将来を憂い、貴族という自負心を捨てても裕福な商家に嫁ぐことを勧める者。

 単純に、トイ氏から金を掴まされ、娘を嫁に出すように持ちかける者。

 彼らの説得によって、ラブリー男爵はトイ家に娘を嫁がせるのが、最善の方法と思うに至る。

 ロザリンドは自分の結婚が決まったと聞き、驚いたものの、親の言いつけに背くような性格でもなく、それに従ったのだ。

 それでも、夫婦は縁談が正式に決まった日の夜は、涙を流した。 

 果たして、娘は婚家でどのような扱いを受けるのか。幸せになれるのか。不安ばかりが増した。


 それが蓋を開けて見ればどうだ。

 ニック・トイは父親とは似ても似つかぬ穏やかな青年だった。偉ぶったところもなく、卑下した所もなく、ロザリンドを一人の娘として扱ってくれる。それだけでもありがたいというのに、ニックはロザリンドに深い愛情を示した。

 今、公園を散歩する仲睦まじい若い二人の姿を見ると、これで良かったのだと、ラブリー男爵夫妻の瞳は、嬉し涙で潤むのだった。


 その日は肌寒く、散歩するロザリンドは、手編みの肩掛けを巻きつけていた。

 洗練された女性たちの服装を見慣れているニックには、野暮ったく見えるものだった。

 聞けば、それもまた、ラブリー男爵夫人が手ずから編んだものだという。


 恥かしそうに頬を染めるロザリンドを傷つけないように、ニックはまず、「とても暖かそうですね。あなたの母親の愛情と同じくらいに」と褒めた。

 それから、近々、仲間内に紹介したいので、新しいドレスを贈ることを提案した。

 エンブレア王国で、未婚の女性に男がドレスを贈るのは特別な関係を意味していた。

 しかし、ロザリンドのドレスは、どれも粗末なものだった。淑女の身だしなみとも言えるコルセットもしていない。社交に相応しいとは言えなかった。

 ロザリンドを大事に思っているからこそ、恥かしい思いをさせたくはなかった。

 ニックは、彼らしくなくおずおずと申し出て、ロザリンドの悲しそうな顔を見て、後悔する。

 彼は彼女を説得しなければならなかった。

 

 施しではないのだ。

 婚約した以上、特別な関係だ。夫婦と変わらない。夫が妻の身支度を整えることの、どこが悪いというのだろうか。


 そうして、ようやくのこと、ロザリンドを頷かせた。手間はかかったが、その控えめな態度は、さらにニックの心を掴んだ。

 その頃にはもう、彼はこの可愛らしい少女にすっかり恋をしている気持ちになっていたのだ。

 

 極上品の素材で作られた最新流行のドレスを着たロザリンドは美しかった。

 髪の毛をきちんと結い上げると、細い首筋が際立った。コルセットを締めれば、はっとするほど華奢な腰回りと、豊かな胸元が現れた。化粧が施された顔は、幼さが影を潜め、一人の大人の女性の表情を浮かべる。

 素朴な彼女も良いが、こうして着飾っている姿は、また素晴らしいものだ。

 自分の婚約者がこのように美しいと知って、ニックは惚れ惚れとした。以後、ドレスに限らず、宝飾品、小物などを惜しみなく贈った。

 ロザリンドはためらったが、キチンとしたドレスを着なければ、彼と一緒に歩けないのだと分かると、素直に受け取るようになった。

 「あのお店に飾っていた扇子が可愛かったの」などと口にすると、翌日にはそれが届く。

 次第に、自分好みの色や、今流行りの形などを主張するようになった。ニックにしてみれば、「主張できるようになった」だ。美しく愛らしい人。彼女はもっと自分を出すべきだ。


 彼の溺愛ぶりは商家の仲間内ではすっかり有名になる。初めは、それこそ、貧乏貴族の娘が金で買われたのだという目で見ていた人々だったが、ニックの愛情深い様子に、これはどうも違うようだな、という思いを抱き、総じて、ロザリンドへの評価を改め、彼女を自分たちの仲間として快く受け入れようという気持ちになっていた。

 意地悪をしようと待ち構えていた商家の娘たちも、それをしたら、自分たちがニック・トイを、ひいてはトイ商会を敵に回すのだと理解し、一転、仲良くしようと媚を売った。

 彼女が現れれば、すぐに取り囲み、容姿を、身に着けているすべてを誉めそやした。


「貴族出身の方は、立ち居振る舞いも、私たちとは違うわね」


 ロザリンドの世慣れぬ行動も、そう解釈することで、見逃した。

 

 トイ夫人が忠告したように、自分がロザリンドを尊重することで、周りもそう扱ってくれるようになったのだ――ニックはそう捉え、自分の愛情が彼女によい影響を与えていることに満足した。

 ロザリンドも皆に親切にされ、貴族から平民に嫁すことに、なんの葛藤も見せることはなかった。

 

 これならば、いつ結婚しても良い夫婦になれるだろう。ニックは自分が幸せな家庭を築ける希望と自信を持った。

 ラブリー男爵家のように仲睦まじく、トイ商会のように裕福な家庭。

 これほど完璧な幸せはない。

 

 ただ、その前に、ロザリンドは社交界に披露されることとなった。

 彼女はトイ家という後ろ盾を得て、それが可能となったのだ。

 未婚の娘にとって、ほぼ夫探しの場である社交界に、嫁いでからは疎遠となる貴族の社交界に、ロザリンドが披露される必要はなかったのだが、男爵令嬢である彼女は、それに伴って、国王に謁見出来る権利を有していた。

 トイ氏は、自分の息子の嫁が王に謁見出来ることにこそ、価値を見出していた。

 結婚する前に、箔を付ける腹積もりで、ロザリンドを社交界に披露することを後押しした。そして、ロザリンドもそのことを大層、喜んだ。


「だって、陛下にお会いできるんですもの。

間近で拝謁出来て、お声も掛けてもらえるなんて、ああ、夢のようだわ!」


 喜びに打ち震えるロザリンドを前に、ニックも我がことのように嬉しく微笑んだ。


「良かったね」


「ええ! だって、私、ずっと陛下のことをお慕い申し上げていましたの。

私の憧れの方。とても見目麗しくて、物語の中から抜け出した王子さまのよう。

いえ、王さまね……素敵だわ」


 自分の婚約者の前でうっとりと、他の男のことを語るロザリンドに、ニックは特段、不快感を抱くことはなかった。「では、とびきり良いドレスを用意しなくてはね」とまで言った。

 

 その話を聞いたニックの幼馴染であるマーガレットは、なんてくだらないの、という感情を隠さなかった。

 彼女は、トイ家と昔から家族ぐるみで親しく付き合っている大きな商家の娘であり、ニックより二歳年上だった。そして、いまだ、独身であった。

 この時代、この国で、二十五歳で独身は、行かず後家と後ろ指どころか、面と向かって嘲られる立場であったが、彼女は気にするそぶりはなかったし、彼女を批判する者も少なかった。 

 「あれは男だからなぁ」というのが、大方の意見だった。

 マーガレットは、父親をして「この子が男の子だったら」と幼い頃から悔しがるほど、男勝りで賢かったのだ。

 父親は娘に商売の手ほどきをした。すると、どの息子よりも、よく学び、実践した。

 今では帳簿片手に、実家の商売を取り仕切るほどの女傑となっていた。

 ニックも彼女の才覚には一目置いており、商売についての話や社会情勢などの話をよくしに来ていた。

 もっとも、最近のニックの話題は「愛らしいロザリンド」に終始していた。

 この日も、ロザリンドがいかに王を敬愛しているか、愛おしそうに語った後だった。


「ばかばかしい。その子、この甘ったるいお菓子みたいな頭の中身をしているわ。

おとぎ話の読み過ぎよ。

国王陛下には、チェレグド公爵家のご令嬢がいらっしゃるし、そもそも、貴族といっても、男爵家程度の娘が、おこがましい」


「そんなこと、君がわざわざ指摘しなくたって、分かっているよ。

私も、ロザリンドも、だ。

彼女はただ陛下に乙女らしい純粋な憧れを抱いているだけだ。

何しろ、わが君は美丈夫でいらっしゃる。

ロザリンドだけでなく、多くの女性たちが憧れているじゃないか」


 そう、ロザリンドがいくら王を好きだと言っても、だからどうした、とあしらわれる程度のことだった。

 何しろ、マーガレットが言ったように、エンブレアの若き国王には、押しも押されぬ大貴族、筆頭公爵家の長女が、婚約者としているのだ。

 先王の早世によって三歳で即位した王は、現在、ニックと同い年だった。

 その王を、幼い頃から後見し、国政を担ってきたチェレグド公爵の威勢は、王をも凌ぐものと言われ、その令嬢、エリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザは美しく、賢く、優しい、まさしく王妃の器にふさわしいとされる”完璧な女性”だったからだ。

 入り込む隙間もない。そこにあえて割り込もうなどという娘もいなかった。

 高位貴族の娘たちは、チェレグド公爵が疑念を抱かぬよう、王とは一定の距離を保つことを、常に心がけていた。

 チェレグド公爵は、王の寝所をも支配していた。

 手がついた女官はある程度の期間、王の相手をさせられると、それなりの家の息子に下賜された。そして、また新しい女官があてがわれるのだ。一人の女人に拘泥しなければ、若い王の女遊びを制限することはなかったが、自分の娘の立場を脅かすような存在、高位貴族の娘などが王に近づくのは許さなかった。

 そして、チェレグド公爵が待ち望んだ、娘・エリザベスの適齢期がついにやってきていた。 

 王は近々、華燭の典を挙げるだろう。


 ロザリンド・ラブリーが国王に謁見する日も、ニックは不安を感じることはなかった。これが終われば、晴れて結婚の準備が出来ると心躍る。ロザリンドは彼が贈ったドレスや装身具、小物一式を、とても喜んでくれた。海を隔てた隣国・”花麗国うるわしきはなのくに”で織られた極上品の絹の肩掛けを羽織り、王宮へと出発する彼女の姿は、愛らしいを通り越し、眩しく見えた。

 帰って来た彼女の様子はいや増して美しかった。

 瞳は潤み、頬は赤らんでいる。王に見え、社交界の空気を吸い、興奮しているのだ。


「ああ、なんて素敵だったのでしょう。

陛下は私に声を掛けて下さいましたの。

『お前が、ラブリー男爵家のロザリンドか?』って!」


 おそらく他の令嬢にも同じことを言っただろうが、ロザリンドの喜びに水を差すような真似を、ニックはしなかった。


「それに、私、ああ、なんということでしょう!

チェレグド公爵家のエリザベス嬢にも親しく声を掛けていただいたのです」


「え? エリザベス嬢に?」


 それに関しては、ニックもさすがに驚きの声を上げた。

 筆頭公爵家の令嬢。未来の王妃さまと、ロザリンドは仲良くなったという。

 ニックはそれを歓迎した。ロザリンドの愛らしさは、王宮でも通用する。

 父親のトイ氏も同じ思いだった。ただし、抱いた感情は対照的である。


「未来の王妃と縁が出来るなど、大した娘だ。

貴族の令嬢とは聞こえがいいが、惨めな貧乏男爵家の娘でなければ、我が家には嫁してこないと歯がゆく思ったこともあったが、これはとんだ掘り出し物だ。

私の見る目もなかなかのものだとは思わんか?

やはり嫁は貴族からもらうに限るな」


 そう言いながら、夫人の前で祝杯を挙げる父親と、ニックは口論となった。

 口論は、何度も繰り返されることとなる。

 トイ氏はロザリンドをチェレグド公爵邸と王宮に送り込むように仕向けたからだ。

 彼女を利用するな、といくら訴えても、父親は聞き入れなかった。


「お前はあの娘に随分と金を使ったようではないか。

私もあの家に大分、払った。

その分は稼いでもらわないとな。

今日も、伯爵家の令嬢が、あの娘がつけていた首飾りよりも、もっと豪華なものが欲しいと言って寄越したのだぞ」


 婚約者になかなか会えなくなったニックは、男爵夫妻とばかり過ごすようになった。ロザリンドがいなくても、男爵家は居心地が良かった。

 男爵夫妻は落ち込むニックを励まし、娘にもよく言い聞かせるからと請け負った。

 しかし、筆頭公爵家からの誘いを断るには、ラブリー男爵家は非力すぎだ。

 ロザリンドも嬉々として、出かけているようだった。

 ニックは段々と、焦燥を覚え始める。


 マーガレットもまた、同じような懸念を表明した。


「あまり関心しないわね。

社交界に披露されたのは仕方がないにしろ、もういい加減、商家に嫁ぐ娘としての心構えを勉強すべきよ。

それなのに、最近では、チェレグド公爵家に入りびたりらしいじゃないの。

あなたのお家に買ってもらったドレスを着て」


「ドレスを仕立てると、彼女が家に来てくれるのだ」


 いくら会いに行っても、手紙を書いても、ロザリンドはニックに会う時間を作ってくれなかった。

 そこでニックはドレスを仕立てることにした。そうすれば、ロザリンドはすぐに、彼に会いに来てくれるのだ。


「チェレグド公爵家に行くのに、ドレスは必要だからね」


 才媛と名高きマーガレットが言葉を失った。

 ドレスだけではない。装身具に服飾小物。靴。

 ニックはロザリンドに会いたいばかりに、いつの間にか、それらを餌にすることを覚えていた。

 物で釣ることが、いいのか悪いのか、ニックにはもう分からない。ただ、自分はロザリンドを愛していると信じ、意地になっていた。自分が描いた幸せな家庭像に拘泥していた。

 一方で、ロザリンドはすっかりニックに物をねだることに悪びれなくなった。彼女にとってニックは、自分の最大の崇拝者であり、なんでもくれる”都合の”いい人という認識になっていた。

 そして、すっかり貴族社会に染まってしまっていた。


「この間の舞踏会は、それはもう、とっても豪勢で素敵なだったわ。

出席した方々も皆、素晴らしい方々ばかりで。外国の王族の方もいらしたのよ!

すごいでしょう!

エリザベス嬢がお相手して踊ったの。そりゃあ、見事な踊りだった。

あの方のように優雅な貴婦人になりたいわ。

そうすれば陛下も……いえ、あの、ニックも喜んでくれる?」


「君がそうしたいのならば、応援するよ」


 マーガレットのように帳簿まで管理して欲しいとは思わないが、ある程度、商売のことを知っておいて欲しい。

 母のように、船の荷を積む人足や、店の従業員に親しく交わり、自分を支えて欲しい。

 ニックは、そうロザリンドに言いたかったが、彼女に嫌われるのが怖くて、言い出せなかった。

 ロザリンドはニックの様子など気にせずに、自分の話を続けた。 


「でも、コルセットがきついわ。

私、コルセットって苦手」


 トイ家と縁組する前のラブリー男爵家では、娘にコルセットをさせる余裕もなかったのだ。

 すっかり楽な服装に慣れた娘に、コルセットは辛いものだった。


「……結婚したら、もっと緩くすればいい……君のコルセットはあんまりきつすぎないか?」


「あら。これが貴婦人の証なのよ。

エリザベスさまなんて、もっときつく締めているに違いないわ!

だって、すっごく細いんですもの!

私も、もっときつくしないと陛下に……」


「ロザリンド!」


「なぁに?」


「今度、仲間内の舞踏会があるんだけど、出席出来る……よね?」


 ニックが前々から企画した舞踏会だった。その計画を話した時、ロザリンドも楽しみにしていると言ってくれた。


「え……仲間って、ご商売の?」


 その言い方、その表情。

 かつて彼女に仲間として迎えようとしたニックの友たちを、どこか見下すような色があった。

 

「嫌なら……いいんだ……」


「ごめんなさいね。

その日は、王宮の舞踏会に招待されているの。

国王陛下が主催なさるの。是非、私と一緒に踊りたいのですって!」


 ロザリンドは王宮の舞踏会を選び、ニックは一人で、自分の主催する舞踏会に出る羽目になった。

 見かねたマーガレットが、彼の相手役になってくれた。


 その内、社交界で王とロザリンドの関係が噂になりはじめたことを、マーガレットが教えて寄越すようになった。

 彼女は王宮や離宮『花宮』に顔が効いた。商売の為ならばためらわず女性であることを活かし、そこに住む人や、働く人々の衣類や装身具を用立てる仕事をしていたからである。


「ロザリンド・ラブリーがチェレグド公爵令嬢に言葉巧みに近づいて、すっかり友達面をしているんですって。

そして、チェレグド公爵令嬢を踏み台にして王に近づき……なんでも、最近では、すっかり王のお気に入り。

すでに臥所も共にしているそうよ」


 「嘘だ……」と、ニックは呻いたが、マーガレットがそんな嘘を吐く理由がなかった。

 トイ氏もこちらには見返りがないばかりか、醜聞になりかかっている娘に対し、怒りを露わにし始める。


「なんてふしだらで薄情な娘だ! 一体、あの娘、あの家に、いくら金をつぎ込んだと思っている!

チェレグド公爵はお怒りだ。我が家も巻き込まれかねん。

お前も、もう二度と、あの娘にドレスの類を贈るのは禁じる!」


 ニックは真実を知りたいと、何度もロザリンドに会いに行ったが、ラブリー男爵は、その度に身を縮めて「娘は王宮に呼ばれて出かけています」と繰り返した。そんな状況では、ラブリー男爵家に長居することも出来なかった。菓子だけ持たされ、男爵家を辞すしかない。

 ロザリンドに宛てた手紙には、返事が来なくなって久しい。

 新しいドレスを贈るという手紙で、ようやっと、彼女はやって来た。

 しばらく見ない内に、ロザリンドは大人びて美しくなっていた。さなぎが蝶になるように、彼女の身に、なにか大きな変化があったのだ。マーガレットが言ったような”変化”だ。

 ただ、態度は初めて会った時と同じように、おどおどしている。

 

「あの、新しいドレスを頂けるって本当? もう、着て行けるドレスがないの。

だから……頂けると本当に助かるわ」


 ドレスを贈らなくなって、それほど時が経ってはいなかったが、毎日のように舞踏会に出掛けていては、どれだけあっても足りないというものだ。実家のラブリー男爵家にはそれを支える財力はなかった。

 それから、「あ、ニック、お元気でしたか?」と、ロザリンドはついでのように言った。


「元気だよ。君は……なんだか疲れているみたいだ」


 優しく声を掛けられたロザリンドは、俄かに崩れ落ちて泣いた。


「どうしたんだい?」


「ああ、ニック!

あなたはなんて優しい人なのかしら。私に優しい人は、もうあなただけだわ。

いいえ、陛下は……陛下はお優しいわ。私に、とても。

でも、他の人はみんな、みんな酷いの!

私のこと、私のこと……とても、とても、ひどい言葉で私を罵るの。

ドレスも馬鹿にされる! 礼儀作法もなっていないって。それから……それから、なにもかもよ!」


 たまらず、ニックはロザリンドを抱きしめた。


「かわいそうに。辛い目にあっていたのに、どうして私の所に帰ってこなかったの?

結婚しよう。もう、王宮になんかいかなくてもいいよ」


 愛情の籠ったその抱擁を、ロザリンドは怯えたように突き放した。


「いけないわ!」


「なぜ? 君は私の婚約者じゃないか」


「いいえ……いいえ、私はもう……」


「もう?」


 王のものになったのだ。

 その恐ろしい事実に、ニックは言葉を失った。


「なんてこと。私というものがありながら。

私と君は、確かに婚約をした。そうだね?

婚約者がありながら、未婚の娘が、いくら相手が王とは言え……そんなこと……」


 「やめて!」と金切声が上がった。


「陛下は私を愛して下さったの。

エリザベス嬢よりも、私を愛して下さるとおっしゃった。

私は陛下に愛されているの!

私も陛下を愛しているわ!」


「チェレグド公爵家を敵にして、ただでは済まないよ。

いまならまだ許される。私の所に戻ってきなさい」


 思わぬ夢を叶えた少女が、道理を見失っているだけだ。寛大にも、ニックはロザリンドを許そうとしていた。過ちは過ちだが、王に求められれば、この幼さの抜け切れない少女が、一体、どう拒絶できるというのだろうか。父親が欲をかいたせいで、自分の婚約者が道ならぬ道に落ちてしまったのならば、それは守れなかった自分の責任だ、とも思った。

 そして、ロザリンドは迷っても、自分と結婚する方を選ぶだろうと思った。

 何もかも忘れて、彼女を受け入れよう。幸せな家庭を築くのだ。

 なのに、ロザリンドの返事は「それは出来ない」という、きっぱりとしたものだった。


「陛下を愛しているの!」


「私を愛してはいないのか!?」


 叫び返したニックに、ロザリンドは憐れむような表情を見せた。


「あなたが私を愛してくれたのは嬉しいわ。

でも、あなたの愛よりも、陛下の愛の方がずっと深く尊いものだということを知ったの。

陛下の愛を知ったら、あなたの愛は偽りとしか思えなくなった。

あなたは私を、お人形さんか何かだと思っているんだわ。物さえ与えれば、それでいいと思っている。

私を金で買おうとしたくせに!

陛下は違う。

物ではなく、真心を下さった。情熱的に愛してくれたわ。あれこそが愛。真実の愛なのよ!

それを知った今、あなたの元には戻れるはずがないでしょう!」


 新しいドレスも受け取らず、ロザリンドは去って行った。

 あれほど愛を捧げたというのに、それが偽りだと言うのだろうか。

 物さえ与えればよい? 金で買う?

 そうしなければ、会ってくれなくなったのは、彼女ではないか。


 悄然としたニックに、マーガレットは冷たく言った。


「すっかり自分の境遇に酔っているのよ。

愚かな娘」


 葡萄酒を飲むように勧めてから、少し声音を優しいものに変えた。

 

「あなたには相応しくなかったのよ。

あんなに優しくされたのにね。もっとも、それもいけなかったのね」


「いけなかった?」


 自分の態度を批判され、ニックはマーガレットを見た。彼女は皮肉っぽく口の端を上げた。


「あの娘、あなたに会うまでは、自分の魅力を知らなかったのよ。

男爵家という家柄ですら、誇れるものでもなかった。

けれども、あなたに会って、まるで国一番の美女のように崇められ、贈り物を捧げられた。

美しいドレスを着て、周りの皆にも、下にも置かぬ丁寧な扱いを受けたせいで、勘違いしちゃったのね」


「そんな……」


「ごめんなさいね。

あの娘は素直で可愛かったかもしれない。でもそれはもう、過去の話よ。

あの娘は変わってしまった。あなたが変えた。

それは良い方向だったはずなのに、いつの間にか、歪んでしまった。

誰が入れ知恵したか知らないけど、あなたの愛したロザリンド・ラブリーは永遠に失われてしまったのよ。

諦めることね。

じゃないと、あなた、まっとうな結婚を望めなくなるわ」

 

 ニックは勧められるまま深酒し、次の朝、起きた時、隣には一糸まとわぬ姿のマーガレットが寝ていた。


「気にすることはないわ」


 マーガレットは何事も無かったように言った。

 後ろめたい気持ちを抱きながら、ニックも気にしないように努めた。

 

 その日以降、誰とも知らぬ人々から、彼は一刻も早くロザリンドと結婚するように求められた。脅されたと言ってもいい。

 王に愛人がいるのは構わない。しかし、それが未婚だった場合、子を産み、王妃の座を狙うかもしれない。ならば、誰か適当な相手と結婚させ、表向きは既婚女性として、王に近侍させるのがよいと言うのだ。

 仮に子を孕んでも、生まれた子供は夫の子。王の子では無い。


 ニックはロザリンドを手に入れたとしても、そんな結婚は幸せではないと感じた。

 ロザリンドもなぜ自分が”他の男”と結婚しなければならないのか分からないと言ったという。

 彼女は王妃の座を狙っていた訳ではない。ただ純粋に王を慕っていたにすぎない。だが、彼女が愛した男はこの国の王なのだ。


 王のロザリンドへの寵愛は、大方の予想を裏切って、一時的なものではなくなっていた。そして、チェレグド公爵の目を憚らないようになってきた。勿論、トイ商会などは眼中にない。

 ニックの代わりに、王がロザリンドにドレスを贈るようになる。

 

 これでもう、ニックがロザリンドに会う口実は作れなくなった。

 婚約はまだ破棄されていなかったが、それを覚えているのは、自分だけではないかと錯覚する。むしろ自分も忘れてしまいたい。婚約していると思っているから、こんなにも悲しいのだ。

 彼は淡々と仕事をこなすだけの毎日を送ることになった。

 仕事をしている間だけは、悲しみを忘れられることを知った。ますます、仕事に精が出る。

 たまの慰みに、マーガレットを抱いた。彼女はニックを拒むことなく受け入れた。


 ニックはある日、積み荷の確認の為に港に向かう。

 そこには立派な軍艦が入港していた。それから、チェレグド公爵家の紋章がついた馬車があった。

 それを横目で見ていると、曲がり角から突然、出て来た人間にぶつかってしまう。


「失礼」


 すぐに帽子を取って謝ったが、相手の黒髪の海軍士官は、暗い眼差しを向けただけで、去って行った。

 腹が立つような態度だが、海軍士官ともなれば、偉そうな人間も多い。下手に言葉を掛けて、刃傷沙汰になってはおもしろくない。

 トイ商会ほどの商家でも、貴族や軍人には見下されていた。

 ロザリンドの一件から、心が半分、閉ざされているような状態だったニックは、それを気にしなかった。

 ついでに、その陰鬱な海軍士官が走って来た方向に、対照的な煌びやかな一団がいることにも、特に何も感じなかった。

 もっとも、その内の一人が、最近、度重なる戦果をあげて有名になりつつあったジョン・キール艦長であることは分かった。

 隣には部下であろう銀色に近い金髪の海軍士官。いいや、その間に華奢な貴婦人がいた。その貴婦人がふと、ニックの方を向いた。

 若葉を思わせる緑色の瞳が印象的だった。


 それだけだった。


 ニックはすぐにその事を忘れた。

 当時の彼にはすべきこと、考えることがたくさんあったのだ。


 それからすぐに、驚くべき出来事がエンブレア王国を席巻した。

 チェレグド公爵が不正を告発され、王の勘気を被ったエリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザは婚約を破棄された上で、王都から追放されたと言うのだ。

 その理由が、ロザリンド・ラブリーへの悪辣な態度と聞いて、ニックはなぜか笑いたくなった。

 自分の婚約者が他の女に奪われたのならば、嫌味の一つだって言いたくなって当たり前だ。それなのに世間はロザリンドを支持し、公爵令嬢を悪しざまに罵った。

 しかしそれは、ロザリンドが特に優れていたからという訳では無く、なんとなく偉そうで自分たちを搾取してきたと思われるチェレグド公爵に対する反感の裏返しに過ぎなかった。

 市井の人々はこの婚約破棄に己の日ごろの不満をぶつけ、溜飲を下げたにすぎない。

 それを知らないロザリンドは、王と人々に愛されている自分に有頂天になっていた。


 王とエリザベスの婚約破棄は大々的に行われたが、ニックとロザリンドの婚約ははじめからなかったものとして扱われた。

 トイ家が出した金は戻ってこなかった。

 トイ氏は歯噛みしたが、チェレグド公爵を退けた当時の王の権力は絶頂に達していた。

 一応、ロザリンドがトイ氏の嫡男と婚約関係にあることを把握していたらしい王は、トイ商会に対し、ある程度の優遇をすることで、それに報いる態度を見せた。


 それで終わりだった。 


 ニックは王妃になる前のロザリンドに一度だけ会う機会を得た。


「私、王妃になるわ!」


 頬には薔薇色が戻っていた。

 またもやロザリンドは興奮状態となっていた。

 これまで嫌がらせや悪口を言われ続けたが、王妃となればそれも無くなり、幸せになれると思っている表情だった。


「おめでとうございます」


「ありがとう。私は幸せになるわ。ニック、あなたもお幸せにね!」


 この女狐め!

 その瞬間、ニックの心の中に、初めて憎しみが沸いた。

 愛した故の憎しみだった。

 愛した分、全てが憎しみに変わった。

 この女は最初から、そうだったじゃないか。

 愚かで弱い。

 こんな女の為に、自分は苦しみ、幸せな未来を失った。

 

 王妃となる女に、憎しみをぶつけることは出来なかったが、ニックは女すべてに憎しみを抱いた。

 だが、トイ商会の跡取りである彼は、結婚から逃れることは出来ない。

 そんな彼が選んだ妻は、「あれは男だからなぁ」と言われていたマーガレットだった。

 

「私と結婚すれば?

私に淑女を求める相手とは御免だけど、あなたはそうじゃないでしょう?

いい組み合わせになると思うわよ。

――それに、これは言わないでおこうと思ったのだけど。

私、子どもが出来たの。あなたの子どもよ」


 ニックはマーガレットとすぐさま、結婚式を挙げた。

 商人仲間たちは、驚きつつも、これで良かったのだと納得した。

 マーガレットはニックのよい相談相手となり、トイ商会はニックの猛烈な働きぶりと、彼女の手腕をもってますます繁盛した。

 二人の間には、男の子が生まれた。

 ただし、その後、授かった三人の女の子は、一人も育つことなく失ってしまう。

 マーガレットは嘆き悲しみ、ニックにもう一度、子どもを持つことを望んだ。


「もういいだろう。

男の子が一人いる。それで十分だ」


 冷たく言い放つと、マーガレットはいよいよ泣いた。

 それが腹立たしい。


「お前がつわりだなんだと仕事をさぼっていると、業務が滞る。

お前の仕事は、子どもを産むことではない。

私はお前を女としての価値よりも、商売人として評価しているのだからな」


 苛立ちを紛らわせるように、窓辺に向かうと、王都を流れる川が見えた。

 いつになく、騒々しい。

 対岸に人が集まっている。王弟であるストークナー公爵家の紋章がついた馬車が停まっていた。

 それでニックにはすぐに分かった。

 少し前に行方不明となり、大きな騒ぎになったストークナー公爵家の嫡男が見つかったのだ。

 普段は開けない窓を開ける。そこからは、王宮の窓がわずかに見える。

 ストークナー公爵の嫡男を誘拐したのは王妃だという噂が流れていた。

 王妃となった彼女は変わってしまっていた。王宮での生活は彼女を苛んだ。王太后や高位貴族には身分の低い出自を蔑まれ、一時の熱狂から覚めた市井の人々からは期待外れと嘲られる。いまや、悪い噂と誹謗中傷にまみれ、「あのエンブレアの女狐」と吐き捨てられる有様だった。

 ニックは窓を閉める。

 窓から恐ろしい物が入り込むような気がした。


『私は幸せになるわ。ニック、あなたもお幸せにね!』


 彼が望んだように、彼女は不幸になった。

 だが、それで自分が幸せになったような気になれない。


「王妃が殺した子どもの遺体が上がったのね……」


 いつの間にか、マーガレットが後ろに立っていた。


「たとえ真実でも、そのような事を口にするな」


 ニックが叱ると、マーガレットは笑った。


「あなた、まだあの娘が好きなのね」


「なんだと!?」


「私よりも、あの娘がまだ好きなのね」


「そんな”女”みたいな事を……!

私はお前と結婚したのは”女”ではないからだ!」


 性別関係なく、才能を認められている。

 それは喜ぶべきことのはずだった。

 なのにマーガレットは嬉しいとは思えないのだ。


「私は女よ!

女としてあなたに愛されたかった!

ニック……私はずっとあなたが好きだった。子どもの頃から。

でもあなたは私を友達としか見なかったわね。

それも同性の友達のように。

ええ……ええ、そうよ。それが嬉しかった。あなたのそういう所が好きだった。

女とは愚かな生き物だわ。

私は自分がそんな大嫌いな女だということを、嫌と言うほど思い知った!」


 ニックは信じられない想いでマーガレットを見た。

 何を言っているのだろうか。この”女”は。


「だからあなたがあの娘と結婚すると聞いて、どれだけ嫉妬したか。

あの娘の顔を引き裂いてやりたかった」


「ロザリンドを……?」


 マーガレットはロザリンドに対し、親切ではなかったが、それは彼女の性格上、ロザリンドと合わないだけだからと皆、思っていた。ロザリンドは夢見る乙女で、マーガレットは現実的な女性だったからだ。だからと言って、嫌がらせをする訳でもなかった。表向きは。


「そうよ。あの娘、大っ嫌い!

男爵家の生まれか何かしらないけど、実家が経済的に立ち行かないというのに、自分で自分の身を立てようとする努力もしないで、両親に甘やかされ、頼りっきり。

あなたが現れれば、今度は同じように、あなたに寄生する」


「それのどこがいけないのだ?

お前のように一人身で生きていける賢さと強さ。財産を持つ女がこの国にどれだけいると思う?

あの娘は弱く頼りなかった」


「そうやってあの娘は、すっかりあなたの庇護欲をそそったのね。

私は一人で生きている? そうかもしれない。でも、私はあなたと結婚したかった」


「なにを女々しいことを」


「女々しい? 女ですもの!」


 あなたの嫌いなね、とマーガレットは言った。

 それから、嘲るような顔をした。


「女は弱い? けど、とても打算的で残酷な生き物なのよ。

エリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザを見てご覧なさい。

あの令嬢は、うまいことをやったわ。私から見ても、見事な手際だったわ」


「……どういうことだ?」


 ニックは動揺し、自分の体重を足で支えられなくなった。


「あの娘がエリザベス嬢にすり寄った?

そんな真似、出来るような賢い娘だと思う?

そもそも、紹介されなければ、話しかけもることも出来ない身分じゃないの。

チェレグド公爵家の令嬢ならば、毎日のように下心のある人間が近づいている。いちいち相手になんか出来ないわ。

私は思ったの。エリザベス嬢は何らかの意図で、あの娘に近づいた。

そして、王にも近づかせた。

なぜかしら?」


「なぜだ……」


 そう聞きながら、ニックの脳裏には鮮やかに、あの港の風景が蘇った。

 チェレグド公爵家の紋章入りの馬車。若葉の瞳の貴婦人。若く勇敢なジョン・キール艦長。


「エリザベス嬢は亡くなったとされたけど、本当は生きている。

生きて、今は、ジョン・キール艦長の妻として、幸せな家庭を築いているそうよ」


「嘘だ……」


 ニックはマーガレットを見る。


「確かめに行ったわ。嘘じゃなかった。

エリザベス嬢は、王との婚約を破棄する為に、父親すら売った。チェレグド公爵の不正の証など、よほど身近な人間でしか手に入れられないわ。

そんな令嬢が、惨めな貧乏男爵家の愚かな娘を手玉に取ることなど、造作もないことよ」


 椅子に座りこんだニックに、マーガレットは覆いかぶさった。


「でもあの娘も悪いのよ。

あの娘は、すっかり勘違いしていた。

あなたがそうさせた」


「言うな……!」


「そして、私がそうしたの」


「――お前が!?」


 マーガレットは夫から身を離し、慈しむように腹部に手をやった。

 これは復讐なのだ。娘たちを失っても、悲しむことすらしなくなったこの男への復讐だ。


「あの娘をちやほやしたの」


 ただそれだけだ。

 

 ニックは拍子抜けする。

 この女は子を失って、狂ってしまったのか。


「あの娘のすべてを褒めた。非常識な態度も、貴族故と許すように他の人たちに言った。

ああ、さっきの話。エリザベス嬢に最初に声を掛けたのは、やっぱりあの娘だったかもしれないわね。

あの娘は私たち商人の間ですら守られている身分の上下を理解していなかった。

きっと、エリザベス嬢に図々しくも声を掛けたに違いないわ。

本来ならば恥をかくはずだったのに……!」


 エリザベスは、チェレグド公爵家の令嬢として遠巻きにされ、父親の監視下で無害な友人関係しか築けなかった。

 そんな中、無知で愚かなロザリンドは、自らの懐に飛び込んできた絶好の獲物だった。

 おまけに美しく、さらに王好みの外見だった。

 黒い髪の毛に黒い瞳。そしてやや幼い容姿。

 王がこれまで手をつけてきた女官は、そんな女ばかりだった。

 王の婚約者として、間近で見てきたエリザベスには、王の好みが手に取るように分かった。自分がそうでないことも、ロザリンドがそうであることも。

 

「私はね、あの娘が社交界に披露されると聞いて、あの娘の虚栄心を目一杯、くすぐった。

あの娘は自分が美しく価値のある女だと思い込んだ。男たちに愛され、崇められて当然の存在だと自惚れていたわ。

社交界に放り込んだら、一時の享楽を得たい馬鹿な貴族の子弟たちが、あの子を餌食にしてくれると思ったのに。

それがまぁ……なんということかしら、王の目に留まって王妃とはね」


 マーガレットは「王妃」という単語に忌々しさを込めた。


「それだっていいの。

あなたが私のものになれば。あの娘が大出世しようとも、どうでも良かったわ」


「私を……謀ったのか……」


 ひじ掛けを掴み、ニックは恐ろしい形相で立ち上がった。

 ロザリンドは皆に愛されていると思っていた。それがどうだ、皆がよってたかってあの娘を食い物にしていたのだ。

 彼女は王妃になり……いいや、させられ……エリザベスやマーガレットによって極限まで高められた自尊心を、今度はズタズタにさせられ、ついには他人の子を手にかけるまでの”悪女”になってしまった。


「私”たち”だけが悪いんじゃないわ。

あの娘がもう少し、物をよく考える娘だったら。皆が褒め称えるそのドレスを一体、誰が買ってくれたのか。

その人がどれだけ自分を愛しているか、少しでも考えていたら……結果は違ったわ!

私なら、目先の華やかな社交界よりも、優しいあなたと生きることを選んだ!

愛しているのならばね!」


「黙れ!

この”女”が!

お前は弱くて醜い”女”だ!

私の妻ではない!」


「そうね……そして、あなたも私の夫ではないわ」


 それでも、彼らは互いに最も信頼出来る共同経営者だった。

 ニックはもう、家族をかえりみることなく金儲けに走り、マーガレットも淡々とそれに従った。

 そんなマーガレットが、二度、苦言を呈したことがある。

 一度目はジョン・キール艦長が投資の相談に来た時のことだ。戦功を重ね、”海の英雄”と讃えられ、男爵位と富を得た彼に、ニックは親切に対応してみせた。最初はかなりの儲けを出させ、さらに投資を促進させた。それから巧みな手腕ですべてをご破算にしたのだ。

 トイ商会は元から大きかった為、ニックは強引な手段やあくどい真似をする必要はなかったのに、キール艦長に限っては、卑怯な手を使った。

 それが誰の為だったのか……マーガレットはそれを思うと、あの日以来、封印したはずの”女”がうごめくのを感じた。

 

 エンブレア王国では、ロザリンドを支持する王妃派とそれに対抗する反王妃派の溝が深まり、国情は乱れはじめてきた。大きな取引相手だった絹織物の名産地・隣国”花麗国”でも反体制派がうごめき、多くの貴族をはじめとした人々が、難を逃れてエンブレア王国に亡命してきていた。


 トイ商会もその影響から免れない。トイ商会は中立を保ちながらも、やや反王妃派側にいるとみなされていた。それはロザリンドとの一件もあったし、また彼女が新興の商人たちと手を組んだことから、老舗のトイ商会とは反目しない訳にはいかなかったからだ。


 ニックは国情がどう動こうとも、自身の商会を守り、あわよくば発展させようと画策し始めた。

 また、彼の考えは、知らずに父親のそれに倣った。

 すなわち、貴族と縁付きたい。商売柄、貴族と取引することが多かったが、その度に、見下されるのに我慢出来なくなったのだ。それも、自分たちの方が金を貸す側だというのに、だ。トイ商会は王家にも多額の貸し付け、と言う名の、寄付をしていた。それなのに、一向に尊敬されないのは、平民だからだ。

 今のトイ商会ならば、爵位ごと買える。

 しかし、肝心の息子は、放蕩者に成り下がっていた。

 マーガレットを叱れば「私は”女”ではありませんから。そのような”母親”や”妻”のような役割を求められても困ります」と素っ気ない。

 仕方がなく、ニックは親戚の中から手頃な娘を見繕うことにした。

 そうなれば、出来るだけ素直で美人な娘がいいに決まっている。持参金はたんまりあるのだ。もしかしたら思いもかけない高位貴族に見初められるかもしれない。


 ちょうど良い娘がいると聞き、彼は田舎の家に向かった。

 そこにあったのは、どこかラブリー男爵家を思わせる、仲睦まじい家族が暮らす幸せな家だった。

 黒っぽい目と髪の毛の、あどけない様子の娘がいた。

 

 ニックはその娘を王都に連れてきた。

 金を積んで、それでも「うん」と言わなかった親兄弟から、強引な手段で無理やり引き離したのである。

 そうするだけの価値があるほど、その少女・アンジェリカは美しかった。もっとも、かなり強情な娘でもあった。

 任されたマーガレットは、アンジェリカを嫌い、二度目の苦言を呈した。


「なぜあの娘を選んだの?」


「美人だったからだ」


「そうね。王妃さまに似た美人ね」


「そんなことはない。いい加減にしろ!」


 言われてみて、ニックは気づいた。確かにアンジェリカは見た目と雰囲気がロザリンドに似ていた。

 すぐにでも田舎に返したくなるが、それをすれば、アンジェリカがロザリンドと似ていると認めたことになる。

 アンジェリカは留め置かれたが、ニックにとってみれば、見れば見るほど、ロザリンドの面影が重なってくる。

 自然と家から足が遠のく。

 マーガレットは必要最低限の礼儀作法を身に着け、とっととアンジェリカを嫁に出そうと画策した。

 訳も分からず連れてこられ、理由も分からず冷遇される身となったアンジェリカの気持ちは荒んだ。それを助けたのは、トイ商会の一人息子、ジャックであった。

 ジャックは父親と王妃の間のことを知らなかった。

 二人の婚約の事実は、触れてはいけない禁忌であった。

 もっとも、知っている人は知っている。

 その中の一人。ニックの仕事仲間がある話を持ち込んできた。


「お宅の家が引き取ったあのアンジェリカという娘さん。大層な美人だね」


 最初は縁談かと思った。

 どこかの貴族が見初めて、出入り業者に繋ぎを頼んだのならばよい。ニックが娘を貴族に嫁がせたいと思っているのは周知のことだったからだ。

 けれどもそうではなかった。

 貴族ではなく、王家との縁組だった。ただし、それは愛人契約というものである。


「知っての通り、陛下は今、離宮に引きこもり、”花麗国”からの亡命貴族の令嬢とよろしくやっているらしい。

それを快く思ってないお方がいるのだ」


「それで……」

 

 あれほど大騒ぎして、人から婚約者を取り上げておいて、王はすっかり王妃を見限っていた。

 ロザリンドが王妃の座を射止めたことが奇跡のようなことなのだ。今ではその裏に、エリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザの策略があったことを、ニックは知っている。


「とにかく、陛下をあの娘から引き離さなければならない。

それで、誰か適当な娘を探しているのだが……」


「それでアンジェリカを?」


「あの娘は王好みの容姿ではないか。

それに生粋のエンブレア王国民。うってつけの人材だ」


 王が自ら別の女に興味を移すことで、亡命貴族の令嬢からやんわりと引き離すことが出来る。

 アンジェリカにとっては、何の益もないことだった。ニックにとっても、高位貴族の正妻をも狙える人材を、使い捨ての愛人にするなど、とんでもないことである。

 けれども……と、ニックは思った。

 ここで、この申し出をしてきた「さるお方」に恩を売るのは悪くない。

 上手くいけば、王の子を手に入れられる。庶子にはなるが、王に認めさせることが出来れば、そこそこの地位を貰えるかもしれない。

 王妃の周りに不穏な噂が流れている昨今、万が一、その座を降りることになれば、アンジェリカにその機会が回ることも、ありえない話ではない。

 それになによりも、アンジェリカをこれ以上、家に置いておく気になれなかった。

 引きがあれば、どこにでも出そうと言う気分になっていた。

 アンジェリカには不幸なことに、最初の引きが、王の愛人だったのである。


 しかし、その話がはすぐに頓挫した。

 まず息子のジャックの反対だ。感情的なものだったならば、ニックは愚か者の世迷言として一顧だにしなかっただろうが、その説得は理路整然として、ニックをして「なるほど」と思わせるものだった。

 さらには、”花麗国”で革命が勃発。その隙に、主権を主張するベルトカーン王国が侵入する。

 その事態に、エンブレア王国は同盟国として、”花麗国”に援軍を派遣し、ベルトカーン王国との戦闘状態に突入する。

 戦争となれば、人と物資が大いに動く。トイ商会も忙しくなった。

 ニックは仕事に忙殺された。

 それで良かった。

 彼はそうすることで、胸に去来するある感情から逃れることが出来た。

 それは王妃ロザリンドがついに失脚したことに対する感情である。

 表向きは、王以外の男との不義密通ではあったが、多くの人間が、王妃は”花麗国”内乱とベルトカーン王国の侵略に一枚噛んでいたことを知っていた。

 知っていたが、これまでのようにそれを声高に非難する人間は少なかった。

 王妃のやったことはエンブレア王国の恥だからだ。王妃は恥、そのものだ。


 ロザリンドは王妃の地位を保ったまま、軟禁の身の上となった。彼女の夫である王も死んだ。

 王の愛人にしようと思っていたアンジェリカはジャックの子を孕んだ。

 孤独な娘は、優しいトイ家の一人息子に恋をしていた。

 彼は怒った。マーガレットもまた、ロザリンド似の娘が、トイ家の御曹司の心を掴んだことに憤った。

 ただ、マーガレットはほどなくして、彼らを許す。

 アンジェリカが産んだ子どもに、すっかり絆されたのだ。マーガレットの中の”女”が目を覚ました。ジャックは自分の母親があれほど愛情深く赤ん坊を抱くのかと驚きつつも、喜んだ。初めての孫は女の子だった。


 ああ、女か。弱く醜い生き物だ。


 ニックは一瞥もしなかった。


 せかせかと街を歩く。

 この界隈を移動するのに、わざわざ馬車を乗り降りするならば、歩いた方が早い。

 突如、大きな怒声が聞こえた。

 声に相応しい柄の悪い男たちが、誰かを取り囲んでいる。


「誰に許可を得て、ここで商売しているんだ!」


「男爵さんよぉ。ふしだらな娘と一緒に、田舎に行っちまえ」


 小さな二つの人影はラブリー男爵……今は、ただのラブリー夫妻だった。爵位を返上し、街で小さな菓子店を開いたという。

 男たちはそんな彼らの店に、嫌がらせに来ていた。

 商品を、あの素朴で甘い焼きっぱなしの菓子を道にばらまき、足で踏みにじった。

 ラブリー夫妻は悲しそうな顔をしたが、逆らうことも出来ない。二人、ただこの嵐が過ぎ去るのを、じっと耐えている。二人の手は、固く繋がれていた。

 周囲の人間も、どうしたものかと傍観している。


 ニックはそのまま過ぎ去ろうとした。

 足元に、菓子が転がってきた。

 若い頃、何度も食べた菓子だ。素朴で甘い。それは彼が目指した幸せを体現したような味だった。それがこうも粗末に扱われている。踏みにじられた自分の幸せのようだった。


 咄嗟に、足が向く。

 持っていた杖で男の一人を打ち据えた。

 暴漢どもは、邪魔者の登場に、腕力で訴えようとしたが、ニックの後ろに屈強な護衛が何人もいるのを見て青ざめた。


「誰の許可を得て、こんな真似をしている?」


 「あれはトイ商会の旦那じゃないか」「そうだ、トイ商会のニックさまだ」「ここの商売を取り仕切っているのはトイ商会だ」……及び腰ながらも、周りの人間たちが口々に言う。

 乱暴者たちは、すっかり怯えた。トイ商会と言えば、国一番の商家であり、裏の社会にだって顔が効く。息子は国王の近くに侍り、その信頼は厚い。そこの当主に刃向うなど、命を捨てるようなものだ。

 あっという間に、男たちは逃げ出し、拍手が起こった。

 

 ニックは自分がラブリー夫妻を助けてしまったことに、舌打ちをした。よりにもよって、あの女の両親に情けをかけるなど。

 ラブリー夫妻は、ニック・トイが自分たちを助けてくれたことに、感謝した。中に入って、菓子を食べて行ってくれと言った。昔も今も、彼らに出来るもてなしは、それしかなかった。

 断るはずが、つい、誘いを受けてしまった。店内はかつての男爵家のような温もりがあったからだ。

 無事だった菓子は、昔と同じく、美味しかった。

 男たちがいなくなったのを見計らって、少女たちが顔を覗かせた。怖いことに巻き込まれないように、急いで菓子を買って出て行く。

 嫌がらせは受けていたが、その菓子を欲している客はいるし、潜在的な人数はさらに多いだろうことが分かった。

 ただ、これ以上、商売を続けるには、資金が足りない。

 彼らは新国王の祖父母なのに、まったく援助も受けていないと言う。「そうして頂く訳にはいきません」


「では、私が援助しましょう」


 ニックの申し出は、彼らの孫の国王の申し出と同じく丁重に断られた。だが、ニックは老練な商売人だった。


「なにも慈善事業をしようとしている訳ではありませんよ。

金を貸し、利息を取るのです。商売というのは、そういうものです」


 代わりに材料の調達から運営まで助力をしましょう、と言った。

 利息は毎日、取り立てにくるとも。

 ニックはわざと高い利率を設定した。これではいくら儲けを出しても、元本を完済するなんて望めない。そんな暴利だった。ラブリー夫妻は納得して、それを受け入れた。

 利息の取り立てをする男は、強面だった。

 なぜか、ラブリー菓子店が嫌がらせや恫喝を受けている時に現れ、「商売の邪魔をするな」と追い払った。ラブリー菓子店はトイ商会の取引先となった。彼らの商売を邪魔すれば、トイ商会の利益が減る。そう喧伝した。結果、嫌がらせはなくなった。そこからは大いに繁盛した。その内、ニックは新しい法律に抵触しているからと言って、利息を見直した。元本は支払われており、さらに過払い金まであったからと、その金は返却した。

 ラブリー夫妻は儲けの全てを寄付に回し、自分たちがやっと生きて行く分しか残さなかった。

 身を粉にして働き、ついに、その気持ちは孫である国王を動かした。


「明日、娘に会いに行きます」


「そうですか……」


 律儀な夫妻は、ニックにこれまでの礼と娘への面会が叶ったことを報告しに来たのだ。

 手土産に、あの菓子を持って。


「何か……伝言があれば……」


「何も」


「そうですか……」


「道中、お気をつけて」


 ロザリンドが軟禁されている田舎までは遠い。老夫婦には堪えるだろう。


「ご親切に、ありがとうございます。ニックさま」


 二人は仲睦まじく、腕を組んで退室した。

 ニックも玄関先まで送ろうと廊下に出た。

 そこに甲高い声が響く。


「あ~!

お菓子のおじいちゃんとおばあちゃんだ!」


 ニックの孫だった。確か、三番目。他の二人はニックを恐れて近寄ってこないが、この末娘だけは、愚かなのか、何度叱っても、彼にまとわりついてくる。


「おじいさま、お菓子、食べたい。私にもちょうだい」


 なんて躾のなっていない子どもなのだろうか。

 図々しいにもほどがある。

 

 娘が義父をまた怒らせるようなことをしているのを見つけ、アンジェリカが慌てて駆け寄ってきた。


「すみません」


 アンジェリカの謝罪に、ラブリー夫妻は相互を崩した。「いやいや。お土産にお菓子をたんともってきたからね。たくさんお食べなさい」

 やったぁ、お菓子だ! 少女はその場で跳ねた。リボンが揺れる。髪の毛は母親に似た黒っぽい茶色。瞳も同じような色だ。

 ジャックもやってきた。彼はなぜ自分の家に、王太后の両親が来ているのか気になっていた。

 

 ラブリー氏は若い家族を見た。

 それからニックを見る。


「お幸せですね」


 そうして、去って行った。


 ニックは……その場を動けなかった。

 末の孫娘がまとわりつく。


「ねぇ、おじいさま? お菓子はどこ?

一緒に食べましょう!」


「おやめなさい」


 アンジェリカは娘を引き離そうとした。ジャックは妻と娘を守ろうと進み出る。

 両親を探して、上の二人の子どもたちも来るが、ニックを見て、立ち止まった。


「菓子がある。皆で食べなさい」


 静かに、ニックはそう言うと、その場を立ち去った。


「おじいさま! ご一緒して、してくれなきゃ嫌!」


 末の孫娘の言葉を、振り切って、彼が駆け込んだのは、マーガレットのいる部屋だった。


「あら? どうなさったの?

あの夫婦は帰ったの?」


「ああ……」


「なんて?」


「――お幸せですねって……」


 ニックは呆然として言った。帳簿から目を上げ、マーガレットは夫の元に行った。


「なんですって?」


「私を……お幸せですねと――」


「ニック……」


「私は……幸せだったのだ……」


 彼を愛し、支えてくれたマーガレットがいた。

 立派な息子を持った。息子は妻を得て、子どもが出来た。

 彼は幸せな家庭を手に入れていた。

 

 その昔、自分は自分の父親を見て、なぜ母の献身に気付かないのだろうかと憤った。少し省みれば、その有難さ、すばらしさを知るのだろうに、と。

 ニックは父と同じ過ちを犯していた。


「私さえ、それに気づけば。私はなんて……幸せ者だったのだろうか。

なのに、その全てを、失ってしまっていた」


 あの女のせいで――とは言わなかった。

 

 マーガレットは何を今更、という気分になった。彼女は夫に愛想を尽かしていた。

 ただ、ニックはどうやら今までのことを反省しているらしい。ここで突き放すよりも、歩み寄って、残りの人生をかけて、贖罪させた方がいいと踏んだ。彼女にもロザリンドを陥れる片棒を担いだ負い目があった。それもこれも、自分はこの男を愛していたからだということを思い出す。これで今度こそ、この男を永遠に自分のものに出来るのだという、ほの暗い愛情の火が灯った。

 彼女はニックの肩を抱き、「今からでも間に合いますよ」と慰めた。

 ニックは彼女の胸に顔をうずめて泣いた。

 彼女はついに、ニック・トイを手に入れた。――思っていたのとは違うけど。あの女には勝った。それでいいわ。


 突然、いい夫、いい父親、いい祖父になろうなんて、虫の良い話ではあったが、トイ家のおしゃまな末っ子が、よい潤滑油となった。

 まず孫たちが祖父に懐き、アンジェリカも慣れた。ジャックも仕方がなく折れた。


 それぞれの思惑はどうであれ、ロザリンド・ラブリーが軟禁先の森の中、一人で冷たい湖に浮かんでから数十年後、トイ商会の寝台の上で、ニック・トイは妻と息子夫婦、多くの孫とひ孫に囲まれて、その”幸せな”生涯を閉じた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 周囲に振り回されて歪んでそれでも走り続けた先に孫や曾孫に囲まれた最期があるなら救いではないかと思う。たとえそれが初恋や最愛の人と結ばれた縁でなくても家族を持てる事は確かに幸福であると思う。…
2021/08/02 15:42 退会済み
管理
[良い点]  長編読みきった後こちらを読んでみたら、あのイケ好かないトイ商会の父親が主役!?と驚いたらまさかの彼女の元婚約者でしたか。  そりゃこんな仕打ち受けたらいくら穏やかな好青年でも歪みますよね…
[一言] しっかりとした文章で面白かったです。 ハーレークイン小説を日本語翻訳した感じというかプロの方が書かれているのかなという感じがしました。
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