六、老婆、再び
六、老婆、再び
夕暮れとなり、ラーサは、広場から足を止めずに、リーン邸の正門まで、小走りで、駆け込んだ。斜陽が射すまで、眠りこけて居たので、優勝者予想の受け付けに、間に合わないと思ったからだ。そして、門柱の傍で、立ち止まり、呼吸を整えながら、優勝者予想の受付場所を探した。間も無く、左手に、十数人ほどの行列が、視界に入った。そこへ、静静と歩み寄り、最後尾へ付いて、安堵した。辛うじて、間に合う事が出来たからだ。しばらく、ぼんやりと順番待ちをした。それから、何事も無く、自分の前に、六人という所で、乾いた聞き覚えの有る音が、背後からして来た。その瞬間、思わず、身震いした。昼間に見掛けた禍々しい身形の老婆の姿が、思い返されたからだ。その直後、後ろを見やった。案の定、昼間見た老婆だった。
老婆が、西日を背に受けて、杖を突きながら、近付いて来た。
ラーサは、すぐさま、前に向き直り、老婆を見ないようにと、俯いた。老婆の身形が、どうしても、恐いからだ。少しして、気配を右側に感じるが、すぐに、過ぎ去った事を感知した。そして、徐に、顔を上げると、眼前に、些か丸まった老婆の背中が見えた。その瞬間、胸を撫で下ろして、一息吐いた。広場で会った事など、覚えていない様子だからだ。程無くして、老婆から視線を逸らして、素知らぬ顔で、順番を待った。
突然、「婆さん、あんた、気でも狂ったのか!」と、広場で聞いた事の有るどすの効いた男の声が、受付の方からして来た。
ラーサは、その方へ、視線を向けた。すると、その先には、自分が耳を直立させても頭一つ分出るくらいの背丈の有る頭髪の無い筋肉質の大男が、受け付けをしている丸顔の男の右隣で、言い争っているのを視認した。その動向が気になり、ついつい見とれた。
「うるさい! わしは、ヤマヤマキ族の戦士である息子に、賭けるんじゃあ!」と、老婆が、左手の杖を振り上げながら、語気を荒らげた。
「へ、そうかい、そうかい。俺が持ち掛けた話は、無駄だと言う事だな。分かったよ。勝手にしな! じゃあ、さっさと掛け金を寄越せ!」と、大男が、憮然とした顔で、右手を差し出して、催促した。
少しして、老婆が、右手で紙の束を取り出すなり、「ふん!」と、大男の右手へ、叩きつけるように、差し出した。
「おっと!」と、大男が、受け取り、「婆さん、後悔するんじゃねぇぜ」と、告げた。
不意に、「お客さん、バニ族のお客さん!」と、男の呼び掛ける声がして来た。
その刹那、ラーサは、はっとして、すぐさま、受付の方に、向き直った。すると、いつの間にやら、自分の番が、来ていたからだ。そして、「す、すみません…」と、間髪容れず、丸顔の男に詫びた。
「後の段取りが支えているんだから、ぼんやりしていないで、早く、誰に賭けるのか、決めてくれ」と、丸顔の男が、右手の親指を立てて、背後の赤の顔料で押し当てた手形の付いた八枚の薄茶色い半紙を貼った板を指しながら、急かした。
その直後、「は、はい!」と、ラーサは、慌てて、半紙を見回した。しかし、迷いが生じた。手形だけでは情報不足なので、広場で聞いた話が参考にならないからだ。
「お客さん、もうじき、大会が始まりますので、早くして下さいよぉ」と、丸顔の男が、追い打ちを掛けるように、再び、急かして来た。
その瞬間、ラーサは、華奢で貧相な手形を視認した。その直後、咄嗟に、右手で指すなり、「その小さい手形の方に、賭けますわ」と、告げた。妙に、惹かれたからだ。
「よし、八番ね。で、お客さん、幾ら掛けるんだい?」と、丸顔の男が、愛想の良く尋ねた。
ラーサは、手提げ鞄を台の上に置くなり、口を開いて、両手を中へ入れた。少しして、革の小袋を取り出し、右手で、一枚の百リマ金貨を抜き出した。そして、「これで」と、丸顔の男へ差し出した。
次の瞬間、「え? これを?」と、丸顔の男が、面食らった顔で、問い掛けて来た。
「ええ…」と、ラーサは、何食わぬ顔で、すぐに、頷いた。現在の持ち合わせが、百リマ金貨しかないからだ。
その途端、丸顔の男が、満面の笑みを浮かべるなり、「ちょっと待ってて下さいね」と、先刻の態度とは打って変わって、丁重な態度に変わった。少しして、半紙の四分の一くらいの大きさの紙を差し出して来た。そして、「この紙は、リーン邸武術大会優勝者投票券ですので、大会が終わるまで、大事に持ってて下さいね。予想が外れた場合は、破り捨てても構いませんが…」と、にこやかに、説明した。その刹那、「会場は、あちらの小道を通って、中庭へ出て、すぐですよ」と、機嫌好く、左手で、その方を指した。
ラーサも、指す方を向いた。すると、植え込みに挟まれた人が擦れ違える程度の幅広い赤煉瓦の遊歩道を視認した。そして、丸顔の男に向き直り、「ありがとうございます」と、礼をのべた。その直後、革の小袋と投票券を手提げ鞄へしまうなり、取っ手を持ちながら、一礼をした。同時に、老婆の居た場所を一瞥した。だが、姿は、もう無かった。それを視認するなり、頭を上げて、右を向いた。少しして、遊歩道へ歩を進めるのだった。




