7章
気付いた時には、部屋は暗くなっていた。
扉は閉まっている。
電気はついていない。
窓から差し込む光もほとんどない。
夜が来たのだ。
私はそっと布団を抜け出し、音を立てぬように扉を開け、耳を澄ませた。1階からは楽しそうな笑い声が聞こえた。でも時々、ふつりと笑い声は消え、そしてまた急に笑い声が聞こえる。
——その笑い声は、いつもよりも変に明るかった。
まるで、無理やり笑っているかのように……
その時だった。
あまりにも場違いな、つんざくような悲鳴が聞こえてきたのは。
(——何があったの⁉︎)
私は音を立てないように階段を降りていく。
開け放たれたリビングへの扉からは、聞きなれない男の声がする。
その扉から、部屋の中に入る。扉の近くには戸棚があって、中にいる人たちからしたら死角となる所から、そっと中を覗き込むと……
「————!」
何かよく分からない言葉を叫びながら、見知らぬ男がナイフを振り回しているではないか!
男は興奮しすぎてろれつが回らなくなっているようだった。何を言っているのかが全く分からない。
祖父母や両親、妹がすくみあがっている。
その時だった。
「——!」
男が何かを叫び、妹に斬りかかろうとしたのは。
「——やめて!」
ナイフが刺したのは……私だった。
妹は、私がかばったから無事だった。
背中の激しい痛みに、私は顔を歪ませた。
痛すぎて、声が出なかった。
その瞬間、私が死んだ人身事故の瞬間の記憶が蘇った。それがきっかけで、今までの記憶が走馬灯のように私の頭の中をよぎって消えていった。
私は、泣いた。
でも、それと同時に、笑っていた。
私は痛みに耐えきれなくて、私は自分の身体を抜け出した。
魂だけになってみると、視野が広がった。
男は突然の事に目を丸くしていた。
5人も目を丸くした。
男がハッとして、私の背に刺さったナイフを抜こうとする。
——やめて!
私は叫んでいた。
みんなを傷つけないで!
そして、それと同時に私は男に飛びついた。
「——うわっ!な、なんだ⁉︎」
奇跡的なことだった。私は魂なのに、こんなこともあるのだと思った。
男は、私に飛びつかれて動けなくなったのだ!
男は、暴れて拘束を抜けようとした。でも、私は絶対に放さなかった。
「——母さん!110番通報して!父さん!何か紐はない⁉︎」
父の声だった。
祖母は電話をかけ始める。
祖父はばたばたと出ていって、新聞を縛る紐を持ってきた。
そして父が男を縛り上げ、ひと段落ついた。
男は観念したのか、大人しく座っている。
「——はい、そうです。えっ、けが人ですか?」
祖母がこちらを振り返り、戸惑いの表情を見せた。父が首を振る。
「——いいえ、けが人はいません。はい……」
かちゃり、と祖母が受話器を置いた。
「これから警察が行きますのでって言われましたわ。……にしても……」
「あの言い伝えは、本当だったんですね……でなかったら、あの子がここにいるわけが……ないですもの」
妹はその場から動けないでいた。でも、私のことを——私の身体をぎゅっと抱きしめて、たった一言だけ、言った。
「ありがとう」
父が私の身体からナイフを抜いて、流しに置きに行った。
私は、自分の身体の中に戻った。
でも、いざ戻ってみると、身体が私を拒絶していた。私を必死に追い出そうとしていた。
『死んだ人の魂は、しばらくこの世に留まり続け、自ら去らなければならなくなった時に、自らの身体から去るだろう』
幼馴染が教えてくれた、言い伝えの一節を思い出す。
私は自分の身体から去らなければならない時が、きたのだと悟った。
今しか、ないと思った。
私は、妹から、離れた。
「みんな、無事でよかった……」
みんな、驚きで話すこともできないようだった。あたりに沈黙が流れる。
「私ね、こうやって話したり動いたりできるのは、もう最後だと思うの。今も私の身体は私のことを拒絶している……だから、最期にね、みんなに伝えたいの」
妹に触れて、自分の死を改めて実感した。
いつもは少し冷たく感じる妹の手が、とても温かかったのだ。
理由は単純。
私が死んで、冷たくなったからだ。
「私、みんなといられて幸せだった……時には心配させたり、困らせたり、怒らせたりしてごめんなさい。でも、私はみんなが大好きだった。だから、本当に幸せだった。……今まで、本当にありがとう」
「——お姉ちゃん!」
妹が私に抱きついてきた。
「いやだよ!お別れなんて、したくないよ!お姉ちゃん……!」
そっと、妹の頭を撫でる。
「私も、いやだよ。みんなとお別れしたくない。だけどね、いやでもお別れしなきゃいけない時が、絶対に来るんだよ。私が、たまたまそれが早かっただけで」
「でも……」
「私の手に触ってごらん」
妹は涙を拭って、私の手に触った。
「……どう?」
「……冷たくて、何だか……お人形みたい」
「でしょ?……私が死んじゃったことはもう、変えることができないんだよ」
身体の拒絶反応は、いよいよ激しくなってきた。もう、限界が近い。
「……一緒においで」
「……どこに?」
「布団のある部屋にだよ。多分もう……お話しできなくなるから。動くことも、できなくなるから……」
私は歩き始めた。全身を針で貫かれるような痛みに耐えて、階段を登る。妹は素直について来る。その後に続いて、みんなやってきそうになったが、そこでインターホンが鳴る。警察が来たのだろう。それで、妹だけがついてきた。
私は、布団に入った。妹はそれをじっと、暗い部屋で見ていた。
「私……もう、この身体から、でなくちゃいけない……ねえ、約束して。これからは、私の代わりに、お父さんや、お母さんを助、けて、頑張、るって。もう、私は、何も、できな、いから……」
「うん、約束するよ」
妹は即答した。
もう目を開けていられなくて、目を閉じた。
「……さいご、は、えが、おでさ……おわかれ、しようよ……今ま、で、わたしは、たのし、かったんだよ。しあわせ、だった、んだよ。だか、ら、わたし、わらっ、て……さよな、らって……いい、たいんだ」
「……うん……」
妹は泣きじゃくりながら、言った。
目頭が、じんわりと熱くなる。
「お姉ちゃん……またね」
「……また、ね……いま、まで、ほんと、うに……」
ありがとう、と言いたかった。
でも、もう限界だった。
私は身体の外に弾き出され、もう、いくら戻ろうとしても戻れなかった。
「お姉ちゃん?……お姉ちゃん!ねぇ、なんて言おうとしたの⁉︎」
ごめんね、と呟いた。
誰にいくら問われたとしても、もう私には答えられないのだ。
「お姉ちゃん……やっぱり、無理だよ……」
歪んだ笑顔で、妹は言った。
「私には、笑顔でお別れなんて……できないよ……」
もう、妹は笑ってはいなかった。
「……お姉ちゃん!」
妹は私の身体にしがみついて、大声で泣いた。何事か、と下から両親と祖父母、警察までもがこの部屋にやってきた。そして、4人は泣きわめく妹を見て全てを悟ったのか、そっと手を合わせて佇んだ。訳のわからない警察だけが、そこに呆然として立っていた。
私は自分の顔を見て、はっとした。
その顔は笑顔だったけれど、よく見ると一筋だけ、涙が流れていた。